8.幽霊をぐーで殴る先生

『秋野ちゃんニーミちゃん、お待たせっ』


 私とニーミを囮にしてくれた割にとってものんきな鏡子さんの声は、教室一面から響いた。と同時にだいぶ暗くなっていた教室内に電灯がつき、スピーカーから曲が流れ出す。

 ええと、この曲は……ありゃ、もしかしてルーじゃなくてあーちゃん? って、ピアノだけじゃイマイチ迫力ないよ。そもそもこの曲、ピアノ用じゃなかったような。何かのテレビで聞いたことあるけど。


『レクイエム・ディエスイラエ……怒りの日、だったかしら? ピアノだといまいちねえ、今度CD持ってきて覚えてもらおうっと』


 とっても脳天気におっしゃる鏡子さんはどこにいるんだろう、と思って周囲を見回してみて納得した。

 銀の髪を持つお姉さんは、教室の窓ガラス全部に分身状態で映ってる。外は暗くなってきていて、明かりがついた室内からだとガラスは半透明の鏡っぽくなっていた。その中に、鏡の付喪神はご登場なされていたのだ。なーるほど。


『おねーさまは怒ってますよ~? うふふ、ご入場でーす』

「余計な演出はしなくていい、鏡子」


 鏡子さんとよく似た、でもまるで違う口調の声が入口からした。

 無造作に扉を開けてかつかつと足音高く入ってきたのは、これまた鏡子さんとそっくりの、こちらは真っ黒な髪を無造作にひとまとめにした赤っぽい目の女性。

 鏡子さんいわくの『プロフェッショナル』で『おねーさま』、幽霊を拳で殴り飛ばせる我が担任にして『学校研究同好会』顧問こと三段壁映先生である。


『ああらおねーさま、ごめんなさあい。後はよろしくお願いしますねえ』

「言われずとも。そのためにここに来た」


 おっとり口調の鏡子さんと、ぶっきらぼうな話し方をする先生。

 この2人、口調はともかく姿が似ているのには理由がある。

 鏡子さんの本体である鏡は、昔から先生の家にあったもの。付喪神が生まれる時に鏡を見ていたのが先生その人だったので、その姿を借りて今の姿を作ったのだという。色までは真似できなかったそうなんだけどね。

 だから、鏡子さんにとって先生は見本となった、本当にお姉さんなのだ。先生が鏡子さんの本体を学校に持ってきたのは、……何やら見張りがどうとか言ってたっけか。夜間の見回りに妖怪さんや地縛霊さんは最適だとか何とか。

 何を言っているんだろうと話を聞いた当時は思ったけれど、ルーの防犯ベルの話なんかを聞いた今となってはたしかにそうだな、と納得してしまった。いや、納得したらだめじゃん。

 それはともかく。


『だ、誰だ!』

「お前みたいなどあほうのケツをぶっ叩く役目を押し付けられた、つまらない女だ」


 音響効果のせいかびくびくと床にうずくまる相手を、ぎろりと威圧感のある目が見下す。う、宿題忘れてにらまれるあの目だ。先生にとっては、宿題を忘れた生徒を叱ることと馬鹿幽霊を退治することはイコールらしい。

 で、その目のまま先生はこっちを見た。それから、おおげさにため息をつく。


「水無瀬、またお前か。まったく面倒ごとをしょい込んでくれるな」

「ご、ごめんなさい、先生」


 特に怒った口調でもないのに、思わず縮こまる私。だってこの先生、怒らせるとすっごく怖いんだもん。それに、面倒を先生のところに持ち込んだ自覚はそれなりにあるからなあ。というよりは、自力で解決できないような問題をどうにかしてくれそうな人を先生しか知らないから、なんだけど。

 私に向かって先生が手を伸ばしてきた。殴られる、と思って首を縮めた私の頭を……


「まあいい。こいつの存在はつかんでいたんだが、今までしっぽを押さえることができなかったこちらにも責任はある。今回はそれとその石ころに免じて許す」


 ……先生の手のひらが、不器用にクシャクシャとなでてくれた。へっと思った私の肩の上で、ニーミが必死でいやいやしているのが分かった。そっと触ってみた全体がほんの少し湿り気を帯びているのは、この子が泣いているってことだ。あーあ、お子様泣かせちゃった。相手が妖怪でも自己嫌悪しちゃうなあ。


「……はい。ニーミ、ごめ……」

『んだよー! かーちゃんが危なかったの、センセーのせいかよ! あほー、もうちょっと早くこいよなー!』

「そのとおりだ、石ころ。だから、こうやって出てきた」


 ……ああ、元気だ。謝る必要なかったか、って思うくらいぎゃーぎゃーと泣きわめいているニーミを指先で軽くつついて、それから先生は下着泥棒を振り返った。あ、何か全身から怖い気が立ち上っている……うわあ、出た。お仕置きモード。


『な、何だ何だみんなして! 僕と四ッ谷さんの愛を妨害する気か!』


 モードチェンジした先生にビビりつつ、下着泥棒はなおも自己主張続行。さすがにこれ以上は先生が爆発する、逃げようと思ったその時、先生はゆっくりと口を開いた。


「あいにくだが、私の妨害よりももっと大きな壁があるぞ。それも2つ」


 びしり、と立てられた指2本。白くてしなやかな先生の指は、それ自体が凶器だ。以前、あの指先で両眼を突かれてびくんびくんとひっくり返ってた妖怪がいたっけなあ。


「1つ。四ッ谷佳織はお前に好意など持っていない。そもそも、お前が彼女とまともに顔を合わせたのは、彼女の家に不法侵入したあの夜が初めてで、そして最後だろう。何しろそれまでは、お前が勝手に遠目で彼女を見ていただけだったからな」


 あ、ズバリと言ってのけた。下着泥棒がぎょっとしたところを見ると、先生の指摘は間違いなさそうだ。何でそれで、相手も自分にほれてるなんて大きな誤解できるかなあ。ストーカーってよく分からん。

 というか、最後って。


「2つ。お前はあの晩に逃げ込んだこの学校で生命を落とした、つまり死者だ。しかし、四ッ谷佳織は死者ではない。この違いは大きい」

「へ?」

『……え?』


 けど、続けて先生が放った言葉に、私と彼はぽかーんとなってしまった。だって、四ッ谷さんは幽霊になっているのに。


「病院に確認は取れている。四ッ谷佳織は転落事故で大したケガはなかったが、意識が戻らないまま現在も六角病院に入院中だ。だから、高校も休学中になっているだろう。一橋から聞かなかったか? 水無瀬」

『え……え? そうなんですか?』

「あ、そういえばメールでそんなこと書いてましたっけ……」


 あはは、私も岬のメール読んだ時に気づいてればよかったんだけど、四ッ谷さん自身も分かってなかったみたいだ。よく、事故死した人なんかは自分が死んだことが分からないなんていうけれど、その逆もあるんだ。うん、覚えておこう。


『ちょ、ちょっと待ってくれよ! それじゃあ、今ここにいる四ッ谷さんは一体……っていうか、何で死んでないんだよっ!?』

「ああ? この四ッ谷佳織はいわゆる生霊というやつでな、意識が戻らないのはこいつが自分の身体に戻っていないせいだ。それと何故死んでいないかだが……お前、あの部屋に窓から侵入したのだろう? ならば、分かるはずだが」


 ちらっと下着泥棒を見た先生の目は、氷みたいに冷たい。びくっとひるんだ彼には視線を合わせずに、先生は淡々と言葉を続ける。


「四ッ谷佳織の部屋は、アパートの2階だ。その構造上この男のようなどん亀でも、その気になれば雨樋などを伝ってベランダから侵入できる。防犯には気をつけるように」

『あ……は、はい』

「さらに、落下地点は植え込みの真上。季節は夏で、葉がしっかりと生い茂っていた。よほど運が悪くなければ、死にはせんだろうな」


 ――あー。

 そう言えば、夢で見た下着泥棒さんは運動しているようには見えなかったな。しまった、そこで気がつくべきだった。高層階なら、ロープとかお隣の合い鍵とか準備してこなきゃ窓側からの侵入なんて無理なんだって。テレビの防犯特集でやってたの、なんとなく見て覚えてたんだ。


『え? でも、それじゃあ僕は……』

「生前からの無駄な努力を、死んでなおさらに無駄に積み重ねてきた大馬鹿者だ。おとなしく消えろ、今なら向こう側に送る手はずは整えてある」


 彼にそう言い放ち、先生はすいと指で空中に線を引いた。私は詳しいことは知らないけれど、クジとか何とかいうおまじないを自己流にアレンジしたものらしい。そのおまじないを使って先生は、幽霊をやっつけたり妖怪をいじめたりする。手のひらの上のニーミがびくっと反応したのは、こいつも一応妖怪だからだ。生理的に怖いらしい。


『む、無駄だって……そんなことはない!』


 あ、立ち上がった。いい加減にして欲しいな、ほんと。こっちだって、好きで四ッ谷さんに身体に入られてるわけじゃないんだから……って、何でこっちに向かってくるの!?


『四ッ谷さん! どうせなら、一緒にあの世で幸せになろう! それが君のためだっ!』

「……っ!? 水無瀬!」


 て、ちょ、マジ!?

 いきなり、彼にしがみつかれた。先生もおまじないに精神集中していて、一瞬だけ反応が遅れた。そのまま私は、積み上げられた机と椅子の山へと彼に押し込まれて……


『だから、かーちゃんに何すんだっ!』


 ……泣き叫びと共に伸ばされた、白い腕の中にもぎ取られるようにすっぽりと収まった。

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