28-9 : 呪剣と宝剣

 ――……。



 ――はぁ――はぁ――。



 ひど目眩めまいがした。



 ――はぁ――はぁ――。



 足下が崩れ去り、天地が区別を失って、ぐるぐると回る。



 ――はぁ――はぁ――。



 頭の芯が、ぼんやりと熱を帯びている。眼球の裏側にゴロゴロとした違和感があって、今にもそれが大きな音を立てて破裂してしまうのではないかという錯覚に襲われる。



 ――はぁ――はぁ――!



 そして、人智じんちを越えた万華鏡を抜け、シェルミアの意識が何度目かの未来を選択した。


 ……――。



「……アランゲイルぅぅぅっ!!!」



 無数の可能性をはらんだ未来の形の中から、そのたった1つを選択した“明星のシェルミア”が、“王子アランゲイル”の従える呪いの群れを斬り倒し、兄の胸元に“運命剣リーム”を突き出した。妹の頬には、渇ききらない涙の跡が残っていた。



「っ……!」



 疲弊したアランゲイルの足下が、身体の動きについていかずガクリと崩れた。その額に、じっとりと汗が流れ落ちていく。


 それが、シェルミアの選び取った未来であった。


 そこまでが、運命剣の力が及ぶ世界の有りようだった。


 つまりは、そこから先は、何者の目も及ばぬ“未知”である。


 ……。


 固く鋭い、突き立った刃の震える音が聞こえた。金属同士の衝突したとき特有の背筋の冷えるその音の意味するところは、すなわち妹の剣が兄の下へ届かなかった証左だった。



「……惜しかったね、シェルミア……」



 衰弱した顔にニヤリと嘲笑を浮かべながら、アランゲイルがシェルミアの耳元にささやいた。そこには“人造呪剣ゲイル”から生えた真紅の盾が1枚、兄妹の間に割って入っている光景があった。



「くっ……!」



 真紅の盾に阻まれたシェルミアが、そのまま剣先で盾を押し、反動を利用して後ろに飛び退く。開けた口から吐き出される大きな呼吸音は濁っていて、喉はからからにけていた。



「はぁっ……! はぁっ……!……兄、上ぇ……!」



 頭痛でもしているのか、側頭部に左手をやったシェルミアが、よろよろとした足取りで体勢を立て直しながら、うめくようにして兄を呼んだ。剣の打ち合いと疲弊で力の入らなくなった腕は下がり、運命剣の切っ先が大理石の床に触れている



「……く……くくく……この呪剣が、押されるとはね……」



 アランゲイルが、腰を折った体勢でゆらりと上体をシェルミアの方向へと向けた。だらりと垂れた腕に握られた真紅の刃が、ガリガリと無限回廊を擦る不快な音が響き渡る。



「さすがは、運命剣……。さすがは、“明星”の2つ名を頂く子だ……。こうまでしても、ようやく五分、か……はははは……自分の出来損ない加減に、本当に腹が立つ……」



 そう言って笑う兄の顔は、つい先刻まで妹が記憶していた病的な顔色よりもなお一層血の気を失っているように見えた。億劫おっくうそうに口から吸っては吐かれる呼吸音は深く、恐ろしくゆっくりとしていて、半開きの口許くちもとから聞こえるわずかな風切り音がなければ息をすることをやめているようにしか思えなかった。かっと見開かれたままの目は、シェルミアがふと気にかけ始めてからこのかた、ただの1度もまばたきをしておらず、ぼんやりと左右に揺れている瞳は瞳孔が開きかけてさえいるようだった。


 兄のその立ち姿は、病躯びょうくを引きる人間というよりも、死相を浮かべた怨霊のようだった。それを目にした妹は、何度も何度もその光景から目を背けたい衝動に襲われ、腹の底に苦いものがのたうち回り、しびれた頭がくらくらと目眩めまいを起こしているのだった。



「どうした、シェルミア……はぁ……はぁ……私を、止めたいんだろう……? はぁ……はぁ……それとも……兄妹喧嘩げんかは、終わりかい……? はは、はははは……」



 吐き気を催す目眩めまいと頭痛に手をやりながら、シェルミアが剥き出しにした歯をギリッとみ締め、下ろしていた運命剣の刃を持ち上げる。疲労の蓄積で鉛のように重くなった腕の動きは鈍く、そんな両腕で支え持つ剣先はガクガクと小刻みに震えていた。



「はぁっ……はぁっ……。……っ! そうまでして……どうして、そうまでして……! 私、には……っ、分かりません゛……!」



 喉元まで上がってきた嗚咽おえつに声を上擦らせながら、悔しがるように、やり場のない怒りと悲しみに身を焦がすように、シェルミアが唇を震わせた。



「……分かられて……たまるものか」



 アランゲイルの身体が枯れた柳のように揺れ動き、渇きかけの充血したまなこがシェルミアをにらみつける。



たまるものかよ……!」



 ガクリと全身を大きく揺らして、兄が足を引きるようにして1歩前に踏み出した。呪剣にまれたものたちの声にむしばまれ、眠ることも休むことも忘れた孤独な王子が、その身に刻み込まれた怨讐のみで己の肉体を突き動かすその光景は、壮絶極まりなかった。



「……っ……! はぁっ、はぁっ……!」



 飲み込んだ固唾がけた喉に引っかかり、ヒリヒリと痛む。体力などとっくに底を突き、死に体のはずの兄をなおも歩かせる鬼気に当てられ、シェルミアはその場から1歩も動けず震える剣を構えることしかできないでいた。



「やめなさいっ……アランゲイル……! もう、やめてください……っ。それ以上は、貴方あなたの身が……――」



「……私の身が、何だというのだ……」



 “アランゲイル”と、努めてその名を呼び捨てて、強く制止をかけた妹の言葉に、兄が吐き捨てるようにして割って入った。その声もまた苦しげな息切れの音で細切れにしながら、病的な目が混濁をき分けてギロリとにらみつけてくる。


 そのかすれた声と、薄ら寒いものにむしばまれた形相に、シェルミアの口の中で思わず舌がビリビリとしびれた。



「その続きを……言ってみるがいい、シェルミア……」



 み付くように、食い散らすように、アランゲイルの言葉が牙を剥く。



「言ってみろ、さぁ……!」



「……っ、それ、以上は……取り返しが……っ。……死んでしまいます、兄上……っ」



 ……。


 ……。


 ……。



「……くく……くくく……」



 ……。



「……ははは……」



 ……。



「ははは……ははははは……!」



 今にもくずおれそうな肩を震わせて、死相を浮かべた顔をゆがませて、ゾッとする冷たい笑い声をにじませて、アランゲイルが腰を折って身悶みもだえした。



「はははははっ……はははははは……っ!……。……。……」



 そして、スッと、痛いほどの沈黙が降りる。



「……。取り返しなど、今更どうつけるというのだ……どうつけてくれるというのだ」



 その言葉に、シェルミアの中で怒りの火がぜる。



「御自分でしたことに……! そのような言い方が――そんな言い訳が……っ」



「ならば、お前はどうなんだい……?」



 再び言葉を遮った兄の声に、妹の言葉が凍りつく。



「お前の理想のために犠牲になった者たちに対して、お前はどう取り返しをつけるんだい?」



 その言葉が指す“犠牲者”の中に、アランゲイル自身が含まれていることは明らかだった。

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