30-3 : 昏き瞳の開くとき

 ――。


 ――“宵の国”、中央……“淵王えんおう城”、玉座の間。


 この世の最果て。世界から切り離された場所。黄昏たそがれの光が差し込むだけの物静かなその地で、くずおれた“明星のシェルミア”は静かに泣いていた。


 誰のための涙なのか、何のための涙なのか、それすらもう分からないまま、シェルミアは多感な少女のように頬をらし続ける。



「……」



 そんな彼女の姿を、壇上の玉座から何も言わずに見つめている者がいる。


 “宵の国”の絶対君主にして、神代より続く巫女みこ……“くらふちの者”――“淵王えんおうリザリア”である。


 大理石のような白い肌に、それにも増してなお白い頭髪の上に王たるあかしの冠を頂く。幼い顔に無表情を貼り付けて、左手で頬杖を突いたリザリアが、金色の瞳をシェルミアに向けている。



「……涙は、止まらぬか。シェルミア」



 感情の欠落した声で、魔族の王が問いかけた。



「……っ……」



 シェルミアは、ただその言葉にうなずき返す。


 解けた長い金髪の中に混じる黒いものは、禁呪にその身をいたあかし。


 美しく澄んだあおい右目と、一時の超越の代価としてあおを失った上にトカゲの目のように瞳孔を変形させた左目――その双眸そうぼうからあふれて止まらない涙が、声も息も押し潰す。



「っ……玉前での、無礼……面目、ありません……“淵王えんおう”……」



 精一杯に嗚咽おえつみ殺すシェルミアの声は、彼女自身を含めて、もうこの世の誰にも理由の分からない悲しみで震えていた。



「構わぬ。“原初の闇”が、余をあやめんとした存在を歴史の上から消してもなお、涙が枯れぬと言うならば、流るるに任せておけば良い」



 ふっと、リザリアは何かを思うように嘆息する。



はるか太古に“くらふちの者”として感情を葬った余には、それはもうかなわぬものゆえ……清いものでありこそすれ、無礼などではない」



 全てを深淵しんえんの果てへみ込み、歴史をすら改竄かいざんする“原初の闇”――そこへ何者を葬ってきたのかを理解するリザリアは、しかし一切の口を噤んで語らない。


 決して滅することのできないその闇を己の感情と引き換えに封じる王の、それが義務であり、とうに消えた情念の名残だった。



「“淵王えんおう”……貴女あなたに、ゴーダ卿たち守護者が忠義を尽くす理由……今の私には、よく、分かります……」



 泣き崩れるように、頭を垂れるように、シェルミアは深く深く顔を伏せた。



「……しかり。余は“淵王えんおうリザリア”。この魔族の地、“宵の国”の王である。それ以上でも、それ以下でもありはせぬ」





 ***



 それからどれだけの涙が流れたろうか。


 あれからリザリアは一言も口にせず、因果ア■ンゲ■ルを失い片割れの存在となったシェルミアが泣きむのをいつまでも待った。


 やがて、シェルミアが自らの足で玉座の間に立ち上がるのを見届けて、リザリアは能面のような口許くちもとにほんの……ほんのわずかだけ、形ばかりの微笑を浮かべる。



「……ゆくか、“明星のシェルミア”よ」



 魔族の王から名を呼ばれた人の子は、もう悲しみに暮れてはいない。



「はい」



 シェルミアははっきりと、ただ一言だけそう言った。



「人の王に届き得なんだその器をもって、何処どこへゆく?」



「ただ、友の下へ。私を待っていてくれる、大切な人たちの所へ」



 これまで終始、てつくような貴さをたたえて言葉を紡いできた“淵王えんおうリザリア”との問答は、今は静かで温かい。



「友と、大切な人と呼ぶその者らを従えて、汝は何をす?」



 リザリアに問われたシェルミアは、首を横に振る。



「従えなど、しません。私は、全てを失った、何も持たないただの女です。私は皆の横に並んで、歩いていきます」



 それを聞いたリザリアが、優雅にやんわりとうなずいた。


 ……。



「シェルミア――その先に、何を望む?」



 そして、最後の問いを受けて宵の玉座を見上げた“明星”の目に――迷いは、ない。



「……たとえ何もなくなってしまっても……たとえ永遠にかなわないのだとしても……私のこの願いだけは、ずっと、変わりません」



 ……。


 ……。


 ……。



「――誰も悲しまない、幸せな世界でありますように」





 ***





「――む」



 リザリアの金属光沢を放つ瞳が怪訝けげんに細められたのは、それから間を置かずのことだった。


 とうとき者の視線が、玉座の間の端、黄昏たそがれの光のそそがない闇を射る。



「……“淵王えんおう”? どうなされ――」



 左手で頬杖を突いたまま、リザリアが右手を軽く挙げてシェルミアの言葉を切る。



何故なにゆえ……“それ”が残っておるか」



 “淵王えんおう”の無感情な声に、刺々とげとげしいものが混じる。



「余の“原初の闇”でもって、まがしくかなしきの者はくら淵底ふちぞこへとせた――何故なにゆえぞ」



 黄昏たそがれの光が、リザリアの言葉に合わせて闇を照らし出していく。



「“人の呪いが造り得たその剣”……何故なにゆえいまだ余の前へ醜い姿をさらしておるか」



「……」



 その声が指し示す先へ向かって、シェルミアがゆっくりと振り返る。


 由来の分からない胸騒ぎが、止まらなかった。


 ……。


 ……。


 ……。


 一振りの、真紅に塗り潰れた剣が在った。


 静止と静寂に満たされた、この世の果てたる玉座の間に相応ふさわしからざる、 禍々まがまがしい剣。


 それを生み出した者は――凶王の器を抱いて生まれた、かつてのシェルミアの片割れだった人は、もう歴史上に存在しない。


 ならば凶王の器の具現たるその呪剣もまた、そもそも初めから在りはしないが道理。


 しかし、その道理をすらねじ曲げて、血にただれた剣は事実、シェルミアたちの目の前に存在していた。


 ――“人造呪剣ゲイル”。



「これ、は……この剣は……?」



 シェルミアには、それが何なのか分からない。本来それは、夢にすら見るはずのない、“原初の闇”に消された歴史にしかなかったもの。



「シェルミア。下がっておれ」



 宵の玉座に身を沈めたまま、リザリアが有無を言わさず命じた。



其処そこつるぎは、既にこの世との因果を断ち切られたもの。在ってはならぬものぞ。近寄るでない……この場、余に預けよ」



 リザリアの言葉に、シェルミアはただ従うほかにない。


 後ろへ下がったシェルミアの視界。その両端に、“淵王えんおうリザリア”と“人造呪剣ゲイル”が鎮座する。


 絶対的にとうとき存在と、どこまでも邪悪な剣の対峙たいじ……まるで、神話の一場面を間近に見ているよう。



「……うぬの主は、もう在りはせぬ。いつまで、この世の未練にすがり付く。いつまで、既に消えた因果に絡み付く……」



 呪剣に向けて語りかけるリザリアの声音は、罪人を裁く王の声。


 その言葉に、剣が語り返すはずもなし。



「その有りよう、まこと見苦しい……――消えるがよい」



 左手で頬杖を付き、右手で指差し、“宵の国”の絶対君主は罪に塗れた呪剣を断じた。


 ……。



「……!」



 シェルミアが、固唾をむ。


 黄昏たそがれの光が闇に塗り潰れ、金に輝く二つの瞳だけがそこに浮かんだ。


 永遠の闇が、意思を持った闇が、密度を増していく気配を感じる。


 あらゆる感覚、あらゆる情報、あらゆる存在をみ尽くし、“くらふちの者”が命ずるままに、純然たる「消滅」が呪剣へと降り注ぐ――。


 ……。


 ――ドカッ。ドカドカッ。


 ……。


 ……。


 ……。


 この世にあらざる真の闇の向こうから、何か鋭い物音が聞こえた。


 ……。



「……? “淵王えんおう”……?」



 かつてシェルミアが投じられた、“闇流し”という名の暗黒の牢獄ろうごく……そんなものとは比べものにならない、己の存在まで忘れ果てそうな淵闇ふちやみに向かって、彼女はとうとき者の名を呼んだ。



「“淵王えんおう”! お声を……お声をお返し下さい! “淵王えんおう”っ!」



 ……。


 ……。


 ……。



「……シェルミア……二度三度と呼ばずとも、余の耳には届いておる……」



 闇の果てからリザリアの声があり、それに合わせて黄昏たそがれの光が再び玉座の間へ差し込み始める。


 少しずつ……少しずつ、最果ての場所に、輪郭が浮かび上がっていく。


 玉座の形が現れ、その上に金色の双眸そうぼうが開いた。



「“淵王えんおう”……!」



 シェルミアが、玉座の下へ駆け寄ろうとしたとき――。



「シェルミアよ……余は、二度は言わぬ」



 リザリアが、短くそう言った。


 それが指す意味を――「此方こちらに来るな」という言外の言葉を瞬時に理解して、シェルミアの足が止まった。


 ……。



「……よもや……」



 ……。



「よもや……斯様かよう真似まねを働くか……」



 ……。



「余の治世の代にあって……かつてないことぞ」



 ……。



たて突いてみせるか……この、“原初の闇”に……理不尽の極みに……」



 ……。


 黄昏たそがれの光が照らし出した先で……“原初の闇”から脱した呪剣の生やしたとげが、リザリアを幾本にもめった刺しにしていた。大理石のように真っ白だった“淵王えんおう”の口許くちもとに、真っ黒な血の筋が流れ落ちる。


 ――ジャリンッ。


 ジャリンッ……ジャリンッ!


 そこから、続けざまに。


 “人造呪剣ゲイル”の投げ伸ばしたとげの根元から、いばらのように無数の針が突きでる。それは先端リザリアに向かって次々と飛び出していき、とげに刺されても動じずにいた“淵王えんおう”の小さな身体を、無残に貫き尽くした。


 身体の内より蜂の巣にされたリザリアが、全身にいた傷穴から真っ黒な血を勢いよく噴き出す。



「あ……っ!」



 一瞬の出来事だった。余りにむごたらしい様を目にして、シェルミアが思わず両手で口を塞ぐ。



「……」



 装飾を廃した白と黒のドレスを黒血に染め、しかしリザリアは依然頬杖を突いたまま、顔色一つ苦痛にゆがめない。



「……不敬ぞ。呪われたつるぎよ」



 血濡れた金の瞳が、鋭く見た。


 とうとき者の黒い流血が闇へと変わり、ドレスを召した長身の影法師へと変容していく。


 影法師はリザリアを置いたまま、優雅な所作で玉座を押し上げる壇上を下り、その先に突き立つ呪剣を見下ろすと、闇そのものから成る両腕を伸ばした。



「あの時……の者がこの首をはねた時……最早もはや存在せぬ、あの時の中……“余の黒血を、すすりおったか”……。まこと、度し難い……」



 “淵王えんおう”の影法師が、その細指を突如大きく膨らませて、“人造呪剣ゲイル”をその両の内に包み込む。


 周囲の闇よりも底なしにくらい影法師の輪郭が、余りに深い黒を発して、それはまるでいびつな光のようにさえ見える。



「“余の権能を、模倣するなど”……許されざる極罪きょくざいである」



 影法師が、呪剣を堅く……堅く堅く、抱き締めた。



「去りゆけ。あらゆる宇宙から。ことごとく世界から。時と歴史の深淵しんえんへ、朽ち落ちよ」



 “原初の闇”が、無限の淵底ふちぞこへと、それを引きり込――。


 ■■――■■■■――■■■――。


 ……。


 ……。


 ……。


 忘却と消滅の闇にまれる、その深淵しんえんへと沈みゆく中。


 ――……ゾンッ。


 呪剣の柄に、あのくらい瞳が開いた。


 ……。


 ……。


 ……。


 ■■■――■■――■■■■――。

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