26-3 : 鼓動

 父も母も、とうの昔に失った。どう失ったのかという記憶自体も失った。


 ただがむしゃらに走り続けて、“右座みぎざの剣”とまでうたわれたその片腕も、魔導の腕輪も失った。


 たった1人の、双子の弟も失った……。


 言葉も失い、騎士の誇りも音を立ててへし折れた。


 ここにはもう、何もない。空虚で冷たく、虫の抜け殻のように乾いた伽藍堂がらんどうしかなかった。


 だからエレンローズは、自分の心臓がこんなにも重く、こんなにも早く鼓動していることに戸惑っていた。


 その早鐘は、足のすくむような絶望のせいでも、死への恐怖あるいは期待のためでもなく、生への純粋な執着のために鳴っていた。



「う……っ」



 まだ死ねない、と。



「うあっ……」



 生きていたい、と。



「あ……あ゛……っ!」



 生きていてくれた、と。


 ……。


 ……。


 ……。



 ――やっと……やっと……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――また、お目にかかれました……シェルミア様……。



「……うああ゛ぁぁ゛ぁああ゛ぁぁ゛ぁんっ!!!」



 語るための声を失くしたエレンローズに、その言葉を口にすることはできなかったが、言葉にできないことが、思いが伝わらない理由にはならない。


 言葉を覚える以前の幼子のように、声を上げて泣き続けるエレンローズに、横たわったままのシェルミアは何もかずに腕を伸ばしていた。



「……エレンローズ……」



 禁呪にその身と命を削ったシェルミアが、まだ力の入り切らない手のひらと声で、彼女の名を呼んだ。



「……エレン……」



 何度も確かめるように、その騎士の名を呼んだ。



「……よく……生きていてくれましたね……ただそれだけで、私はうれしいです……また、貴女あなたとこうして会えたことが、何よりも……」



 ゴーダの前であれほど我慢していた涙が、今はもう、どうやっても止められなかった。地下牢の中で飢えと渇きと苦痛にさいなまれたこの身体の中にも、まだこれだけのものが残っていたのかと、シェルミアは震える感情の片隅で、ただぼんやりと思いをせた。



 ――まだ……まだ、大丈夫。



 ――まだ、全てが駄目になってしまったわけじゃない……終わってしまったわけじゃない。



 ――エレンも、私も、まだ、生きている。



 ……。


 ……。


 ……。


 視界の片隅で、ゾワリと冷たい気配を感じたのは、そんなときだった。



 ***





嗚呼ああ……人間の女を2人もはべらせて、この東の四大主は何を考えているのですかしらね?」



 エレンローズとシェルミアを“不毛の門”の“明けの国”側へ残して歩き去った先、泣き声の残響だけが聞こえる渓谷の只中ただなかで、“三つ瞳の魔女ローマリア”がめ息混じりに言った。



「そんなことでいちいちへそを曲げてどうする……お前こそ西の四大主の名が泣くぞ」



「あらあら……そうですか……“そんなこと”、ねぇ……」



 目を閉じてツンと顔を背けたローマリアの態度は、不機嫌そのものだった。



「何とでも言うがいい」



 そうこぼすゴーダの声音には、ローマリアのものとは正反対に、安堵あんどの感情がにじみ出ている。



「リンゲルトの愚行は阻止できた。シェルミアとも思いがけずこんなところで相見あいまみえることができた……容態が回復次第、話をつけよう。あの女は、“明けの国”の王位継承者だ」



「ええ、存じていますわよ、そのようなことくらい」



 魔女が、何を今更とでも言うように、ふんと鼻を鳴らしてみせる。



「“宵の国”領内に侵攻した人間の残党戦力への対応と、リンゲルトと私の件をリザリア陛下にお話ししなければならないこととで頭を痛めそうだが……危機は、脱した」



 誰に向けてというわけでもなく、確かめるようにゴーダがつぶやいた。



 ――そう。危機は脱した。“宵の国”にとっても、“明けの国”にとっても、私にとってもな……。



 ……。



「……ふふっ」



 ……。



「うふふっ」



 ローマリアが、悩ましそうに身体をくねらせて、口許くちもとを押さえた手の隙間から嘲笑を漏らしていた。



「何だ。何がそんなに可笑おかしい」



 ゴーダが首をかしげる。その声が幾分か冷たくなる。


 ……。



「……っ……――アはははははははははははっ」



 そしてとうとう、わらい声を我慢できなくなったローマリアが、ゾッとするような狂おしい声で笑い転げた。顔をうつむけ、身体を二つに折り、腹を抱えてゴーダを嘲笑する。



「…………」



 暗黒騎士は、狂ったようにわらう魔女の姿をただじっと兜の奥から見やっていた。



「……アはっ……。……嗚呼ああ、はしたない……わたくしとしたことが……」



 腰をかがめて顔をうつむけた姿勢のまま、ようやく嘲笑の治まったローマリアが、しずしずと口を開く。



「何も、御存じないのね……嗚呼ああ、ゴーダ……貴方あなたのその目は、わたくしのこの光を失った右目よりも盲目なのね……ふふっ」



 右目の眼帯に細い指をわせながら、魔女がゆっくりと顔を上げた。その頬にはわらい続けた高揚で朱が差していて、左目は何かを愛でもしているようにとろんと目尻が下がっていた。



嗚呼ああ、何て、可愛かわいい人……うふふふっ……」



 ローマリアのなまめかしい舌が唇をめ、口許くちもとがぐにゃりと嘲りにゆがむ。



「何のことだ……貴様、何を言っている……」



「……何も、終わってなどいませんわ……脅威は、まだ――」



 ……。


 ……。


 ……。



「――カッ……カッ……」



 ローマリアが言い終わらない内に、“不毛の門”の後方、シェルミアとエレンローズを置いてきた方向から、今にも消え入りそうな渇いた息の音がかぶさってきた。


 それまで欲情したようにうっとりとしていたローマリアの表情がふっと冷たくなって、背後に広がる不毛の断崖地帯を振り返る。



「あら……あの死に損ない、まだいましたの……興の冷めることをしてくれますこと……」



 リンゲルトのものであろうその弱々しい息遣いを耳にして、“死に損ない”と軽蔑するように言った魔女の目に、その存在はもう自分と同格のものとして映ってはいなかった。ローマリアの翡翠ひすいの瞳には、潰れた虫でも見ているように、何の感情も表れていない。



「跳ばせ、ローマリア」



 氷のような視線を背後に送っていた魔女の肩をつかんで、暗黒騎士が言った。



「…………」



 正面から肩に手を掛けたゴーダへ、ローマリアが顔を向ける。その目にはつい今し方まで背後に響くリンゲルトの声に向けていた、寒気がするほどのさげすみの名残があったが、暗黒騎士の姿を視界に入れた次の瞬間には、魔女の顔には少女のように穏やかなふわりとした微笑ほほえみが浮かび上がっていた。



「……ふふっ」



 左肩に置かれているゴーダの手に、ローマリアが自身の右手を重ねる。細く長い指が暗黒騎士の指1本1本にうねうねと絡みつき、指の間をで回した。目を閉じた魔女がそこに顔を近づけ、その感触を確かめるように手甲に頬ずりする。



「……早くしろ」



 背筋に何度も寒気が走るのを感じながら、ゴーダが努めて厳しい声音でつぶやいた。



「うふふっ、そんなにかさないで下さいまし……。……。……ええ、よろしくてよ」



 ゴーダが怖気おぞけ立っていることを知ってか知らずか、ローマリアの顔にニヤと嘲笑が浮かんだ瞬間、2人の魔族の姿はその場から跡形もなく消えていた。

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