27-10 : 死踏

 ジャッ。と、何かを引っくような音が聞こえ、一瞬、狂騎士の右腕と侍女の左脚が残像のように消えて視認できなくなった。


 ガギッ。と、何かが激しく擦れる音。そして闇夜やみよにちかりと瞬いた、小さな火花。



「……俺ぁ、まだトばせるぜぇ?」



 バチバチと肉体を強制的に加速させる細い稲妻をほとばしらせ、武具の重量を打ち消す風を全身にまとったニールヴェルトが、飢えたおおかみのように口から息を吐き出した。冷たい夜気に冷やされたそれが白く曇り、その光景はまるで伝承の魔神が吐き出す瘴気しょうきのような様相を呈する。



「――舞踏は1人で舞うものではございません。お相手の足取りに合わせてこそにございます」



 侍女にも、まだ十分に余力があった。


 金属同士が激しくかち合う白い火花が、闇に咲く。1回、2回……その回数は次第に増えて、その間隔はどんどん短くなっていく。


 目で追い切れない速度で打ち出される刃とヒールが、衝突音と火花だけを残して、不可視の領域で無数の剣戟けんげきを繰り広げる。狂騎士の両腕と、侍女の両脚が、蜃気楼しんきろうのようにぼんやりとゆがんでいた。もし、常人の目がこの死踏を観覧したとすれば、急停止と超高速の打ち出しを無数に繰り返す両者の動きは、速すぎる余りに逆に止まっているようにさえ見えたことだろう。


 侍女が不可視の速度に達した蹴りを打ち込みながら、横に走り出す。同じく視覚の追いつかない斬撃を放つニールヴェルトが、それを追って足を踏み込む。


 ――ストトトトトッ。


 狂騎士が走り抜けていく床と壁面に、数え切れない小さな丸いあな穿うがたれていく。


 ――ジャリジャリジャリジャリ。


 それとついになるかのように、駆ける侍女側の床と壁面にも、無数の斬撃の痕が刻み込まれていく。



「ひははははっ!! まだ死ぬイクんじゃねぇぞぉっ! まだ足りねぇ! 足りねぇんだよぉ!! もっと! もっと! ヤベェとこにまでぇ!! 連れて行ってくれよぉおお!!!」



 剣戟けんげきによる火花の明るさとその数が、更に増す。互いに向かい合って踊るようにして走り着いた先、大回廊の片隅には燭台しょくだいの光が届かず濃い影が降りていたが、限りなく神速の域に達した両者の見えない連撃が散らす火花だけで、その場がぼぉっと照らし出されてさえいるのだった。


 どちらが攻め手で、どちらがまもりに入っているのか。どちらが優勢で、どちらが劣勢なのか。一体、どのような読み合いが成されているのか。そもそも、何が起きているのか。その光景は、「速すぎる」という言葉の意味さえ、とっくに置き去りにしていた。


 ――コッ。


 不可視の瞬速の世界から、狂騎士の左の斧槍と、侍女の右脚が姿を現した。ヒールが凶刃を捉え、絡め取り、動きを止める。


 ――ダンッ。


 侍女が右脚をしなやかに振り下ろすと同時に、それに引かれて大理石をたたいた斧槍の刃が、床にめり込み、固定された。



「っ!!」



 一瞬だけの静止。そのが幾ら刹那に満たぬといえど、神速の世界から見れば、それは余りに、致命的に、絶対的に、遅い。


 遅れを取り戻さんと狂騎士の右手の“カースのショートソード”が不可視の速度で横薙よこなぎを放ったときには、侍女は斧槍の長い柄の上を走り抜け、ニールヴェルトの後方斜め上に回り込んでいた。


 スルッ。と、ニールヴェルトの右腕に柔らかく張りのある感触がまとわりついた。侍女のき出しの右脚が肘の関節に巻き付き、そのまま白いくるぶしが背中に回し込まれ、狂騎士の腕をひねり上げるようにしてその上半身をがっしりと拘束する。


 そして侍女の左の脚線美が狂騎士の顔面に回り込み、そのひやりと冷たい太腿ふとももとふくらはぎが、ニールヴェルトの首をぎちりと挟み込んでいた。


 侍女の真っ白な両脚が、優雅に、なまめかしく、大胆に、ニールヴェルトに絡みつく。



「――お覚悟を」



 立ったままの狂騎士の背中にのしかかるような姿勢で絡みついたまま、侍女がぐいとまたを開いた。


 ニールヴェルトの右腕を背後に締め上げて拘束していた侍女の右脚部分が支点となって、狂騎士の首を挟んだ左脚がてこの力でぐるりとねじれた。



「うっ……!」



 ゴリッ。と、首の骨が悲鳴を上げるのを、ニールヴェルトは聞いた。



「っの……!」



 侍女が狂騎士の首をへし折ろうと、両手でたくし上げたスカートの下でまたを開ききったのと同時に、封じられた斧槍の柄から離した左手で、ニールヴェルトが自分の右肩を咄嗟とっさひねっていた。


 肩の関節の外れたニールヴェルトの右腕が、蛇のように絡みついていた侍女の右脚の拘束から抜ける。てこの支点を失って、侍女の左脚は寸でのところで狂騎士の首をねじ切れなかった。



「……う゛っ……はぁ゛……はぁ゛……!」



 首が折れておらず、なくなってもいないことをニールヴェルトが手で確かめる。あと一拍遅れていれば間違いなくねじ折れていた首の骨は、ボキボキと不穏な音を立てていた。


 ギシリときしむ音を立てているのは、首だけではなかった。



「はぁ゛……はぁ゛……さっすがに……無反動ってぇわけには、いかねぇよなぁ……うぐっ……!」



 装備重量の帳消しと、肉体の強制的な加速が、ニールヴェルトにつけの支払いを求めるように、全身の感覚と動きを鈍らせる。



「いやぁ……参ったなぁ……イイ女なんだけどなぁ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……届かねぇかぁ……ここまでやってもよぉ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「――そのようにございます」



 侍女が、何喰わぬ顔でそこに立っていた。いつの間にか、その背後には背格好の全く同じ侍女が新たに3人、極めて露出の少ない給仕服と目許めもとを隠すベールで個性を殺して、物静かに並んでいた。



「――非常に、惜しくはございましたが」



 そう言いながら自分の首元に触れた侍女の手には、べっとりと濃い紫色の血が付いていた。背後の3人の侍女は、腹の前で両手を重ねて、ただじっと整列している。



「はっ。あんだけやってぇ、かすり傷1つじゃぁよぉ……幾らお宅がイイ女でも、割に合わねぇわ……」



 ニールヴェルトがやれやれと首を振り、観念したように鼻で笑い飛ばした。



「しかもぉ……お宅と同じのがあと3人もいんだろぉ? 控えめに言って、どうやっても無理だろ……ひははっ」



 並び立つ“大回廊の4人の侍女”を前にして、ニールヴェルトが両手を上げて降参の意思を示した。



「――戦意を放棄なされたと、判断いたします」



 侍女が状況を確認するように、淡々と言った。



「あーぁ……ほら、俺、こう見えて“無理”って分かったことには素直に気持ちを切り替えられる男だからさぁ……4対1は、無理だなぁ……絶対に、無理だぁ」



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。



「……きひっ! お宅がなぁあ!!」



 両手を上げてうつむいていたニールヴェルトの顔に、グニャリとゆがんだわらい顔が浮かんだのを目にしたときには、既に背後から伸びた腕が侍女の首を押さえ込んでいた。



「――う」



 侍女の首と頭部を固定した両腕が締まると、締め出された空気が声帯を震わせて自然と声が漏れた。



「――ウフフ」



 耳元で、自分のものと全く同じ声が聞こえた。首を締めつけてくる袖の上質な肌触りにも、覚えがあった。背後からゆらりと揺れて頬をで付けてくる布の感触は、正に自分の頬をいつもでているあの目許めもとを隠すためのベールの質感そのものだった。



「――?」



 侍女が、不思議そうにキョロキョロと小さく、固定された首を振る。“2人目の侍女”がなぜ自分の首に腕を回しているのか、理解が及ばないといった様子だった。



「――ンフフッ」



 視界の横から歩み出てきた“3人目の侍女”が、侍女の右隣にピタリと身を寄せた。



「――クスクス」



 左隣にやってきた“4人目の侍女”が、侍女の左手に両手を添えて、手のひらと手のこうをさすった――その袖からのぞき見える指先は、月のような純白とは正反対の、鮮烈な真紅の色をしていた。


 ……。


 ……。


 ……。



「……やれ、我が下僕ども」



 侍女の視線の先に、真紅の呪剣をだらりと垂らして、感情のない冷たい横目をじっとこちらに向けている“王子アランゲイル”の姿があった。

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