24-3 : “幽閉区”

「はぁっ……はぁっ……」



 おぼつかない足下を1歩1歩踏み締めながら、シェルミアが地上へと続く階段をゆっくりと上っていく。その足取りは、痛々しかった。


 20日近く鎖につながれ続けた足腰には上手く力が入らなくなっていて、階段の左右を挟む壁面に身体を押しつけながらでなくては、ただ立っていることすら難しく感じられた。何度か膝が意思とは無関係にがくりと折れて、危うくそのまま階段を転げ落ちそうにもなった。


 獄吏ごくりむちで打たれた部位はみみず腫れになり、つい今し方できた打ち傷からは血がにじみ出ている。左の肩甲骨の下には押しつけられた焼きごてによる火傷やけどの跡が生々しくついていて、腕を動かそうとするたびにそこがじくじくと痛んだ。


 疲弊しきった身体は鉛のように重く、今すぐこの場に座り込んでしまいたいという衝動で全身に脂汗が噴き出していた。



「はぁっ……! はぁっ……!……っ……立ち、止まるな……! こんな、ところで……っ! 立ち止まっている、訳には……いきません……!」



 シェルミアを支えていたのは、騎士団長を勤める中で鍛え上げられた鋼の意思と、兄を差し置いて王位を継ぐと決めた日に心に打ち込んだ覚悟だった。



「私は……私は……!」



 そして、その意思と覚悟の奥底にあるのは――。


 ……。


 ――おにいさまぁ!


 自由に庭を走り回り、花を折ってしまったと悲しむ幼い娘の影。


 ……。


 ――お前は、優しい子だね、シェルミア。


 慕っている兄に、頭をでてもらうのが大好きだった少女の横顔。


 ……。


 ――……“おにいちゃん”。


 その手であやめた魔族の子の、兄を呼ぶ声にならない声。


 ……。



「私は、もう……! 誰の悲しむ顔も、見たくない……!」



 それが、“明星のシェルミア”の、根源に流れるものだった。


 ……ふわりと、柔らかな感触があった。今にも立ち止まってしまいそうな身体に動け動けと念じ続け、ただがむしゃらに石段を登り続けていたシェルミアの裸足はだしの足が、気づけば地上に生い茂る雑草を踏み締めていた。



「……っ!」



 暗い地下牢の中で眠りとも覚醒ともつかない闇の中を漂い続けていた目が、けるように痛んだ。地上の光の余りの強さに思わずまぶたを固く閉じ、その上に手をかざした。チリチリと痛む瞳からは涙がにじみ出て、それ自体が目に染みる。


 目が潰れてしまうのではないかというほどの強い光の刺激にようやく慣れてきて、シェルミアがうっすらとまぶたを開けると、そこに広がっていたのは雲のかかった月夜の世界だった。


 それを認識した瞬間、停滞していたシェルミアの中に、五感を通じて実に多くの情報が飛び込んできた。


 夜露を含んだひんやりとした空気が肌をでると、ただそれだけのことでむちで打たれた傷の痛みも、焼きごてを押しつけられた火傷やけどうずきも和らぐようだった。


 かび臭いよどんだ空気が染み込んだ肺に深く息を吸い込むと、濁った血が元の色を取り戻していくのが手に取るように分かった。


 鎖の揺れる音と自分の譫言うわごとしか聞こえない地下の沈黙とは打って変わって、地上は命の音で満ちていた。たとえそれが虫たちも寝静まった真夜中でも、シェルミアの耳には様々な音が聞こえてくる。水の湧き出る音――正確には気配――も、その内の1つだった。


 澄んだ水の匂いというものを、シェルミアはそのとき生まれて初めて感じ取った。それは絵にも言葉にも置き換えることのできない、本能に訴えかけてくる不思議な感覚だった。



「……」



 その感覚を頼りに、シェルミアは歩を進めた。


 彼女が今いるのは、王族と大臣たちから“幽閉区”と呼ばれ忌み嫌われている場所だった。王城の広大な敷地内の片隅、皆が目を背けるように閉ざされた影の場所。位を持つ人間が重い罪を犯したとき、その存在自体に蓋をするように押し込まれる箱庭――その中を、シェルミアがたった1人で横切っていく。


 “幽閉区”にはシェルミアも立ち入ったことがなく、土地勘は全くなかったが、しかし彼女の足取りに迷いはなかった。水の湧き出る気配とその澄んだ匂いに導かれるように、シェルミアはその箱庭の中をただ真っぐに進んでいった。


 そして夜気にれた背の高い雑草をき分けた先で、シェルミアは澄んだ水をたたえる泉に辿たどり着いていた。



「……こんな場所が……」



 その泉は水底が透けて見えるほどに透明で、そこをのぞき込むと根を張った水草が湧き出る水に流されてゆらゆらと揺れているのが見える。月の光を取り込んだ水面は、幻想的な蒼に染まっていた。


 泉のほとりにシェルミアがゆっくりと歩み寄っていき、膝を突く。ほこりと血で黒く汚れた両手にその水をすくい取ると、その清らかな感触に思わずめ息が漏れた。



「……。冷たい……」



 衰弱した手の震えが伝わって、すくった水の上に波紋が浮かび上がる。シェルミアはその水を口に運び、ゆっくりと飲み込んだ。



「っ……ごほっ……! あ゛は……っ!」



 全身がそれを欲する余り、シェルミアは思わずむせ返った。


 よどんだ空気にむしばまれカラカラになっていた身体に、冷たく清浄な泉の水が染み込んでいく。



「……っ!」



 その段になって初めて、シェルミアは自分がどれだけ渇き、どれだけ飢えていたかを自覚した。


 渇きを癒やす泉の水を手のひらに2度、3度とすくい取り、シェルミアが一息にそれを飲み干す。



「……はっ……はっ……!」



 しかしそんなものでは、彼女が耐え続けてきた空虚を埋め合わせるには、到底足りなかった。


 恥も外聞も放り捨て、シェルミアは両手を地面に突いて四つんいになり、口を直接泉にけて、ゴクゴクと喉を鳴らして夢中になって水を飲んだ。


 ――。


 ――。


 ――。



「はぁ……はぁ……」



 息をするのも忘れて水を飲み続けたシェルミアがようやく頭を上げ、手のこうで口を拭う。息が上がり、それに合わせて肩が上下する。



「……」



 命の音に満ちた深く静かな月夜の下で、つかの間の安息を得たシェルミアが、無言のままじっと泉の水面を見つめていた。



「……」



 ……。


 そしてシェルミアが、音も立てずにそっと立ち上がる。


 ……。



「……」



 静寂の中、かすかに衣擦きぬずれの音がして、パサリとそれが草の上に落ちる気配が続いた。それから、頭の後ろに1本にい、湿気と汗を吸い込んで硬くなっていた髪の毛が、シュルリと解かれる。


 金色の長い髪を背中に下ろし、一糸まとわぬ姿になったシェルミアが泉に足先をけると、水の踊るチャプリという音が闇夜やみよに響いた。


 透明な水底を踏む自分の足を水面からのぞき込みながら、シェルミアはゆっくりと深みへと歩を進め、全身をその水の中にけていった。



「……いた……っ」



 上半身を泉に浸すと、清らかな水が背中についた無数の打ち傷とひど火傷やけどに鋭く染みた。しかしその痛みは一瞬のことで、柔らかな湧き水に包まれたシェルミアは、気づけば耳元まで全身を沈め、仰向あおむけになってその身をぷかりと水の中に浮かべていた。本来の艶を取り戻した髪が、睡蓮すいれんの葉のように水面に揺れる。



「……」



 見上げる夜空の雲の狭間はざまに、月と星のきらめきが見える。シェルミアは、こうして泉に身を沈めて頭を空っぽにしているこの時間が、これから事を起こそうとする自分にとってとても貴重で必要な行為なのだろうと、そんな思いをぼんやりと巡らせていた。


 水面を漂いながら、胸一杯に息を吸い込んだ。



 ――はい……覚悟は、できています……。



 水の流れに身を任せ、全身から力を抜いた。



 ――こんなことをするのも、きっとこれが最初で最後。



 ゆっくりと息を吐き出して、そして静かに、目を閉じた。



 ――だから……もう少しだけ、こうしていさせて下さい……。



 ――。


 ――。


 ――。


 バシャリ。と、水面の静寂の破れる音がして、みそぎを終えたシェルミアが、2本の足で水辺に立ち上がった。


 月を見上げるあおい目に、迷いの色は一切なかった。

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