26-5 : “昏き淵の者”

「……おもてを上げよ」



「……は」



 その声に促されるようにして、ゴーダとローマリアがゆっくりと顔を上げる。


 彼らの前には、陽光の落ちる“不毛の門”の乾いた大地ではなく、冷たい月の光が差し込む謁見の間が広がっていた。


 その外側に何が広がっているのか一切認識できないガラス窓を月光が透かし、光の筋がゆっくりと移動し、伸びていく。


 入り口がどこにも存在しないその場所の最奥、深い深い影が差している場所をあおい夜の光がめて、やがてそこに孤独な玉座の形が浮かび上がった。


 月の光が、大理石のように真っ白な肌を照らし出す。


 まるで作り物のように現実味のないその肌よりもなお白い髪が、はっとするほどくっきりと闇の中に浮かび上がる。


 白と黒だけが配されたドレスは、要らぬ装飾が排された分だけ、そこに漂う荘厳そうごんさが際立っていた。


 その頭頂に頂いた冠が、作り物のような少女の地位を無言の内に如実に語る。


 そして月夜の中に浮かび上がる金属光沢をした金色の2つの瞳が、その存在の神聖性と不可侵性を何よりもはっきりと表していた。


 そのようにして、何の感情も浮かべることなく、ただ玉座の上で頰杖ほおづえを突いて、“宵の国”の絶対君主“淵王リザリア”がそこにいた。



「……っ」



 エレンローズは、理解が及ぶよりも先に、ゴーダたちと同じようにその場にひざまずいてこうべを垂れていた。騎士の直感と本能が、理由も何もかもを飛び越して彼女にそうさせていた。絶対的にとうとい者の気配を前に、垂れた頭の下で目が丸くなり熱い汗が噴き出した。


 ひざまずいたエレンローズが懸命にかばうようにして、その背中にまもられていたシェルミアも、彼女と同じものを感じていた。



「う……ぐ……っ」



 シェルミアが無理やりに、動かない身体を起こそうとする。幾ら満身創痍そういで身体の自由が利かないとしても、そんなことがその“少女の姿をした何か”の前で非礼をしてもよい理由になりなどしないと、王族として生きてきた彼女ははっきりと理解していた。



「……よい。此度こたびゆえあって余の方から侍女を遣わせた。気遣いは不要である」



 シェルミアたちが努めて表に出さないようにと押し込めていた動揺を見破るように、リザリアが無表情のまま感情のない平坦へいたんな声で言った。


 淵王は相変わらず孤独な玉座の上で頰杖ほおづえを突いていたが、それが人間の振る舞いに気分を害しているためなのか、気怠けだるいだけなのか、それとも何も考えてなどいないのか、そこからは何も読み取ることはできなかった。



「…………」



 程度の大小こそあったが、この状況に戸惑いを感じているのはゴーダも同じだった。


 東の四大主となって250年を経た今となっても、ゴーダには“淵王リザリア”とその直系の仕え人である“大回廊の4人の侍女”について、分かっていないことが多すぎた。それはゴーダに限った話ではなく、他の四大主もまた、その“少女の姿をした何か”の底を見た者はいない。


 現に今、ゴーダは“大回廊の4人の侍女”がこのような権能を有しているということを初めて知ったのだった。



 ――転位……ではないな。陛下と侍女は互いの存在を何らかの力で結びつけているのか……?……やはりこのお方は、計り知れん……。



「ゴーダ」



 リザリアの淡々とした声が、暗黒騎士の名を呼んだ。



「は。ここに」



「東の四大主たるうぬが、何故なにゆえに北のまもりの地に踏み入っておるのか、余は知らぬ」



 細められた金色の瞳が、魂まで射貫くようにゴーダを無感情に見つめた。



「……。この身に事の成り行きを説明する機会を、お与えいただければ」



 上げていた顔を再び下げて、ゴーダが一言一言をみ締めるように言った。ローマリアがその横でどんなわらい顔を堪えているか、手に取るように想像できた。



「要らぬ。此度こたびのことに余は理由など求めておらぬ。四大主の勤めを果たす限り、うぬの望むようにするがよい。大儀である」



勿体もったいなきお言葉」



 リザリアが頰杖ほおづえを突いたままゆっくりとうなずき、話を区切る。そして金色の瞳がゆらりと流れて、謁見の間の片隅にその視線が向けられた。


 月光の届かない影の中で、“それ”がカタカタと震えている気配があった。



「……リンゲルト」



 淵王のその声は、それまでと全く同じ感情のない声音だったが、明らかにこれまでのものとは何かが違っていた。



「……カッ……ア、ア……陛、下……陛下……っ」



 片腕以外の四肢が千切れ落ちたしぼんだ身体を引きって、変わり果てたリンゲルトが月光の中にズルズルとい出てくる。



「力を失ったと見えるな、“渇きの教皇”よ」



 まるで興味を持っていない様子で、リザリアの声が冷たく続けた。



「その無様な姿、“北の四大主”を名乗るにあたわぬと余は考えるが、どうか?」



 まばたきもせず、変わり果てたリンゲルトをじっと見やる金色の瞳の、何ととうとく、冷たく、恐ろしく、そしてくらいことか――畏れおののいた教皇は、ただ謁見の間に今にも砕け散りそうな頭骨をこすりつけて、残った片腕を後頭部の上に祈るように掲げ上げていた。



「……カッ……ア゛……ああ……ま、まだ……まだに、ございます、陛下……まだ、この、リンゲルトめは、戦えましてございまする……っ!」



 リンゲルトが、全身の骨をきしませるようにして陳情する。ゴーダの魔剣によって全ての力を失ったその亡者は、最早もはや自身の骨の身体を維持することさえままならず、声を発するたびにその振動でひび割れた骨の粉をぱらぱらと崩れ落としているのだった。



「カッ……暗黒、騎士に……“魔剣の、ゴーダ”に……わ、我らが灰と、歴史を……斬り捨て、られての、この醜態……っ。口惜しや……口惜しや……! は、灰を……! に、人間の血潮で、もって……灰を成せば……っ、必ずや、御身おんみより頂きましたる、この役目……果たして、御覧に……っ」



「要らぬ」



 淵王の発したそのたった一言で、謁見の間に在るあらゆるものがぴたりと動きを止める気配があった。


 エレンローズは、身体を震わせることさえできずに、こうべを垂れ続けていた。


 シェルミアは、臣下に目を向けるリザリアの姿から視線を剥がすことができなくなっていた。


 そして2人の人間は、互いに息をすることさえ忘れて、そうしているのだった。



「リンゲルト……余は、“宵の国”から“明けの国”の地を侵すことは許さぬと言った……“2度も言わすでない”」



 ゴクリと固唾を飲み込むことさえ、はばかられた。反論はおろか、目の前に座す絶対君主の許可なくして口を開くことさえ許されないといった、何よりも重い重圧が背中にのし掛かってくるようだった。


 ゴーダとローマリアは、その重圧が満ち満ちる謁見の間の中で、顔色ひとつ、呼吸ひとつ乱すことなく、ただ涼やかにひざまずくばかりである。



「……っ……陛か――」



「口を閉じよ、“渇きの教皇”」



「うっ……!」



 ……。


 ……。


 ……。


 “少女の姿をした何か”が、左手で頰杖ほおづえを突いたまま右手を挙げ、小さく白い指先で矮小わいしょうな亡者を指差した。


 ……。


 ……。


 ……。



「北の四大主よ……」



 そして、果てしない沈黙と無音と虚無を経て、“淵王リザリア”の薄闇に浮かぶ金色の瞳が、“渇きの教皇リンゲルト”を、断ずる。



うぬに、“四大主”を名乗る資格は最早もはやない……力なき者よ、余の言葉にそむきたる者よ……――」



 ……。


 ……。


 ……。



「――……消えるがよい」



 ……。


 ……。


 ……。


 ポキポキ、ペキリと聞こえた音は、“渇きの教皇リンゲルト”が己の身を砕きながら“淵王リザリア”の下にすがり付こうと身を乗り出した音だった。



「陛下……! お慈悲を……何卒なにとぞ、お慈悲を……っ!」



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。



「――2度は言わぬ」



 無表情のまま、無感情のまま、リザリアがリンゲルトを指差していた右手の指をふっと下ろした。


 ……。


 くらい、くらい影が、にじみ出る――。


 真っ黒に、塗り潰れる――。


 深い深い闇の果て……“くらき淵”の原初の色が――。


 虚無の中に瞬いたのは……あの、金色こんじきの光――。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。

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