縁輪邂逅
26-1 : 夢
夢を見た。
意識が水を吸い込みきれなくなった泥のように重くなって、ドロドロになって、息の続かなくなるほどの深い深い水底へと沈んでいく。普段は思考と意思が浮力となってそれ以上深くに潜ることを許さない場所へ、どこまでも下っていく。
まるで、“生”という重しさえ振り切ってしまったように、暗くて
……。
夢を見た。
それは境界線を
忘れかけていた記憶。大事に鍵をかける余り思い出せなくなっていた、遠い日々。消えない記録。
それは確かに夢でしかなかったが、過去をそのまま繰り返しでもするように、シェルミアにとっては暖かく、肌寒く、ちくりと痛む夢だった。
――。
――。
――。
胸が潰れてしまうほど痛んで、息ができなかった。
誰かの手で押さえ付けられでもしたように、頬が
声の震えはどうやっても消すことができなくて、小さな両手で冷たくなった目を押さえていないと、
幼い私は、そんなふうにして1人で立ち尽くして、泣いていた。
「大丈夫だよ――僕がついているからね」
耳元で、優しい声が私に言い聞かせるように語りかけてくる。回された手に背中をトントンと
そして私の頭を
冷たくなった私の身体が熱を取り戻していくように、温かな涙が
「だから、もう泣かないで、ね、シェルミア……」
ああ……。
この人が、私のことを
――だいすき、おにいさま。
――。
――。
――。
兄に構ってもらえるのが、
兄に褒めてもらえると、胸の奥が暖かくなった。
兄の後ろをついて回るのが、とても楽しかった。
兄と一緒にいられるだけで、私は幸せだった。
大好きです、お兄様。
だから私は、学問にも作法の勉強にも、一生懸命でいられた。
兄に構ってもらいたくて――褒めてもらいたくて―― 一緒にいたくて――私よりもずっと大きなその手で、
……。
『妹姫様は、日に日に御立派になられておいでね』
――違うよ? お兄様の方がずっとずっと素敵だよ?
『才能と素質に恵まれておいでだわ。遠方からいらっしゃった先生方も、皆様口を
――違うよ……先生に褒められたって、
『……。兄王子様にも、妹姫様のように才が宿っておいでであればね……』
――何でみんな、そんなこと言うの? お兄様は、私よりもずっとずっと一生懸命にたくさんのことを勉強してるのに、何でみんな、そのことを知らないの?
――何で誰も、お兄様のことを褒めてくださらないの……?
『……でも、これで良いのかもしれませんわね』
『そうね、国王陛下の御心境は複雑でしょうけれど、王妃陛下との御関係はお陰で円満ですものね』
『兄王子様のあの茶色の瞳……お亡くなりになった前王妃様の生き写しのようだわ……』
『王妃陛下に近しい大臣たちはこの機に躍起になっているのでしょうね、その下の文官たちも。無理もないわ、現王妃陛下の直系の
『そういう
『あら、そちらこそ態度が言葉に出ているじゃありませんか。前王妃様つきだった大臣の誰かの耳にでも止まったらどうしますか……まぁ、今更ですけれどね。ああ、今からでも妹姫様に、せめて顔だけでも覚えていただかなければ』
王城を行き来する大人たちが、何の話をしているのか、私にはよく分からなかった。ただ、それは私が聞いていてはいけない話なのだということだけが、子供心にも理解できた。
ひそひそ。ひそひそと、大人たちのそんな聞いてはいけない声が、聞きたくもないのに、至る所に潜んでいた。暗い隙間に巣を張る虫のように。抜いても抜いても根の枯れない、悪い毒草のように。
そんな声を耳にして、理由の分からない不安で眠れない夜は、私はよく兄の部屋の扉を
「大丈夫だよ、シェルミア。僕たちは兄妹なんだから、何も気兼ねなんてしなくていいんだよ」
兄のそんな何でもない言葉が、不安で一杯になってしまいそうな私にとっては、何よりも救いだった。
兄に優しく頭を
兄といる時間が、もっと欲しかった。
――そうだ、お兄様と一緒に、私も剣の稽古をつけてもらおう。
――そうすればお兄様が一生懸命に頑張っているところを、お城のみんなも気づいてくれるわ。
そのときの私にあったのは、「兄と一緒にいたい」という思いだけだった。
だからあのときの私には、剣を教えてほしいと話したときの兄の顔になぜ影が差したのかなんて、想像することもできなかった。
――。
――。
――。
私は、兄のことを尊敬していた。悲しいときに抱き締めてくれて、優しく私の頭を
私の悲しみと不安を受け止めてくれた分、私も兄のために強くなりたいと願い続けていた。
ずっと私を
兄は難しい顔をすることが多くなったけれど、その悩みもいつか、私にだけは打ち明けてくれると思っていた。
そう信じていた。
そうであってくださいと、願っていた。
「今のが……“宵の国”の民、か……」
夏の
「あんなものは、早々に皆殺しにしてしまえばよいのだ……!」
――どうして、そんなことを言うのですか、兄上……。
――私は……
――私は……
――何が
……。
ああ、今更、どうして私は、こんな記憶を夢に見ているのだろう……。
……。
どうして夢の中でまで、あの光景を見なくてはいけないのだろう……。
……。
あの夏の記憶は、夢に出てくるまでもなく、私の脳裏に焼き付いて、片時も離れてはくれないというのに……。
……。
私の記憶の中に漂う少女の影が、何度も何度も震える声で「やめて」と
目と耳を固く閉じ、石のように小さく固くうずくまった少女が幾らそう嘆いても、私の夢は記憶の再生を止めてはくれなかった。
不安と悲しみで冷たくなっていく少女の身体をいつも抱き締めてくれていた兄の姿は……どこにもなかった。
……。
「ぎゃああぁぁぁぁぁっ!!」
熱い空気が
「ぐっ……ごぼっ……!……ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……!!」
ああ……やめて……やめて……。
……。
……。
……。
“おにいちゃん”……
魔族の少女の声にならない声が、どんなに大きな罵声よりも強く私を揺さぶる。
その小さな身体を斬り裂いた剣の感触が、何かの呪いか罰のように、手のひらに
――ごめんね……ごめんね……。
「あ゛あ゛ア゛あ゛ぁ゛ぁ゛ァ゛ァ゛ぁ゛ァ゛っ!!!!!!」
とうに生きる
――ごめんなさい……ごめんなさい……。
だから私は、あの刃を甘んじて受けたのだ……あの魔族のお兄さんの突き出した刃が私の身体を突き刺して、この身に罰を与えてくれるのを、私は望んでいたのだ……。
――終わりにしてみせます……これが、最後にしてみせます……。
――だから、恨んでください……呪ってください……。
魔族のお兄さんの死の感触をこの手に確かに刻み込みながら、私の意識はどんどん遠くなっていく。
「シェルミア……!」
そのときの兄の顔に、暗い笑い顔が浮かんでいたのを……私は、忘れることができない。
――ああ……。
――兄上……。
――
兄の伸ばした手は私の身体から半歩手前でぴたりと止まり――私も、その手を握り返そうとはしなかった。
……。
……。
……。
――恨んでください……呪ってください……。
……。
……。
……。
――私が、終わらせる……私で、最後にしてみせる。
……。
……。
……。
――私が、王になる。
……。
……。
……。
――もう、誰の悲しむ顔も、見たくない。
……。
……。
……。
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