9.誰かのピンチにお約束

「はへ?」


 ええと、一体私の身に何が起きたんだ。とりあえず、ほこりだらけの机や椅子の雪崩に巻き込まれなかったことだけは確実だけど。

 何だ、この妙に固い、だけどしっかりした腕は。


『な、何だお前! 四ッ谷さんから離れろ!』


 向こうで、下着泥棒が怒鳴っている。私にでも、先生にでもない。どうやらこの腕の、持ち主にらしい。


『やーだね、てめーこそあっち行け。ほれ、あの世の門が開いてるぞー』


 それに答える声は、私がいつも聞き慣れているちびすけの声だった。だけど、その声は私より上から聞こえてくる。これって何だ。夢か。いや、でもたった今ぶつけた肩が痛いから、これは現実らしい。


「よくやった、石ころ! 水無瀬をそのまま確保しておけ!」

『分かってる。せんせー、鏡子ねーちゃん、頼む!』


 三段壁先生の声が、何だか妙に弾んでる。楽しそうにだんと足を踏み出して、今度こそ幽霊さんに対してクジの線を引き終えた。途端、生徒会長の身体がびしりと固まった。中に入ってる下着泥棒さんを固められちゃったんだな。

 それにしても、このニーミの声はどうしたことだろう。私をしっかりと捕まえている触ると固いこの腕は、まさかとは思うけど。……もしかして、私は現実逃避しているんだろうか。


「これが私の仕事だ。七山和夫、お前の行くべき場所はあの向こうだ……鏡子、任せた」

『はあい。おいでませえ、冥府の門!』


 先生の指示を受け、鏡子さんはいつもの口調のままで、こういう時に使う呪文らしい言葉を唱えた。途端、下着泥棒さんの背後にもやもやと暗闇が立ち込めて、その中にどんと重厚な門扉が現れる。簡単に言えばこの世とあの世を結ぶ門だ、と言っていたのは先生だったっけ。

 時々先生、自分の使える力や鏡子さんの力のこといまいち分かってないんじゃないか、と思うことがある。ちゃんとご実家で勉強し直したほうがいいと思うのは、私だけじゃないと信じたい。

 ぎい、ときしむ音を立てて扉が開いた。途端、激しい風が下着泥棒さんをごうと包み込む。何でも悪霊専用の掃除機みたいなもんで、人間とかに取り憑いてても霊だけ引き剥がせる風なんだという。

 実際、私や先生にとっては大した風じゃないし。私を抱きしめたままの腕の持ち主にもあんまり効果はないっぽいので、本当に悪霊専用なんだって分かる。

 ……この腕の持ち主が、本当にニーミならなんだけど。


『ぎゃああああ! い、いやだあ! まだ死にたくねえ!』

『だーかーらー、もう死んでますってばあ』

「全くだ。とっとと行け」


 それでも悪あがきをする下着泥棒の髪を、先生が無造作に掴んで引っ張り上げる。途端、生徒会長の身体からぺろんと紙が剥がれるように半透明のひとが外れた。あー、これが本来の下着泥棒さんか。うん、写真や夢で見たあの顔のまんまだ。生徒会長の方は床にべったりと倒れて、ピクリとも動かない。大丈夫かなあ。

 先生の手にぶら下げられた下着泥棒さんはじたばたもがいているけれど、それで先生の手が外れるわけがない。多分彼からは見えないけれど、先生はとっても楽しそうににやありと笑っている。うわあマジ怖い。


『た、た、たすけてええええええ!』

『あきらめてくださあい。おねーさまにとっ捕まった時点であちらに行くか、消えちゃうかの二択なんですよう』

「うむ、そこに入れば私からは助かるぞ。向こうで何が起きても、それはお前の自業自得だ」


 けらけら笑う鏡子さんとぽかんとしていた私の目の前で、先生にぽいと放り投げられた半透明の下着泥棒さんはぎゅいんと扉の中に吸い込まれていく。そうして一瞬の後、ばたりと扉は閉められた。


『はあい、お疲れ様でしたー』


 ぱん、と叩かれた鏡子さんの手の音と共に、大きな扉はゆっくりとその姿を透明にしていって、暗闇ごとしゅぽんと消えた。あまりにあっけなくて、私はほんの一瞬、自分の状況を忘れた。




『かーちゃん、終わったぜ。だいじょぶか?』


 そう言われて、慌てて声の主の顔を見上げる。

 造形だけならそれは、CDジャケットで見慣れている歩人の顔だった。ただし、髪も肌も目も白い石の。

 私を抱えてくれてる腕も、その上になぜか着ている服もやっぱり白い石。それに、声は聞き慣れたそのままだったから、私がこいつを間違えるはずはなかった。


「ええと……ニーミ?」

『おう』


 にか、と笑うその笑顔も、歩人のものじゃなかった。歩人はもうちょっと奥ゆかしいというか、照れ笑いをするんだもん。

 ……まあ、そこまで歩人を真似ろとは誰も言ってないし。こういう笑い方のほうが、ニーミには似合ってるなと自分を納得させた。その前に私は、ニーミの『表情』というものを初めて見たんだけどね。


「水無瀬」

「あ、はい」


 呼ばれてはっと振り返る。そこには三段壁先生と、その足元でやっぱりどでーんと倒れたままの生徒会長の姿があった。鏡子さんの姿はどこにもなくて、先生がひっくり返してくれた生徒会長の顔は普段の感じに戻ってる。

 そっか、終わったのかとほっとした途端、先生はいつもの口調で私に言った。


「お前の中に四ッ谷佳織がいるな。出せ」


 出せ、ですか? それって身体の外に出せってことか、それともいわゆる乗っ取り状態にしろってことですか、と問いただす間もなく、私は後者の状態になってしまった。つまり、表に四ッ谷さんが出てきたわけだ。


『……はい』

「元1年B組、四ッ谷佳織で間違いないな?」

『はい。ご迷惑をお掛けしました、三段壁先生』


 先生の問いに、四ッ谷さんは素直に頷く。ああ、四ッ谷さんも先生のことは知ってたのか。いや、ベランダから落っこちた後何故か学校にいたらしいから、それで覚えたのかもしれないけど。


「お前が入院しているのは六角病院、251号室だ」

『はい、ありがとうございます』


 ぽん、くしゃくしゃくしゃ。

 こういう時は、ほんとに先生は不器用だ。大型犬を乱暴になでるみたいに私の、というか四ッ谷さんの頭をくしゃくしゃにして、にこりとも笑うことなくあごをしゃくってみせる。


「早く行け、入院費用がかさむと親が泣く」

『せんせ、それ泣く意味が微妙に違わねえ?』


 私を白い腕で抱きしめたままのニーミが突っ込む。む、と眉をひそめた先生と、私の頭の上を通してにらみ合うのはやめて欲しい。ほら、四ッ谷さんも口には出さないけれど困ってるじゃないの。


「何を言う。保険金が戻ってくるかも知れんが、少なくともそれまでに家計に及ぼす影響は大きいぞ」

『そうかもしれねーけどよ、早く目を覚まして親を安心させろとか普通は言うだろが』

「私にそのようなセリフが似合うとでも思ったか? 石ころ」

『………………思いません』

「分かればいい、ちびすけ」


 しゅん、と凹んだニーミの頭を、先生が軽く握った拳でこつんと叩いた。石なので本当にこつん、という音がするのは少しだけ笑える。というか、人間サイズになっても先生にとってはちびすけなんだなあ。


『……あの、この人っていつもこんな感じなんですか?』


 ニーミと先生のやりとりを聞いていると、四ッ谷さんがおろおろした感じで私にたずねてきた。「そうよ、先生はいつもこんなもん」と答えて、それから付け加える。


「あれでも先生、四ッ谷さんのこと心配してるんだよ」

『はい、それは分かります』


 うん、と彼女がうなずいてくれた次の瞬間、私の中から何かが抜けて出た。はっと目をこらして見ると、私たちと先生の間に、長い髪のはかなげな女子生徒が立っているのが分かる。ああ、これが四ッ谷佳織さんなんだ。私とちーっとも似ていないぞ、あの下着泥棒め何で間違えるかー!


『あー、あーちゃんが言ってた外見どおりだなあ。あんたが佳織か』

『はい。お母様にはご迷惑をおかけしました』

『いや、もーいいや。素直に出てってくれたし、かーちゃんケガしてないし』


 ええいニーミ、のんきに四ッ谷さんと会話するな。それと四ッ谷さん、平然と私のことをお母様呼ばわりしないでください。これでも花の女子高生なんですから……死語だけど。

 そこへ、三段壁先生が歩み出てきた。四ッ谷さんは先生と顔を合わせると、軽く頭を下げる。ああ、先生も満足そうに笑ってるな。ああ、良かったあ。


『……すみません、お世話になりました』

「よし。戻るな?」

『はい』

「ではさっさと帰れ。母親が面会に来ているはずだから、目を覚ましたらまず謝罪しろ」

『分かりました。迷惑をかけたのは事実ですから……それでは、失礼します』


 深々と頭を下げて、四ッ谷さんはぽん、と音を立てるようにその場から消えた。あ、いや、音がしたのは私の頭の後ろからだ。って、音源はニーミか?


『わー、またかーちゃんでっかくなったー!』

「何だ、親の危機に一気に成長するお約束パターンかと思ったが。一時的なものだったか」


 半泣きのニーミの悲鳴と、呆れたような先生の声をステレオで聞きながら足元に転がったはずの石を探す。ああ、あったあった、見慣れた白い色の小石。


「……あれ」


 それをひょいとつまみ上げて、私は間の抜けた声をあげてしまった。

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