29-8 : 訪ね旅の記憶と
――250年前……正確には、彼が西方から姿を消して2年後。
季節はちょうど二巡して、その日も朝冷えのする晴天だった。
濃い霧越しに、太陽の真円がぽっかりと空に穴を空けているように見える。
朝露には若葉の匂いが溶け込んでいて、
ガシャリ、ガシャリ……と、何かの揺れる軽快な音がする。
白単色で塗り潰された世界に、丸い人影がぼんやりと浮かび上がっていく。
ガシャリ、ガシャリ……それは鉄で打たれた食器の立てる音だった。
鍋、フライパン、カップ……そういった物が人影の歩調に合わせて揺れる音。
人影が随分とずんぐりとした形に見えるのは、食器をぶら下げた
濃霧の白と、そこにぽつんと現れた黒い人影。それと、パチリと
「……風の
“火の粉のガラン”が、小さな声で独り言を
「たわけが……勝手にいなくなりおって……。ようやく折り合いを付けて、お主は野垂れ死んだんじゃと、自分を納得させとったのに……今更当てにもならん
ズビリと鼻を
「魔女の奴も、あれっきりじゃ……魔族軍を壊滅させたっきり、“塔”の中がどうなっとんかすら誰にも分からん……」
朝冷えの中、暖を取る
「ゴーダも、ローマリアも……ワシだけ置いてけぼりにして2人とも消えてしまいおって……っ。大馬鹿もんがーい!」
――ばかもんがーい……もんがーい……がーい……――。
霧に隠れた
その後に続く痛いほどの沈黙が、彼女の胸に
……。
……。
……。
「……ガラン……?」
ふと、霧の向こうから声が聞こえた。
「その声、ガランか?」
彼岸から聞こえる遠い幻聴などではない。それはあっけないほど近くから、はっきりした肉声として彼女の耳へ届く。
「……ぇ……?」
口と眉をわなわなと震わせながら、ガランが顔を横へ向けた。
……。
「ああ……やっぱりそうか……」
……。
「世捨て人を気取ってはみたものの……あんたの怒鳴り声は忘れようがないよ」
……。
「久しいな、ガラン――いや、生粋の魔族のあんたにとっては、そうでもないか」
ガランの立っている場所から5歩と離れていない所に、彼が立っていた。魔族兵の鎧も、刀も携えていない、彼女が「ぺーぺー」呼ばわりしていた頃の丸腰の青年の姿で。
――“宵の国”、東の果て……国境外、“空白地帯”。
それは彼女が思い描いていたどんなものとも違う、
……。
「……ふぐ……っ」
右腕で
「……ぐすっ……」
入れ替えて、左腕でも涙を擦る。
「……うぅ……っ」
両腕を交互に何度押し当てても、
「……1発……ぶん殴らせい゛っ……!」
大きな
――ポカリ。
ふにゃりとした拳が、彼の胸元に触れた。
「……痛くないぞ、ガラン」
……。
「……ええんじゃいっ……」
……。
「ぶっ飛ばしてやる気も起こらん……っ」
……。
……。
……。
「生きとんなら、生きとると……
――。
――。
――。
……。
……。
……
――。
――。
――。
――現在。ボルキノフ制圧下、“イヅの大平原”。
「きゃぁああぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!!」
“ユミーリアの花”が、それまでの鯨のような重静かな歌声から一変して、ヒステリーを起こしたように泣き叫んだ。
肉の幹がドクリと脈打ち、内部を循環する体液の圧力に押しやられて、巨大な眼球の1つが眼孔から飛び出した。太い視神経が露わになり、それが振り子のように
ブチブチと肉の千切れる音。空っぽになった眼孔の奥から、
「きゃあぁぁぁあああっぁっぁああああぁぁぁっ!!」
「だぁらっしゃぁぁあ!!」
ズンッと空気が震える。
……。
「きゃぁぁあああぁぁぁぁああっ!!」
ヒステリーに合わせて、
「きゃぁぁああぁぁあああっ!!!!」
木の枝のように繁茂する女の腕が、一斉にガランに向かって振り下ろされる。自身の肉体を冒す病原菌を排除しようと攻撃を仕掛ける、免疫細胞のような振る舞いである。
ガランが素早く飛び
「……ええい! 幾ら何でもデカすぎじゃい! びくともせんではないか!」
ガランのフルスイングは、深々と“花”の幹へめり込んでいた。
破壊力は申し分ない。
が、それにも増して“ユミーリアの花”は巨大すぎた。ガランと異形の花とでは、スケールが余りにも違いすぎた。必然、巨体に対してたった1箇所の損傷など、微々たる割合しか占めようがない。
「おまけに……うっ……! この臭い……勘弁してくれい!」
先の一撃でガランの両拳に付着した濃緑色の体液は、殺傷性こそ伴わないが、空気に触れるとものの数秒で腐敗が始まる。今は青黒く変色して、まるでヘドロのような汚臭を放っていた。
「うがあぁぁ!
血管から
「……ぬぉ?! 何でじゃ、まだ臭いぞ!?」
火力を落ち着けたガランが、身を
「……ん?」
鼻が曲がりそうな強烈な臭いに胸焼けを起こしながら、どうにか我慢して発生源を追っていくと、一撃をお見舞いした“花”の根元から体液が流れ出続けているのが目に
「
その洞察は当を得ていた。
自己の成体としての形状を維持修復することに特化しているボルキノフの体質に対して、ユミーリアのそれは自己の損傷を法則性のない増殖と肥大化によって補っているようだった。
元より自分のあるべき姿を定義できず、ただ存在しているだけで崩壊と
300年前、“狐目のサリシス”による“石の種”の変質実験によって、ユミーリアという人間の少女へ施された“治療”。その行き着く末。
辛うじて人の形をこれまで
それを理解して、ガランに
「……いっそ、同情してしまうのう」
彼女の表情に影が差したが、次の瞬間にはそれも消えて、前後に脚を開いて拳を上げた格闘戦の構えを取る。
「じゃが、そういうことならば、まだやりようはある……!」
“ユミーリアの花”の無数の目と、ガランの視線とが合った。
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