26-11 : 女2人

 片時も離さずシェルミアの手を握り締めていた右手が、今は空をつかんでいた。


 シェルミアの眠る硬いベッドの傍らに膝をついて微睡まどろんでいたはずの身体は、気づけば仰向あおむけになっていた。


 目の前に広がるのは、ほこりかびの臭いが充満する低い天井ではなく、雲ひとつなくどこまでも突き抜ける満点の月夜だった。



「……ふふっ……うふふっ……」



 その声は、シェルミアのものではない。


 長い黒髪をさらりと垂らして、何の感情なのか計り知れないもので頬をあかく染めた細身の女が、押し倒すようにしてエレンローズの身体の上に覆いかぶさっていた。



嗚呼ああ……貴女あなた……本当に、ロラン様にうり二つですのね……ンふっ」



「……」



 向こうから名乗られるまでもなく、エレンローズはその女のことを知っていた。


 “三つ瞳の魔女ローマリア”。双子の弟、“左座ひだりざの盾ロラン”が出兵していった、“宵の国”西方の守護者。



「その綺麗きれいな銀の髪も……灰色の瞳も……小さな顔も……それに――」



 ……。


 ……。


 ……。



「――ここの感触も……うふふっ」



 ふいに重ねた唇を離しながら、目の前でローマリアが文字通り魔女的な笑みを浮かべた。



「……」



「……嗚呼ああ……わたくし、今日はどうしても身体の火照ほてりが治まりませんの……あの男のせいですわ……」



 薄いローブ越しに浮かび上がる、女の身体を扇情的にくねらせながら、ローマリアがエレンローズの耳元にささやきかける。



「このうずき、独りでは慰めきれそうにありません……うふふっ……人肌が、恋しくてたまりませんわ……」



「……」



 顔を上げたローマリアが、鼻先が触れ合うほどの距離からエレンローズの目をじっと見つめた。



「エレンローズ……ふふっ、えぇ、貴女あなたのことは、ロラン様からよぉく教えていただきました……わたくし、貴女あなたとも1度こうしてお会いしてみたいと思っていましたの……まさかこんなに早く、しかもこのような日にそれがかなうだなんて……」



 魔女の目許めもとはとろんと細められていて、その奥の瞳は潤んでいる。紅潮した頬と相まって、それは欲情した女の顔をしていたが、猟奇と嘲笑にねじれた口許くちもとが全てを冷たくいびつなものに変貌させていた。



嗚呼ああ……貴女あなたのことも、奪ってしまいたい……壊してしまいたい……さぁ、楽にしてくださいまし……大丈夫ですわ……女同士でも、気持ちよくなれますもの……わたくしに、委ねてくだされば良いのですよ……貴女あなたの、全てを……うふふふっ……」



 そう言うと、ローマリアはエレンローズを組み敷いたまま、再び唇を重ねた。ぬるりと伸ばされた魔女の長い舌が、ナメクジのように女騎士の口腔こうこうの奥に絡みつき、なまめかしい音を立てる。


 グチュッ。


 その肉のねじれるような音は、2人の密着した口許くちもとからではなく、ローマリアの目許めもとから聞こえた。


 眼帯が外されあらわになっている魔女の右目がぐるりと回転し、濁った翡翠ひすいまぶたの裏側へと隠れ、そこには回転した眼球の白目の部分だけが不気味にのぞいていた。



「……ンふふっ」



 なおもエレンローズを求めて舌と唇をうごめかし、唾液を絡め合いながら、ローマリアが狂気と恍惚こうこつ目許めもとわらわせた。


 ……。


 ――ガリッ。


 そして、ローマリアの右目が更に裏返るよりも先に、絡み合う舌にエレンローズが歯を立てる音があった。


 ……。



「っ……。ひどいことをなさいますのね……お痛はいけませんわよ……」



 瞬間転位によってエレンローズから離れたローマリアが、うつむけた口許くちもとを手で覆いながら、物言わぬ女騎士をにらみつけた。エレンローズの歯が深く食い込んだ舌からは紫色の血がドクドクと流れ出て、それが魔女の口の端からあふれ出している。



「それとも、痛みを伴う方がお好きなのかしら? うふふっ……」



「……」



 ローマリアの視線に負けず劣らずそれをにらみ返しながら、エレンローズが無言のまま立ち上がる。


 そこは一面見渡す限りの星空に包まれた、現実味のない場所だった。石畳の敷き詰められた巨大な円形の広場のような場所に、ティーカップを据えられた丸テーブルと、椅子が2脚置いてあるテラスのようなものがあり、そことは正反対の位置に何やら大きな仕掛けの魔導器のようなものが組み付けられている。それ以外には雨を防ぐための天井もなく、壁も、窓も、扉もない。


 そこは眼下に群青色の雲海を見下ろす、夜空に浮いた箱庭だった。



「ようこそ、わたくしの“鐘楼”へ。貴女あなたはここに招き入れた、2人目の人間ですわ――ロラン様に続いて……ふふっ」



 口の中にあふれた血を、コクリと喉を鳴らして飲み下したローマリアが、わざとらしく歓迎の仕草をとって見せた。


 まるでそれは、エレンローズがどれだけの憎悪を自分に向けてくるかを値踏みし、期待しているかのようだった。



「…………」



 しかし“鐘楼”には、ローマリアが求めるような戸惑いの声も、絶望の悲鳴も、憎悪の叫びも響かなかった。


 そこにはただじっと、魔女の翡翠ひすいの左目と白目を剥いた右目とを見つめ続けるエレンローズの姿だけがあった。



「……? あの渓谷でお見かけしたときから不思議に思っていましたけれど……貴女あなた、ひょっとすると言葉が話せないのかしら?」



「…………」



 魔女の問いに、返ってくる言葉はない。



「……。ふふっ、あら、そぉ。ロラン様の“中”をのぞいたときには、貴女あなたはとてもよくしゃべる女に見えたのですけれど――ρα……」



 そう言うとローマリアは、白目を剥いた右目に手のひらをかぶせ、好奇の色に顔をゆがめた。


 ――ぐるり。


 手のひらに隠されたその下で、眼球のねじれる気味の悪い音が聞こえた。



「……――ふぅん。存外、取り乱してはいないのですね……冷たい女ですこと。少し興醒めですわね」



 ――『何? もしかしてその目、私の考えてることが分かるの?』



「えぇ、この“星の”は、ことわりを外れた目……宇宙の神秘とつながる目。こういう使い方もありますのよ。もっとも、これで貴女あなたを直視すると発狂させてしまいますから、こうして隠させていただいていますけれど」



 ――『気味の悪いひと



「うふふっ……嗚呼ああ、やっぱり……生意気な女ですわね、ふふっ」



 2人の女が視線を飛ばし合い、魔女だけが延々と独り言を口にする奇妙な光景が続いた。


 魔女の右目に、エレンローズの感情の色と形が鮮明に写る。それは色せた花弁のような薄青色をしていて、何重にもねじれて、ピクピクと脈打っていた。


 不安の色。不吉な予感に揺れる形。次にやってくる言葉を否定しようとしながら、半ば確信してしまっている心の動き。



「――ええ、貴女あなたの思っている通り……ロラン様は、わたくしがコワしてしまいましたわ」



 エレンローズのその心の形に応えるように、嘲りと悪意を込めて、ローマリアが言った。

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