24-5 : 最後の騎士

「…………」



 ……。


 ……。


 ……。


 参謀官は、襟首をつかみ上げられ椅子から腰が浮いたのが分かったが、固く閉じたその目を開くことだけは、どうしてもできなかった。



「……指揮官に、会わせなさい……今すぐに! 早く!」



 語気を強めたシェルミアの意識からは、自分が脱獄した身であるという事柄など完全に消し飛んでいた。



「……っ」



「早くっ!! 私が直接話します……居場所を教えなさい!!」



「騎士団は――!」



 襟をつかんだシェルミアに身体を前後に揺すられながら、参謀官が最後の重い口を割って、事実を告げる。



「騎士団は……っ! 残存兵力を総動員して、北北西の国境地帯に最終防衛線を構築中です……」



「そんな遠方に展開していては……っ!……民の退去は……どうなっているのです……」



 つかまれた襟首に、シェルミアの手の震えが伝わった。



「この防衛戦は、総力戦なのです……北の四大主は、それほどに強大過ぎる……。民の誘導に回せる人員など、騎士団には残っておりませぬ……っ」



「……っ」



 ふいに、襟首をつかみ上げていたシェルミアの手が離れ、目を閉じたままでいた参謀官はドスンと椅子の上に尻餅を突いた。そして参謀官が恐る恐る目を開けると、そこには凍えたように自分の両肩に両腕を回して顔をうつむけ、目元の隠れているシェルミアの姿があった。


 シェルミアが聞き取れない小さな声で、何事かぶつぶつとつぶやき続ける間があった。



「で、殿下……」



 そしてキッと顔が上がり、前髪の下からのぞき見えた元騎士団長の瞳の奥に、参謀官は鬼気迫る色を見た。


 ドンッ!と、シェルミアの手が壁を付き、参謀官がその気迫に押されてビクリと跳ね上がった。



「……貴方あなたが、民の王都退去を指揮しなさい。……お願いします……っ」



「し、しかし……私にそのような権限は……それに騎士もいない中、どうやって――」



「従わせる権限がないというのなら、頭を下げて回りなさい……騎士がいないというのなら、文官たちと民の中から有志を集めなさい……その身にできることであるのなら、何でもやりなさい……! 打つ手がほんのわずかでもある内は、言い訳は許しません……!」



 シェルミアの有無を言わさぬ言葉に圧倒されて、参謀官がわなわなと口ひげを震わせた。



「そ、そのようなこと……」



「言い訳は許しませんと言いました! お願いします……もはや私の言葉に、意味などないのかもしれない……ですが、どうか、お願いします……! 私の最後の願いを、どうか……」



 そして、鋭い闘気のような気配を帯びていたシェルミアの表情が突然ふわりと和らいで、穏やかで優しい瞳が、じっと参謀官の目を見つめた。



「そのための時間は稼ぎます。……民を……この国を……頼みますね……」



 ……。



「あ……!……っ……。……かしこまり、ました……確かに……確かにっ……!」



 気づけば参謀官は、シェルミアに深々と頭を垂れ、嘘偽りなく誓いの言葉を口にしていた。


 シェルミアの手が、そっと頭に触れる感触があった。



「生き延びて下さい……後は、お願いします」



 ……。


 ……。


 ……。



「っ……シェルミア様!――」



 涙ぐんだ参謀官が慌てて顔を上げる頃には、“明星のシェルミア”の姿はもうそこにはなかった。開けられたままの扉の端で、白いローブの裾が別れを告げるようにふわりと一瞬舞ったように見えたが、それもすぐに幻のように視界の外に消えていった。



 ***



 あかりの落ちた無人の騎士団兵舎の回廊を、シェルミアが1人真っぐに歩き進んでいた。



「北の四大主……北北西の国境地帯までは早馬でも3日はかかる……騎士団を呼び戻している時間は……ありませんね」



 早足に進んでいたシェルミアの足がさっと立ち止まり、目の前の扉を勢いよく押し開けた。


 騎士団兵舎内に設けられたシェルミアの私室。弾劾裁判の前後で調査が入り、物という物が全てひっくり返された室内の間取りは、彼女の記憶とは似ても似つかないものに変わり果てていた。


 壁に据えられた燭台しょくだいあかりをともし、足の踏み場もなくなった室内を横切って、散らかり尽くされた山の中からシェルミアが1枚の大きな地図を引っ張り出す。そして机の上に無造作に広げられた書類の束や調度品を腕で勢いよく払い落とし、そこに地図を広げ、彼女は北方国境線の描かれた部分を凝視した。


 切り立つ山脈地帯と、その麓に広大に広がる平野地形。北回りで“明けの国”と“宵の国”とを行き来するには、この山脈地帯の途切れる末端部を大きく迂回うかいするようにして平野地形に入らなければならない。


 北北西の地形は、連峰によって動線が限定される、まもりやすく攻めにくい天然の要塞地帯だった。



「防衛線を敷くとすれば、山脈を迂回うかいして抜けてくるこの平野地帯に布陣するのが定石……まもりを固めるにはこれ以上の好手はない。間違いなく、騎士団はここに展開していますね……」



 地図を指先でトントンとたたきながら、シェルミアが1人思案を巡らせる。



「前線の被害を最小限に抑えつつ王都を防衛するには、これしかない……」



 思考の1つ1つを確かめるように言葉を発していたシェルミアだったが、ふいに、指先で地図をたたく音がピタリと止まった。



「……しかし……本当に、そうでしょうか……」



 ……。



「考えられる限りで、これが最適解であることは間違いない。ですがそれは……同じ北方地帯を守護する北の四大主にとっても、まず真っ先に相手が打つであろうと想像できる手であるはず」



 地図の上に載せていない方の手を口許くちもとに当てて、シェルミアは考える。自分が攻め手であれば、果たしてそんな分かりきった駒運びをよしとするだろうかと。



「いや、違う……ここではない……!」



 地図をじっと見やっていたシェルミアが、はっと気づいて指先を南下させ、山脈地帯の只中ただなかにピタリとそれを止めた。



「ここだ……“不毛の門”」



 その地図上には、分厚い山脈を東西に切り裂いて伸びる、糸のほつれのように細く曲がりくねった、太古の河による浸食地形があった。


 そこは大規模に編成された部隊が踏破するには余りに細く、行軍は不可能と言ってもよい、道とも呼べない道だった。


 冒険家が好奇心で足を踏み入れることはあっても、組織立った集団が通過することなどまず有り得ない場所――常識的な知識を持った者であれば、誰でもそう考えるはずだった。


 しかし、シェルミアは知っていた――“魔剣のゴーダ”の常識外れの力の片鱗へんりんを間近で見たシェルミアにしか分からない直感が、しきりに彼女にささやいていた。



 ――“北の四大主は、ここから攻めてくる”と。



「“不毛の門”までであれば、馬を飛ばして1日半……“宵の国”側から攻め込むのであれば、これが最短経路……間違いない……」



 ……。


 確信を得たシェルミアが、机に両手を突いてじっと目を閉じた。



 ――私1人で、どこまでできるだろうか……。



 ――半日でいい……1刻でいい…… 一呼吸だけでもいい……。



 ――1人でも多く、1歩でも遠く、民が安全な場所へ逃げる時間を稼ぐのです……。



 ……。


 ……。


 ……。


 深く吐き出した息は、かすかに震えていた。



「ああ、情けないですね……覚悟は、固めたつもりなのに……未練なんて、洗い流してきたつもりなのに……」



 シェルミアが、自分の震える両手のひらを、じっと見つめる。



「1人でいると……こんなにも、不安になってしまう……」



 ……。


 ……。


 ……。


 両手で顔を覆ったシェルミアが、弱気な独り言を押し込めるようにじっとその場にたたずむ時間があった。


 ……。


 ……。


 ……。


 やがてシェルミアが、深く深く息を吸い込み、長くゆっくりと、それを吐き出した。



「……ふうぅー……。……。……。……。ええ、落ち着きました……もう、行かないと」



 自分に言い聞かせるようにそう言ったシェルミアが顔を上げ、横倒しにされた家具を踏み越え、部屋の一角にめ込まれた細長い戸棚の前に立った。


 その戸棚だけは、きちんと戸が閉め切られ、中を荒らされた様子もなかった――正確には、そこだけ荒らされた後に、他の誰かの手で片付けられたようになっていた。


 ガチャリと把手とっての金具が回され、留め具が外れ、シェルミアの武具一式を収めるために作られた無骨なクローゼットの戸が開く。


 クローゼットの中には、調査官たちによって荒らされた後に丁寧に元の形状に組み直されたシェルミアの甲冑かっちゅうと、それに寄り添うように立てかけられた、“右座の剣エレンローズ”の一振りの長剣と、“左座の盾ロラン”の1枚の大盾があった。



「……っ」



 真夜中の無音の室内に、シェルミアの息をむ小さな音が聞こえた。


 そして少しだけ震えた声で、ぽつりと、言葉が漏れた。



「ああ……大丈夫……私は、1人なんかじゃない……」



 ――。


 ――。


 ――。


 窓から差し込む月光を受けて、シェルミアのまとった銀色の甲冑かっちゅうが冷たい色にきらめいている。


 いつ振りかに着込む甲冑かっちゅうの感触を確かめるように、シェルミアが手甲をめた手を握っては開いた。


 長剣と大盾を背負い、“明星のシェルミア”が精神を統一するように目を閉じる。りんとしたその顔つきは、己のすべき天命を得た者のそれだった。



「……行って参ります」



 ……。


 ――バキリッ。と、木片の砕ける音がして、シェルミアがクローゼットの内壁を、手甲をめた拳でたたき割った。


 壁にめり込むようにして組み付けられたクローゼットと壁の間には、そこにだけわずかなくぼみが隠されていた。くぼみの中からずるりと抜き出されたシェルミアの手の中には、古い時代の文字が彫り込まれた複雑な形の鍵が握り締められていた。


 ――“禁呪書庫”――もう使われなくなった言葉で、鍵にはそう彫り込まれていた。


 ――。


 ――。


 ――。


 その日、人知れず闇夜やみよに紛れて、“明けの国”王都から、“反逆者”の汚名を背負った最後の騎士が、北へとっていった。

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