29-18 : 夢から醒めた愚か者

「……何、だ……? この、醜い……腐りかけの、化け物は……?」



 “偽天使の翼”を3枚、4枚と“火の粉のガラン”にもがれながら、生者を呪う悲鳴を上げる、異形の花。


 ふいと視線を外して、愚者がキョロキョロと辺りを見回す。



「ユミーリア……? ユミーリア、どこだい? どこに……どこにいるんだい? 返事をしておくれ……ユミーリア!」



《『お父様』》と自分を呼ぶ声を求めて、愚者は耳を澄ませる。



「きゃぁぁあああ! きゃああぁぁぁああっ!!」



 異形の花が、繰り返し泣き叫んだ。


 物悲しい、苦痛に満ちた叫び声だった。


 ガランとの戦闘の有無とは無関係に、ただ存在しているだけで、痛くて痛くて、苦しくて苦しくて……せめて人間らしく死にたいと願い続けて、それさえもかなえられずにただ泣き叫ぶ、悲しい少女の叫び。



「そんな……ユミーリア、君の声が聞こえない……どこへ行ってしまったんだ……? 私を、私を一人にしないでおくれ……あんな醜いものなんていらない……ユミーリア、私には君が、君が必要で……ユミーリア! ユミーリアぁぁ……っ!」



 血塗ちまみれの両手で自分の頬と乱れ髪をつかみ、愚者が声を震わせる。



うそだ、うそだ……ここまでの道のりは、必然だったはず……運命だったはず! ここは理想郷……幸福で、満たされていて、何もかも上手くいくはずの場所なんだ! そうだろう?! そうだと言っておくれ! 私を、導いておくれ……ユミィーリアァァっ!!」



 夢からめた愚か者が、その名を繰り返し叫ぶ。


 それに答えを返す声は、聞こえない。


 当然のことだった。“忘名の愚者ボルキノフ”……彼がそもそも始まった瞬間から、そんな名前の娘など、どこにも居はしなかったのだから。



「……ボルキ、ノフ……!」



 ガシリッ。と、動くはずのないゴーダの手が、愚者の足を確かにつかんだ。



「うっ……?!」



 混乱と動転で汗まみれになっている愚者が、はっと目をやる。



「ボルキノフ……ここに、お前の求めるものは……ない。あるのは、私の……私たちの……何のことはない、“思い出”だけだ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……返して、もらうぞ……!」



 ゴーダが腕に力をめると、それは血の束縛を振り切って、愚者の身体を数メートル先の瓦礫がれきの壁面へと投げ飛ばした。



「むぐっ……! ゴーダ、どういう……動けるはずが……!」



 愚者が飛ばされた先で、瓦礫がれきき分け起き上がる。


 異形と化した血を大量に浴びせたのだ。もはや指の一本も自分の意思では動かせる道理はないと、目を見張った先で――。



「お前の……お陰だ、ボルキノフ……」



 愚者の視界の先で、銘刀“蒼鬼あおおに・真打ち”を握り締めたゴーダが、よろよろと立ち上がってみせていた。


 そこでボタボタと大きな音を立てて滴るのは――紫血。



「お前に、喰われた、お陰で……お前の、血を……私の血で……洗い、流せた……」



 愚者によって喰い千切られたゴーダの肩と背中から、ドクドクと紫血が流れている。それが異形の赤い血を塗りつぶし、暗黒騎士の身体を紫色に染めていた。


 が、いまだにゴーダの身体はその半分が、赤い血にまとわり付かれている。半身に上手く力が入らず、立っているのがやっとの状態であった。



「血が……出血が……まだ、足りん……」



 ゴーダは一言そうつぶやくと、おもむろに“蒼鬼あおおに・真打ち”の刃を自らへと向けて――首筋を、き斬った。


 音もなく斬れた傷口から、紫血がブシャリと水音を立てて噴き出す。瞬く間にゴーダは全身を紫血まみれにして、愚者の血の束縛から脱してみせた。



「……立て……ボルキノフ……」



 先ほどまでとは違う理由でふらつきながら、ゴーダが呼びかける。



「私も、こんなことを、繰り返しては……長くは、保たん……」



 足下に血溜まりを作りながら、前へ進む。


 どれだけ血を流していても、その目にはギラリと、確かな生気と強い意志の光があった。



「お互い、行き着いた先は、違っていても……おかしな器に、魂を込めてしまった、人間どうし……私か、お前か……ここで、決しなければ……未来永劫みらいえいごう、同じ境遇の者とは、巡り会えん、ぞ……」



「……っ……ッ……」



 顔の正面に両手をかぶせた愚者が、指の隙間からゴーダを見やる。



「……ふ……ふふふ……はははっ……」



 それまで震え通しでいた愚者の唇が、ニヤと笑って歯をのぞかせた。


 暗黒騎士の言葉が、実感を伴って胸の内に染み渡る。


 愚者の正気が――300年前、“明けの国”で古文書を整理する毎日を細々と送っていた、そばかすの小男の意識が――忘れ去られた日々を思い出す。


 小男の半生もまた、ゴーダと同じく、偶然の積み重ねであったのだ。


 ユミーリア女史と顔見知りであったのは、ただ研究室が近かったからというだけの偶然。


 彼女が不治の病に冒されていたということも、ただの偶然。


 “狐目のサリシス”という名の調薬の第一人者に、病に伏せた彼女をただているよう命じられたのも、偶然。


 禁忌とされた“石の種”を用いた治療。それを目撃したという理由で殺されかけ、たまたま打ち所がよく意識を取り戻したのも、偶然。


 震える手でサリシスを刺し殺し、既に死んでいたユミーリアの本当の父親ボルキノフを含めた二人分の死体を、誰にも見つからずに隠しおおせたのも、全くの偶然。


 最後にたった1つだけ、“石の種”が残っていたことも……それによって小男が人間を逸脱したことも、偶然でしかない。



「ははは……ははははっ……! 君の……君のせいだよ、ゴーダ……」



 愚者が顔面に、指先で血の筋を引きながら、呼びかける。



「君のせいだ……君の、その言葉のせいで……私が信じてきた『必然』と『運命』が……ただの、無意味な『偶然』になってしまった……」



 フラフラと立ち上がり、愚者は力任せに石柱を殴りつけ、粉砕する。



「どうしてくれる……どうしてくれるっ! そんな、魔法でも呪いでもない、ただの言葉ごときで……世界が色褪いろあせてしまった……。むなしいじゃないか……これではあんまりにも、むなしすぎるじゃないかぁっ!」



 瓦礫がれきの中から、二振りの無銘の刀を拾い上げる。



「ああ……君の言う通りだ、ゴーダ……。ここで決してみせなければ、私は未来永劫みらいえいごう、君のその言葉に絡め取られたままになってしまう……」



 長い間、理知的で謹厳実直な宰相を演じてきた愚者の中に、説明のできない感情と熱が生じる。



「君を、殺して……君の『偶然』を、私の『必然』でもう一度塗り潰さなければ……私は、“ボルキノフ”に戻れない……ユミーリアに、もう一度出会うことができない……」



 理屈も論理も、狂気すらもなかった。「この、目の前に立ちはだかる男を乗り越えなければ、自分は前へ進めないのだ」という思いだけが、“忘名の愚者”を突き動かす。


 グサリッ、グサリと、愚者が2本の刀を自分の腹に突き立てる。そのまま背中まで貫き通しながら、刀身を根元まで体内にうずめた。


 やがて、異形の血で真っ赤にれた刀を己の内から引き抜いて、愚者が構える。


 “魔剣のゴーダ”と、“忘名の愚者”。互いに得物を自身の血で染め上げて、唯一無二の似たもの同士が、意地を張り合う。



「……必然なんぞ、ぶち壊してやる」



「偶然でなんて、終わらせてたまるものかね……」



 自分の言葉で、世界を塗り潰す。ただ、たった、そのためだけに。



「――きゃぁあああぁぁぁあ!!」



「――ガハハハハハハーッ!!」



 2人の男の背後で、“ユミーリアの花”と“火の粉のガラン”の咆哮ほうこうが重なった。

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