28-11 : 金の組み紐

 ズルリ……ズルリ……。と、耳元で何かの擦れつく音が聞こえ、ざらりとした感触が頬をでていく。冷たく硬いその感覚の中に、生暖かく粘ついたものが混ざり込んでいた。


 夢も時間の感覚もない昏倒こんとうの中から、いまだにかすんでいる意識を視覚に集中させてしびれたまぶたをうっすらと開けると、異様に近くに写り込んだ大理石の床の上に、長い長い血の筋が延々と伸びているのが見えた。



「……ひはは……ひははは……」



 視界の外から、ニールヴェルトの独りわらいの声が聞こえた。


 白亜を汚すその赤黒い血痕が自分の体内から流れ出ているもので、左足首をつかまれたその身体が、うつ伏せの体勢でニールヴェルトに引きり回されていることに気づくまでに、エレンローズの意識は数回混濁の中に沈んでは浮かぶことを繰り返した。



「エレンよぉ……こんなシケたとこにお前を1人っきりで置き去りっつぅのはぁ……面白くねぇよなぁ……」



 ブツブツと小声でつぶやいているニールヴェルトの言葉は、背後に引き回しているエレンローズに語りかけたものではなく、無限回廊を彷徨さまよい歩く自分自身に向けたものである。



「俺もよぉ、ひとりぼっちは寂しいんだぜぇ? きははっ……狩る獲物も、狩られるかもしんねぇ相手もいねぇんじゃぁよぉ、生きてる実感も糞もねぇ……きははは……」



 ――グラリ。


 独り言を漏らす狂騎士の足取りが一瞬止まり、その身体がビクリと強張こわばる気配があった。



「っ……。はぁ、はぁ……ひははは……イイ女との2連戦っつぅのは、さすがに身体に堪えやがるぜぇ……」



 エレンローズがその声に促されるように視線をわずかに横にやると、そこには守護騎士のものではない血の滴り落ちた跡が幾つも残っていた。



「ああ、くっそがぁ……痛みがなくなってきやがった……ははっ……いよいよ、洒落しゃれにならねぇなぁ……はぁ、はぁ……」



 ニールヴェルトの苦しげな息遣いが、エレンローズの意識に届き、それからすぐにどこかへ流れて意味を忘れていく。



「あぁ、イイねぇ……ひははっ……生きてるぜぇ、俺ぁ、まだ……この生きてるって感じがよぉ、堪らねぇ……」



 感情の最高潮を通り越し、目もくらむような興奮の波を下ったニールヴェルトの冷静な声が、エレンローズと刺し違えた己の身体に向けて感慨の言葉をこぼす。



「あーぁ……出口を探す、気力も、ねぇぜぇ……。エレンん……俺がもう、全部、面倒臭くなっちまった、ときはよぉ……そんときはよぉ、俺と一緒に、野垂れ死のう、ぜぇ……? お前、最高に、イイ女、だからさぁ……だぁれも来ねぇ、この、糞っ垂れな場所、で……はぁ、はぁ……お前のこと、独り占め、できるなら、さぁ……悪く、ねぇなぁ……ひはは……ひはははっ……」



 誰も聞く者のいない無限回廊に、“烈血れっけつのニールヴェルト”の途切れ途切れの独白が、自身の破滅を面白がるようにして反響していった。


 ……。


 ……。


 ……。



 ――また……届かなかったんだ……私……。



 失った自分の声が、エレンローズの脳裏に反響する。血を流しすぎたためか、身体の芯が寒く、重怠おもだるくなった手足は指先1本動かなかった。


 シェルミアと交わした“守護騎士の契り”とともに託された長剣も、もう手の中に残ってはいなかった。その契りのあかしとして残っているのは、引きり回される間に血塗ちまみれになった右腕に通された金の組みひもだけだった。


 ――ブチリ。


 大理石の床を埋め尽くすタイルの継ぎ目に擦れた金の組みひもが、引きられ続けているエレンローズがぼんやりと見つめるその目の前で千切れた。脱力したまま伸ばされた指先の彼方かなたで、血の筋の中に取り残された組みひもが、少しずつ少しずつ守護騎士から離れていく。



 ――ごめんなさい、シェルミア様……痛い思いをしてまで渡してくれた剣も……せっかく編んでくれた組みひもも……失くしちゃいました……駄目に、しちゃいました……。



 まぶたが再び重くなり、意識が真っ白なもやの中に包まれていく。痛みも苦しみもない、深い深い眠りが近づいてきているのが分かった。いつかの原生林のうろの中で見たのと同じ、1度落ちれば2度と目覚めることのない、死の前触れ。



 ――ごめんなさい……。



 焦点の合わなくなった視界に、まぶたの裏が暗い幕を下ろしていく。



 ――ごめんなさい……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――取り……戻します……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――絶対に……取り戻します……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――わたしは……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――わたしは……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――守護騎士わたしは……誓いを立ててくれた主君あなたより、先になんて……――……!



 ……。


 ……。


 ……。 


 そしてもう1度開かれたまぶたの下で、灰色の瞳は、もう泣いてはいなかった。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。


 ――ガリッ。



「……あぁ……?」



 失血で動きの鈍くなった身体を、背後から引き止められるような感覚があった。普段のものより数段気怠けだるげに怪訝けげんな声を漏らしたニールヴェルトが、ゆっくりと背中を振り返る。



「……っ……っ……」



 そこには、大理石の床に生じたわずかな隙間に指先を引っ掛けて、連れて行かれまいと抵抗するエレンローズの姿があった。


 深手を負っている守護騎士の背中が、呼吸のたびに小さく上下する。息を吐き出すときは恐ろしくゆっくりと。逆に肺に空気を取り込む動作は一瞬で。浅く不規則なその呼吸音を、ニールヴェルトはよく知っていた。



「はは……ひははは……よぉ、気が、ついたかぁ、エレンん……お互い、そう、長く、ねぇなぁ、こりゃぁよぉ……ひはははは……」



 致命傷を負った者の、死に際の音――エレンローズと自分自身の呼吸音をまるで他人事のように聞き流しながら、ニールヴェルトはまるで些細ささいなことだとでも言うようにつぶやいた。



「……っ……っ……」



「……。なぁ、エレンよぉ……はぁ、はぁ……随分、苦しそうじゃ、ねぇかぁ……えぇ……?」



 半回転ほど身体を振り返らせたニールヴェルトが、自身も苦しげな息を吐き出しながら、血塗ちまみれの床の上でうつ伏せのままになっているエレンローズを横目で見やった。



「……っ…………」



 ひゅーっ……ハッ……ひゅーっ……ハッ……。と、エレンローズの弱々しい息の音が続く。



「エレンん……俺と、お前の、さぁ……糞っ垂れな、巡り合わせの、よしみだぁ……今なら、よぉ……楽に、殺してやるぜぇ……? はぁ、はぁ……どぉだぁ、なぁ……?」



 ニールヴェルトが引きった笑い顔を無理やり作り、“カースのショートソード”に手をかける。



「なぁに……心配、すんなよぉ……ほら、俺……今、すげぇ、気紛きまぐれ起こしてる、からよぉ……。はぁ、はぁ……何で、だろうなぁ……エレンん……お前が、これ以上苦しんでんのが、よぉ……見てらんねぇん、だわ……ひはは……」



 狂騎士のその小馬鹿にしたような笑い声は、“右座の剣エレンローズ”をではなく、“烈血れっけつのニールヴェルト”を笑っていた。



「お前、の……最期……俺に、くれよ……エレンん……。…………ふぅー……」



 最後にそうとだけつぶやいて、ニールヴェルトが何かに思いを巡らせるように深いめ息を漏らした。


 ……。


 ……。


 ……。



「…………っ」



 ガシャリ。と、エレンローズがまとった黒い鎧から、金属板の擦れ合う音が聞こえた。


 ガシャリ……ガシャリ……。


 それはエレンローズが、力の入らなくなった右腕1本で立ち上がろうと藻掻もがく音だった。やっとの思いで引き寄せた二の腕に体重をかけ、ガクガクと震える上体を肘で支えて、ゆっくりと、ゆっくりと……身体を起き上がらせていく。


 ――ベシャリッ。


 しかし、時間をかけてようやく起き上がらせた上体も、血糊ちのりで肘を滑らせた途端無力に崩れ落ち、エレンローズは自分の流した血溜まりの上に勢いよく全身を打ちつけることになる。



「っ…………」



 赤黒く染まった白亜の上に身を投げ出して、エレンローズが今にも消え入りそうな小さな呼吸を繰り返す。額に浮かんだ玉の汗が、どれほどの苦痛にさいなまれているのかを物語っていた。



「……ひはっ、ひはは……無様、だなぁ、エレンよぉ……もう、いいじゃねぇかぁ……はぁ、はぁ……もう、どうでもいいだろぉ……?」



 ニールヴェルトがあきれるように、あわれむようにそう言って、乾いた声で笑い飛ばした。



「…………」



 数秒間、エレンローズのまぶたが閉じる。そして何かを確かめるようにもう1度その目が薄っすらと開かれると、守護騎士は再び致命傷を負った身体を押して、残り少ない赤い血と命を燃やして、立ち上がろうと藻掻もがき出す。



「きはは……無駄だ、って……言ってんだろぉ……? やめっちまえよぉ……」



 ――ベシャリッ。


 ニールヴェルトが言う前で、血糊ちのりに滑ったエレンローズがまた大理石の上に倒れた。



「……っ……っ……!」



 それでも、エレンローズはやめなかった。何度でも、何度でも、立ち上がるまで、何度倒れても、“右座の剣エレンローズ”は立ち上がろうと藻掻もがき尽くした。



「……もう、やめろって……言ってんだろっ……!」



 それは自分の言葉が届かない苛立いらだちからか、面白くもない見世物だと断じてなのか、ニールヴェルトがこめかみに青筋を浮かべ、両拳を握り締めて怒りの形相を浮かべてうなった。



「黙って床の上で、寝そべってりゃぁいいだろがぁ……俺に、軽くうなずくだけで、いいだろぉがぁ……そうすりゃ、楽にしてやるって、言ってんだろぉがぁ……!」



「……――……っ!」



 エレンローズの声を失くした口許くちもとが、ニールヴェルトのその言葉を遮るように無言の叫び声を上げた。



「!!」



 驚いたような、動揺したような、それまで見たこともない複雑な表情を浮かべて、ニールヴェルトが思わず1歩、後ろに退しりぞく。



「…………――――!!」



 声にならない思いが、エレンローズの口からあふれていく。無限回廊の彼方かなたへと、その無音の言葉が突き刺さっていく。


 ……。


 ……。


 ……。



「――――っ!!!」



 ……。


 ……。


 ……。


 そして、“烈血れっけつのニールヴェルト”のその目の前に、“右座の剣エレンローズ”が再び立ち上がってみせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る