27-3 : 歪曲

 ――ゾクリ。



「っ!!」



 転位魔法の使役に集中するために閉じられていたローマリアのまぶたが、悪夢に飛び起きるように突然かっと見開かれた。


 ドンッ。と、ローマリア自身もなぜそうしたのか理解の及ばぬ刹那の間に、魔女の両腕が反射的にゴーダとガランを押し離す。


 ローマリアも、ゴーダも、ガランも、一瞬のことで何も言葉を発せなかった。


 転位の術式が魔女の制御下を振り切って、暴走したそれが空間をグニャリと歪曲わいきょくさせるのが見えた。歪曲わいきょくはあっという間に握り拳ほどの空間に凝縮して、限界までねじれきったそれが、聞いたこともない不気味な音を立ててはじけた。


 ゾルンっ。


 ……。


 ……。


 ……。


 ポタリ……ポタリ……。



「……」



「…………」



「……」



 誰もものを言えない沈黙の中、血の滴る音だけが耳を刺す。


 ……。


 ……。


 ……。



「……な――」



 魔女が目線を下の方へと下げながら、思わず「何ですの」とつぶやきかけた瞬間――。



「――こほっ」



 ローマリアが小さくき込んで――びちゃりと床に血が飛び散った。


 動揺に揺れる翡翠ひすいの瞳が見やる先には、えぐり取られた腹部から噴き出す血糊ちのりと、それによってべっとりとれている自分の左手があった。



「……」



 ――。


 ――。


 ――。



 ***





「ローマリア!!」



 “星海の物見台”の巨大な螺旋らせん階段を支える大支柱の根本に倒れ込んだローマリアの下へ、ゴーダとガランが駆け付ける。その反響する足音が、驚愕きょうがくと焦燥の音を立てていた。


 脱力してぐったりとしている魔女の傍らにしゃがみ込み、その細く華奢きゃしゃな身体を暗黒騎士がゆっくりと抱き起こした。



「ローマリア! どういうことだ……何が起きた!?」



 その声に呼び覚まされるように、ローマリアが閉じていた目をゆっくりと開けて、震える瞳がゴーダを見つめる。



「……あ……――ぅぶッ」



 ゴボゴボと水の中で藻掻もがき苦しんでいるような声が漏れて、ゴーダの腕の中でローマリアがき込むたびに、噴水のようにその口から紫血が噴き出した。半円形にえぐり取られた腹部からも血がドクドクとあふれ続け、見る見るうちに足元が血溜まりの中に沈んでいく。



「……っ」



 むごたらしい外傷も、見ているだけで目眩めまいを起こしそうな出血量も、とっくに致命傷の域を超えているのは明白だった。


 ゴーダに抱きかかえられる中、ローマリアが震える右手を暗黒騎士の兜へと伸ばす。呼吸をするたびに喉の奥からゴロゴロと血の泡立つ音が聞こえ、自分の血に溺れている魔女の姿は、思わず目を背けてしまいそうになる悲惨な有様だった。



「……ごぼっ……ゴ、ォダ……」



 血の流れ続けているローマリアの唇が、パクパクと震えて何事かを口にする。



「…………を…………さ、い……」



「何だ……! 聞こえない……聞こえないぞ、ローマリア……!」



 突然のことに動転しかけているゴーダが、慌ててローマリアの伸ばした手をつかみながら言った。背筋に冷たいしびれが走り、指先が震え、手のひらとわきにじっとりと汗が噴き出す。



「……う゛っ……! はぁ゛……はぁ゛……っ」



 ビチャリと血を吐き出しながら、魔女が残された力を振り絞り、暗黒騎士の顔をぐいと引き寄せた。


 そしてゴーダの耳元に、途切れ途切れのかすれた声で、ローマリアの言葉がはっきりと届く。



「……目、と……耳を……閉じ、なさい……!」



 ……。


 ……。


 ……。



「っ! ガラン!! 離れろっ! 耳を塞げ! 絶対にるなっ!!」



 あらん限りの声で、ゴーダが背後のガランに向けて叫ぶ。それと同時にゴーダ自身も兜を脱ぎ捨て、両手で耳を塞いで目を固く閉じ、ローマリアに背を向けて身をかがめた。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――ぐるり。



「……ηερΜ、αΑ……νιιι……ΛΩζοοο……」



 星を宿した魔女の右目が裏返り、人智じんちの及ばぬ禁忌と神秘が、魔女の歌声となって、世界を侵す。



「ひ、ひえぇぇ……」



 しゃがみこんで丸くなったガランが、目と耳を固く固く閉じて、ガタガタと身震いする。



「φΕΞΠιε;Νυααα……」



 ローマリアの間近で、その神秘の歌の波動に触れたゴーダの意識に、何者かの影がうごめき出す予感があった。



「あ……あ゛……っ」



 理性が解け、無意識が“あちら側”に絡め取られていく。自分の声も、身体の形も分からなくなり、あらゆる感覚が軟体生物のようにドロドロに溶け流れていく。



「ぅ……ェあ……。……。……――」



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――ふわり。


 柔らかな感触に、全身を優しく包み込まれていた。


 ……。


 ……。


 ……。


 温かな“胸”に抱き寄せられた“顔”が、その“頭”が、細く小さな“手”でなだめるようにさすられているのが分かった。



「……目を、開けて……?」



 そして、細くか弱い、悲しげな“声”が、“ゴーダ”の溶けかけていた“意識”に、再び“己の形”を思い出させていった。



「……」



「……」



 意識がはっきりと戻ってくると、ゴーダは自分がローマリアの腰に両腕を回して、幼い子供のように魔女の腹部に顔を埋めて、凍えたように震えているのを認識した。


 それがひどく情けない真似まねだとは十分に理解できていたが、無意識よりも深い場所に根を張った“第三概念”への純粋な恐怖心をどうこうできるはずもなく、ゴーダは自身の過呼吸の震える音を、ローマリアの腹の上で呆然ぼうぜんと聞いていることしかできなかった。


 子供をあやすように、魔女がかつての弟子の頭を何度もでる。



「大丈夫ですわ……怖がらないで……“彼ら”はもう、去りました」



 暗黒騎士の両肩に手を置いて、今度はローマリアがゴーダを抱き起こしていた。魔女から手を離した東の守護者は、がくりと顔をうつむけたままでいる。



「……油断していましたわ……。まさか東方に、わたくしの術式をじ曲げて打ち返してくる存在があっただなんて……」



 淡々と、何が起きたのか説明するローマリアの声は、少しだけ悲しそうに聞こえた。



「……傷、は……何ともないのか……?」



 ようやく落ち着きを取り戻したゴーダが、確かめるようにつぶやいた。ローマリアは先ほどまでの惨状がうそのように回復していて、周囲にもその白いローブにも、血の染み1つ残ってはいなかった。



「えぇ。この右目には、ことわりなど通用しませんもの」



「……はあぁぁ……」



 ゴーダが、魔女の無事に安堵あんどするような、自分自身に失望するような、長く震えるめ息を漏らした。兜を脱いだ額に手をやって、髪をぐしゃりと鷲掴わしづかみにする。



「……すまん……取り乱した……こんなときに……」



「……ふふっ。……そうですわね。わたくしはこの通り、何ともありませんからご心配なく」



 ニンマリとわらってみせたローマリアだったが、その嘲笑にはどこか影が差していた。



「ただ……嗚呼ああ……貴方あなたには、見せたくありませんでした……もう2度と、貴方あなたに怖い思いをさせたくはありませんでしたのに……」



「…………」



「…………」



 ……。


 ……。


 ……。



「……ローマリア」



 深く息を吸い込んで、ゴーダが重い口を開いた。



「……。……何です……?」



 そう聞き返すローマリアには、次に返ってくる言葉が、既に分かっていたのかもしれない。


 ……。


 ……。


 ……。



「……お前は……。……。……お前は……来ないでくれ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……転位魔法を使えないお前は……“右目”を使ってしまうかもしれないお前は……。……。……戦力外だ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……――はい……」



 ただそうとだけ応えたローマリアの両手は、ローブの裾をぎゅっと握り締めていた。

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