26-13 : “ばいばい”

 ――。


 ――。


 ――。


 夢を見ない眠りのような、感覚のない平坦へいたんな闇だけがあった。意識が、記憶が、川の流れのようなものに流されて、自分の意思とは無関係に想起されては沈んでいく。



『ロラン様ったら、双子の姉の貴女あなたのことを異性として、女として愛しておられたのですよ?』



 あの魔女の言葉が、溶けた意識の中にぽつりと浮かび、どこへとも知れない闇の彼方かなたへと漂流していく。



 ――……知ってたよ。



 それが意識の中でぶくぶくと泡立った自分の声だということに気づくのに、随分と長い時間がかかった気がする。



 ――魔女あんたなんかに言われなくたって……ずっと知ってたよ……。



 ……。



『何度も何度もそのおもいを消し去ろうと、諦めようと苦しまれていたのが、この右目にはえました』



 ――大山脈の吹雪の中で、私が一緒に寝ようって言ったとき、怒ってるあの子の顔が耳まで真っ赤になってたことまで、魔女あんたは知ってるの?



 ――孤児院に押し込められていた頃、私たちがまだ私たちじゃなかった頃、私が院長様に“おしおき”された後、あの子がどんな顔をしていたか、魔女あんたは見たの?



 ――あいつと……アランゲイルと“交渉”した後、あの子が私のことを、そのときと同じ目で見てたことまで、本当に魔女あんたは知ってるの?



 ――私のきたないいカラダ、あの子がどれだけ優しく抱き締めてくれたか、魔女あんたに分かるの?



 ……。



 ――分かりっこないよ……分かりっこない。



 ……。



『ずっとずっと貴女あなたにそれを告白できずに、数え切れないつらい夜を過ごしていたのでしょうね』



 ――ずっと知ってた……。



 ――あの子が私のことを、“お姉さん”じゃなくて“女”を見る目で見てたことも。



 ――あの子が自分の気持ちに、ずっとずっと戸惑っていて、ずっとずっと我慢していたことも。



 ――あの夜、壊れちゃった私の方からあの子に迫ったとき、あの子がどれだけ怖がっていたかも。



 ――全部……全部知ってた。



 ……。



 ――知ってたくせに……知ってたから、私……あの子に甘えちゃったんだ。あの子を利用しようって思っちゃったんだ。



 ――あの子なら、私のどんなお願いだって聞いてくれるって……私がどんなにひどいことしても裏切らないって……私のためなら、死んでも約束を守ろうとしてくれるって……。



 ――だから私……あの子の気持ちを知ってて、自分から抱いてって言ったくせに……私、あの子の腕にぎゅってされながら、シェルミア様のことしか考えてなかった。



 ……。



『ロラン様は、わたくしがコワしてしまいました』



 ――馬鹿言わないでよ。



 ――魔女あんたなんかじゃない……――。



 ――……あの子をコワしたのは……私。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――ねぇ。私のこと、怒ってる?



 ……――。



 ――私のこと、嫌いになった?



 ……――。



 ――私のこと、連れて行ってくれる?……きみのところへ。



 ……――。



 ――でも、ごめんね。私の全部は、きみにあげられない。



 ……――。



 ――きみの右手とよく手をつないだこの左腕は、きみにあげる。



 ……――。



 ――きみの名前を何度も呼んだこの声も、持っていっていいよ。



 ……――。



 ――きみが優しくしてくれた、私のこの弱い心も、きみのもの。



 ……――。



 ――……それから……。



 ……――。



 ――……それから、きみとずっと一緒だった私の気持ちも、もらってください。



 ……――。



 ――だから……きみにあげられなかった分は……残った“私”は、私のために使わせて。



 ……――。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――こんな私を、愛してくれてありがとう。私もきみのことを、愛しています。



 ――大好きだよ……ずっとずっと、大好き……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――だから……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――ばいばい、ロラン……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ……――“うん……ばいばい、エレン……。”



 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。


 そうして、影の枝と、それに絡め取られた人のおもいを解き放つように、女騎士の振り上げた右手の中で、赤い月光を受けた“運命剣リーム”が、その抜き放たれた刃をきらめかせていた。


 影の枝が、かつて“左座ひだりざの盾ロラン”と呼ばれていた人間の成れの果てが、“第3概念”の呪縛を振り切り、ちりとなって風に流れて消えていく。


 そしてその最後のひと欠片かけらが、女騎士の振る古剣に払われ、本来あるべき“人の死”の形へとかえっていった。



「…………」



 母の中で肉体と魂を分け合ったその片割れを見送る女騎士は、息の漏れる声ひとつ立てず、涙も流さず、ただじっと近すぎた人のちりが飛んでいった方向を見つめ続けていた。


 ……。



「ふふっ……うふふっ……λιλμρα」



 天に浮かぶ“鐘楼”から夜空に目をやる女騎士の背後で、“三つ瞳の魔女ローマリア”が神秘の声で歌うように笑った。



嗚呼ああ……せっかく、わたくしのものにしていたのに……奪い返されてしまいましたわ」



 手のひらに隠されたその下で、“星の”が輝きを増す気配があった。それに呼応して、夜空の星座が全く別の未知の配置を成し、月は夕陽ゆうひよりも真っ赤に染まって、水面に映り込んだかのようにグニャリグニャリと波打ち始める。



「それなら代わりに……貴女あなたをもらいましょうか。さぁ、こちらを向いて……このを見て、エレンローズ……」



「…………」



「うふふっ……」



 右目を覆う手が、ずるりとずらされていく。



「…………」



 この世ならざる神秘をはらんだ魔女のその声に、女騎士はひるむことなくゆらりと振り返ってみせた。



「……?」



 ぴたりと動きを止め、首をかしげたのは、ローマリアの方だった。


 ……。


 ……。


 ……。



「?……あなた……“どなた”?」



 その問いに、女騎士は灰色の目で魔女の翡翠ひすいの瞳をのぞき込むばかりで、何も答えなかった。


 真横に結ばれた口許くちもとには、完全に声を失くした者特有の、言葉以上に何かを語りかけてくる意思があった。


 戦傷で一切の感覚が断ち切れていた左腕は、今はそこから跡形もなく消えていて、通すものがなくなった長い袖が風になびいてヒラヒラと揺れている。


 うなじに掛かる程度の長さで真横に切りそろえられていた短い銀色の髪は、いつの間にか肩に掛かるほどにまで伸びていた。



「…………」



 影の枝に一度はみ込まれ、肉体も意識もあらゆる意味を消失して、それから再び現世に帰還したその女騎士は、ローマリアがロランの記憶をのぞき見て知っていたエレンローズという女の姿を、確かにしていた。


 しかし、エレンローズの姿をしているその女騎士は何者かと問われると、魔女はそれに対する答えを持っていなかった。


 ローマリアが右目に眼帯代わりに当てていた手を完全にどかす頃には、夜空の星座は見知った形を取り戻し、月もただ青白く光り輝き、そこには濁った翡翠ひすいの瞳があるだけだった。



「……ふふっ、なぁに? 貴女あなた。とても、面白いですわね……」



「…………」



 抜き身の運命剣を手にしたまま、エレンローズがゆっくりとローマリアの下へ歩を進めていく。背後からそそぐ月光に照らされて、その伸びた銀色の髪が透き通るように輝いている。



「ふふっ……うふふっ……! 嗚呼ああ、わたくしのことが憎くて? わたくしのことを殺してしまいたくて? えぇ、そうでしょう、そうでしょうね。貴女あなたを愛した1人の男を奪って駄目にしたわたくしのことが、恨めしくてどうしようもありませんわよね」



 自分に向けられているであろう憎悪の感情を想像して、魔女がうっとりと恍惚こうこつの笑みを浮かべた。柔らかく冷たい唇に自分の指先をわせ、我慢できないという様子で物欲しそうに口に入れた指に、長い舌がべろりと絡みつく。



「…………」



 そんな魔女の態度を無視するように、エレンローズは歩く速度を一切変えずにぐんぐんと近づいていった。



「さぁ、その憎しみに任せて剣をお振るいなさい……怒りの声を上げなさい……恨みの涙を流しなさい……! わたくしは魔女。その暗い感情こそが、わたくしの――」



 ――パチンッ。


 ……。


 ……。


 ……。


 “鐘楼”に甲高く短い音が鳴り、そして沈黙が降りた。



「……」



 口を噤んだローマリアが、目の前に立つエレンローズの顔を横目で見やる。魔女の左手が、赤くなった自分の頬に当てられていた。



「…………」



 “運命剣リーム”をさやに収め、平手でローマリアの頬をぶったエレンローズが、右手を振り切った姿勢のままじっと魔女を見つめていた。



「……」



「…………」



「……」



「…………」



 ……。


 ……。


 ……。



 ――『……可哀想かわいそう魔女ひと



 “星の”は既に裏返り、魔女の脳髄へと続く底のない闇へと沈んでいたが、そんなものを使うまでもなく、ローマリアにはエレンローズの声ならざる声が聞こえた。



「……ふふっ……」



 沈黙を破った魔女の口から、乾いた笑いが漏れた。うつむいた顔に前髪が垂れ、目許めもとが陰に隠される。



「……。……嗚呼ああ……“あわれみ”なんて……まっぴらですわ……」



 ボソボソとそうつぶやいたローマリアの肩は、わずかにうなだれているようにも見えた。


 コツ、コツ、コツ。


 棒立ちになっている魔女を置いて、女騎士の靴底が“鐘楼”の石畳を踏みたたく音が背後に離れていく。


 ……。



「……お待ちなさい」



 ローマリアの呼び止める声が、エレンローズの歩みを制止した。



「…………」



「この“星海の物見台”の最下層に、ロラン様の持ち込んだ盾の魔導器が転がっていますわ。一切の魔法を打ち消す盾……邪魔で仕方ありません。処分していただけて?」



「…………」



 それだけ聞くと、エレンローズはローマリアの方へは一切振り向かないまま、天空に浮かぶ“鐘楼”と地上の“星海の物見台”とをつなぐ転位昇降機を起動させ、転位陣の向こう側へと姿を消した。


 ローマリアの方も、背後でエレンローズが消えていく気配を確かめるばかりで、一瞥いちべつをくれることもしなかった。


 ……。


 ……。


 ……。


 サラサラサラ。と、無音の続いていた“鐘楼”に、魔女の霧のように白いローブのきぬ擦れの音が聞こえだす。


 “鐘楼”の一角に設けられたテラスの下、そこに据えられた2つの椅子の片方へ魔女が腰を下ろし、ギシリときしむ音がする。



「……人間なんて、嫌いですわ」



 “三つの魔女ローマリア”が、ぽつりと独り言をこぼした。



「野蛮で、愚かで、強欲で……生き急ぐように成長して、すぐに死んでいく……ふふっ、下等な生き物ですわ」



 ……。


 ……。


 ……。



「……わたくしが250年かけても振り切れなかったものを、あっという間に乗り越えて……そんなものを目の前で見せつけられてしまったら……嗚呼ああ、惨めなだけではありませんか……」



 手元に眼帯を転位させたローマリアが、絹のように真っぐに垂れる黒い髪をき上げながら、それを右目の上に巻いた。


 椅子の背もたれにギシリと背中を預け、ぼんやりと夜空に浮かぶ月と星座を見上げる魔女の背中は、随分と小さなものに見えた。

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