26-14 : 感傷

 パタパタパタ。と、要塞跡地の冷たい石床をシェルミアが裸足はだしで駆けていた。放棄された無人の回廊に、その音がやけに大きな反響音となって響き渡る。



「はぁ、はぁ……。エレン! エレンローズ!」



 膝に手をついて、上がった息を整えながら、シェルミアが何度も女騎士の名を呼んだ。かつて窓であったのだろう半壊した岩壁の隙間から差し込む月光に照らされて、無人の空間に漂う濃いほこりの粒子が、空中に光の帯を引いている。その光景は幻想的にも映ったが、それは空気がどれだけよどんでいるかを示すもので、肺の中に吸い込んだ息を全て吐き出してしまいたいという衝動を呼び起こさせる。


 だがシェルミアは、口を大きく広げ、すぅっと息を吸い込む音を立てながら、胸いっぱいにほこりまみれの空気を取り込んだ。



「……。エレン! どこですか! 返事をしてください! エレン!!」



 ……。


 ……。


 ……。


 返事も物音も、反応と呼べるものは一切返ってこなかった。


 エレンローズが姿を消す直前、不吉の象徴のように彼女の背後から突然腕を絡めてきた、あの魔女のわらい顔が脳裏によみがえる。そのゆがんだ笑みを思い出すだけで、シェルミアは首筋からサァっと血の気が引いて、脚に力が入らなくなりそうだった。


 飛来する嫌な予感を振り払おうと、何度も頭を振る。そうすること自体が、エレンローズの身をまもるために必要な行為であるとでもいうようだった。


 突然、目頭がかっと熱くなり、息が詰まった。



「……っ!」



 反射的に両手で目許めもとを抑えて、シェルミアは顔をうつむけた。ひもが解けて背中にまでかかっている長い金色の髪がさらりと流れ落ち、その中に混じって真っ黒に変色した一部の髪が筋を作る。



「駄目……泣いては駄目……!」



 震えるその声は、自分に向けたものである。


 騎士団兵舎の荒れ返った自室の装備棚の中に双子の長剣と盾を認めたとき、シェルミアはそこから“封魔盾フリィカ”と“運命剣リーム”を持ち出していったロランとエレンローズの覚悟の度合いを悟っていた。


 もう2度と生きて会うことはないのだろうと、その事実を受け止めて、「私もじきに向かいます」と心の中でつぶやいたのを、今でもはっきりと覚えている。


 だから“不毛の門”で、身も心もボロボロになったエレンローズと再会したとき、シェルミアは思わず大粒の涙を流してその巡り合わせに感謝した。


 だから今、エレンローズが自分の目の前で姿を消したことは、シェルミア自身が自覚している以上に、彼女の感情をき乱していた。



「泣いても何にもならない……! しっかりしなさい、シェルミア……!」



 叱りつけるように自分に言い聞かせ、涙を飲み込んだシェルミアが顔を上げる。


 瞳から一切の色が抜け、瞳孔がトカゲの目のように変形した左目に、ゆらりと揺れる小さなあかりが映り込んだのはそのときだった。


 シェルミアが岩壁にいたあなから身を乗り出して、遠くに揺れるそのあかりを凝視する。それは要塞跡地に隣接する巨大な塔、“星海の物見台”の窓辺の1つから漏れてくる光だった。


 考えをまとめるより先に、かさついた手はエレンローズの長剣を握り締め、裸足はだしの足は地面を蹴っていた。



 ***



 塔の内部を巡る巨大な螺旋らせん階段を踏み込むたび、甲冑かっちゅうの足甲の連結部分が揺れてカチャリカチャリと機械的な音を立てた。


 西方戦役にいて、西の守護者“三つの魔女ローマリア”がたった独りで数千人の人間を迎え撃ったその現場を見て回りながら、東の守護者“魔剣のゴーダ”は兜の奥でめ息を漏らしていた。



「随分と、派手にやらかしたな……」



 巨大な塔の頂上にまで伸びる螺旋らせん階段沿いにずらりと並んだ書庫には、“明けの国”がそれを封じるために講じたのであろう結晶化の術式の痕跡が見て取れた。



「……」



 ゴーダがちらりと、頭上に視線を向ける。一定の間隔で螺旋らせん階段から飛び出すようにして足場を形成している踊り場のひとつ、その裏側から、樹のような形をした真っ黒な物体が地面に向かって逆さまに生えているのが見えた。


 それ以外にも、最上層の巨大な採光窓から差し込む月光に照らされている塔の内部を巡り見ると、至る所に違和感が残っていた。壁面、階段、床、柱……そういった場所へ手にした燭台しょくだいあかりを向けると、そこには実体を伴わない影だけがべたりと張り付いていて、目の端に捉えているときだけそれらがウネウネとうごめいているように見えた。


 ゴーダが再び、大きなためいきを吐く。



「……“右目”を使ったのか……しかも、こんな大規模に……」



 ――「……人間たちが攻め込んできた拍子に、昔のことをいろいろと思い出してしまいましたわ」



 それは、魔女が暗黒騎士へ向けて“神速の伝令者”越しに寄越よこしてきた手紙に書かれていた言葉である。


 今その現場に居合わせて、ゴーダはローマリアが書いた言葉の意味を、身をもって実感していた。


 あの日。250年前、力を欲する余り、由来の知れない“何か”を右目の裏側にび宿した“翡翠ひすいのローマリア”が、それを制御できないまま西方魔族軍と“螺旋らせんの塔”の同胞たちを皆殺しにした事件。


 ゴーダが、ローマリアとの師弟関係を放棄した日。


 彼が、彼女の下を去った日。


 片手で数えるほどしかいなかった当時の生存者の1人として、誰よりも近くで魔女の涙を見た者として、ゴーダはやりきれない感情で拳を握り締めていた。



「よりによって、ここであれを使うなど……あのときの再現そのものではないか。あんなことは、永遠に思い出す必要などないというのに……こんなことをして、お前が苦しいだけだろうが……!」



 階段を上っていくゴーダの口から、抑えきれない言葉が無意識の内に独り言の形になってこぼれていく。



「そうまでして、ここをまもる必要などなかったろう……連中が魔法書を欲しがったのなら、くれてやればよかったのだ……“右目”を使うことに比べれば、そんなもの、安いものだろう……!」



 ふと、暗黒騎士の足が止まる。目の前の階段に、乾いて変色した紫色の血の跡がべっとりと付いていた。


 ここでその色の血を流す者は、1人しかいない。


 思わず、片手を上げて頭を抱え込んでしまっていた。



「……あんな涼しい顔でのこのこと私の前に出てきておいて……! たった1人で、どれだけの無茶むちゃをした……馬鹿者が……!」



 そしてちらりと目を向けた書庫に、何百何千と魔法書が収められた途方もない知識の積層の中に、そのたった1箇所に、ゴーダの視線はくぎ付けになった。



「……」



 ゆっくりと、その背表紙に手を伸ばす。



 ――馬鹿げている。ここの空気に当てられすぎだ。



 胸の奥でそうつぶやきながら、魔法書の角に指をかけ、書物の列から恐る恐るそれを引き出していく。



 ――感傷的になっているのか、私は。



 見覚えのある表紙を目にして、気づかぬうちに鼓動が一段早くなる。



 ――400年……400年だぞ。思い上がりだ、こんなものは……私の、独りよがりだ。



 兜の下で自分がどんな顔をしているのか、全く想像できなかった。


 そんなことがあるはずがない。


 そんなことを考える自分に腹が立つ。


 思い上がるな。


 そんな資格は、私にはない。


 400年前、それに触れられないローマリアに代わって、初めて自分が開いて見せた魔法書のページをぼんやりと繰りながら、ゴーダは独り言さえこぼすことを忘れて、魔女の血痕の傍らに棒立ちになっていた。

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