26-10 : 代償

 ――同刻。“大断壁”西方要塞跡地。居住区画。


 石の土台に、かび臭さの染み付いた薄い毛布を敷いただけの簡易な作りの寝床の上で、シェルミアは浅い眠りから何度目かの目覚めに至った。


 暗黒騎士“魔剣のゴーダ”の申し出に渋々応じた西の守護者“三つ瞳の魔女ローマリア”による治療は、決して安楽なものとは言えなかった。


 “不毛の門”へと押し寄せた亡者の群れとの戦闘で負った無数の外傷の治療には激痛が伴い、せめて声は漏らすまいと口に当てた布切れを、どれだけの時間んでいたのか定かではなかった。


 だが、その気丈に耐え抜いた激痛も、その後に受けた魔力修復の施術に比べれば可愛かわいいものだった。


 “明けの国”の禁呪書庫に永く眠っていた禁呪を、その身に三重さんじゅうに渡ってまとったシェルミアの体内の魔力の流れは、容態をひと目見たローマリアが思わず顔をしかめるほどに、ズタズタに傷ついていた。


 魔女いわく、魂が生命を内側から支える何かなのだとすれば、魔力とは生命の外殻を包み込む卵の殻のようなものだということだった。魔法使いであろうと戦士であろうと農夫であろうと、魔力という世界に満ちる力の使い方が異なるだけで、それから受けている恩恵は皆同じであると。


 その生命の殻たる魔力の流れが乱れれば、どのような結果が待っているかは聞くまでもないことだった。



「わたくしも魔力を研究する者の端くれですわ。できる限りのことはして差し上げましょう。ですけれど、貴女あなたの狂ってしまった体内の魔力の調律が元通りになることはないと、あらかじめ言っておきますわ……こんなにどうしようもなく壊れてしまった流れは、わたくしも見たことがありませんので……ふふっ」



 前後の脈絡をまともに覚えていることといえば、魔女のそんな言葉だけだった。そこからすぐに始まった修復施術の記憶は、ぶつ切りになった断片が前後を入れ替えながらつなぎ合わされたように支離滅裂だった。


 内蔵に熱した火箸を突き刺しき回されるような、背骨の髄に鉄線を通されしごかれるような、形容しがたい苦しみ。


 甲冑かっちゅうと衣服を脱いだ裸の背中を、軟体生物のようになまめかしくい回る魔女の冷たい手の感触と、耐えがたい苦しみに思わず悲鳴を上げてしまう自分の醜態をクスクスと嘲笑あざわらう声。


 頭が割れてしまいそうな頭痛と、左目の視界だけがグルグルと回転しているような不快感。そしてその左目からあふれ出して床の上にドボドボと垂れ流れる、黒い液体の水音。


 一体どの苦しみから始まり、どの苦痛で終わりを迎えたのか、答えてくれる者はいなかった。


 ただ、治療の間、片時も離れずずっと手を握り返されていた感触があったのだけは、シェルミアもはっきりと覚えていた。



「……」



 目覚めた視界の見上げる天井は、魔法によって精製された独特の冷たい光で照らし出されていた。ひんやりとした空気が、夜になっていることを物語る。


 外傷の痛みも、修復施術の苦しみも、うそのように消えていた。


 ふらりと、枕元で頭を横に転がすと、視線の先にはよどんだ空気ですすけた姿見が立っていた。


 そこに映った人影に、シェルミアは一瞬大きく目を見開いて、やがて何かを悟ったように目を閉じた。


 何度か静かに呼吸して、再び目を開ける。


 知らない容姿の女が、姿見の中からこちらを見返していた。


 金色の長い髪の毛の中に、頭頂から毛先まで真っ黒に染まった髪の束が数本、墨で書いた筋のように垂れていた。


 曇っていたあおい瞳は、右目だけ元のきらめきを取り戻していて、一方の左の瞳からは色という色が全て溶けて消えてしまっていた。どうやら失明はしていないようだったが、色のなくなった瞳の中に浮かぶ瞳孔はナイフで切れ込みを入れたような細長い形に変形していて、それはまるで昼間の猫か、あるいはトカゲの目のような形をしていた。



「……」



 そんな変容と引き換えに軽くなった身体を硬いベッドに横たえて、シェルミアはもう一度目を閉じて、深く深く息を吸い込んだ。



 ――……とても、遠いところまで来た気がします。



 王都から1人で飛び出したとき、命を捨てる覚悟はできていた。


 この身体ひとつが無数の民の命と釣り合うのなら、それで構わないと意志を固めていた。暗く湿った地の底で腐り果てるだけだった身に、まだそれだけの意味があれば本望だと。



 ――死に急いだとは、今も思ってはいません。愚かで無謀だったなどと、後悔もしていません。



 亡者の群れが雪崩なだれ込む“不毛の門”に、孤独な番人として立ったとき、死を恐れはしなかった。


 ……。



 ――だけど、今は違うようです……。



 もう一度肺の奥まで息を吸い込んで、シェルミアは横たわったまま手元に目を向けた。



 ――今は、死ぬのが怖いと感じている。きっとそれが、正しいことなのでしょう。



 ……。



「――貴女あなたのお陰です、エレンローズ。」



 右手でシェルミアの手を握ったまま、床に座り込んで眠っているエレンローズに向かって、姫騎士が小さな声で語りかけた。


 その声が聞こえたのか、エレンローズがうっすらと重いまぶたを開けた。



「…………」



「すみません、起こしてしまいましたね」



「…………」



 声を失った女騎士は、シェルミアの言葉に小さく首を振り、言葉の代わりにふわりと微笑ほほえんでみせた。



 ――私に仕えてくれる騎士が1人でもいるのなら……私を必要としてくれる民が1人でもいるのなら……私はまだ、生きていたい。



 ……。


 ……。


 ……。


 霧のように白く薄いローブがふわりと宙に揺れたのは、そのときだった。


 シェルミアの見ている目と鼻の先で、エレンローズの両肩に、その背後から細く長い手がぬっと伸びてきて、女騎士の身体を包み込んだ。


 吸い込まれそうな澄んだ翡翠ひすいが1つと、濁りきった翡翠ひすいがもう1つ。2つの瞳が、エレンローズの肩を抱き寄せたままシェルミアを見やり、にんまりと半月型にゆがんだ。


 その狂おしいわらい顔に、ゾッと背筋が寒くなる。



 ――待って!



 その声は喉元で凍りついて、言葉にはならなかった。



「……ンふっ」



 グチャグチャに混ざり込んだ感情に頬を染めたローマリアが、悪魔のようににっこりと笑い、そして消えた。


 シェルミアが伸ばした手の先に、エレンローズの姿はなかった。

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