国境戦役(前編)

24-1 : “闇流し”

 ――2日前。“明けの国”、王都。


 ピチャン。と、湿った岩天井に結露した水滴の滴り落ちる音がする。


 ……。


 ピチャン。


 ……。


 真っ暗闇の地下の独房に響く水音が、無音よりも冷たい静寂へと姿を変える。


 ……。


 ピチャン。


 ……。


 暗黒の世界には、左右も前後も、上下もまるで存在しないようだった。ただその独房の中には闇と沈黙だけが満ちて、時間の流れさえも止まっているかのようだった。


 全てが少しずつ溶けて腐り落ち、虚無の中に沈んで意味を失っていく。眠りと覚醒、妄想と現実の境がなくなり、ゆっくりと意識がむしばまれていく。


 “闇流し”――かつての南の四大主“古いカース”による“明けの国”南部襲撃事件への関与と謀反の疑惑をかけられたシェルミアが、“特級反逆者”として地下牢に投獄されてから、20日近くが経過していた。


 ……。


 ピチャン。


 ……。


 虚無の世界に存在するのは、滴り落ちる水の冷たい音だけである。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 カツン、カツン。と、石階段をくだりり降りてくる獄吏ごくりの足音が、空虚な闇を揺さぶった。


 ランタンのあかりを消してやってきた獄吏ごくりの姿は闇に溶け込み、地下牢の中には粗暴な足音と、口で息をするたびに聞こえてくるニチャニチャと粘つく不快な唾液の音しかない。



「……キヒヒ。やーい、起きてるかぁい? “元”姫騎士様ー」



 闇の中、おりの格子を手探りでつかんだ獄吏ごくりが、その独房の中で四肢を鎖につながれているシェルミアに向かって話しかけた。


 ……。


 闇の向こうに、反応はなかった。



「オイラが遊びに来てやったぞー。おーい」



 獄吏ごくりが耳を澄ませる気配がする。


 ……。


 ジャラリ。と、独房の中で鎖の擦れるわずかな音がしたのを、獄吏ごくりは聞き逃さなかった。



「……キヒヒ」



 獄吏ごくりの薄気味悪い笑い声がして、その口からニチャリと気色の悪い粘ついた音が続く。不健康に小太りした醜い家畜のようなその顔に、見る者に嫌悪を抱かせるおぞましい笑い顔が浮かんだ証拠だった。


 ……ガチャリ。


 独房の鍵が解かれ、それに続いて格子扉の開くギィっというきしんだ音がした。


 ……。



「……ぁ……ぅぁ……」



 闇の奥へと踏み込み、その中につなぎ止められているシェルミアとの距離が縮んだことで、獄吏ごくりの耳に先ほどよりもはっきりとその囚人の立てる小さな音が聞こえだす。


 弱ったシェルミアの身体が揺れるたび、その四肢につながれた鎖がジャラリと小さな音を立てる。そして譫言うわごとのように時折漏れ聞こえてくるかすれ声が、獄吏ごくりゆがんだ好奇心を刺激した。



しゃべれなくなってから、どれぐらいったかなぁ? ひぃ、ふぅ、みぃ……分かんねぇや、キヒヒ。あぁ、確か、オイラの立てる音にビビる元気もなくなったのは、一昨日ぐらいからだっけぇ?」



「……ぁ……ぇぁ……?」



 闇の向こうから返ってくるシェルミアの声には、かつての威厳も聡明そうめいさもなかった。


 ニチャリ。と、獄吏ごくりの粘ついた口角のり上がる音がする。欠けた歯の隙間から、悪臭が漂ってくるようだった。



「キヒヒ……! あの綺麗きれいで頭のよさそうだったお姫様が、こんなになっちまった……! キヒ、キヒヒ……オイラ、オイラ……何だかすごく、ゾワゾワするなぁ……!」



 獄吏ごくりの醜い笑い声が、地下の空間に醜悪に反響する。



「ああ、オイラ……やっぱりガマンできねぇ……!」



 バラリと、闇の中で何かが垂れ下がるような音がした。



「ほ、ほんとは、“闇流し”の刑になった奴には、手を出しちゃ、いけねぇんだけど……! オイラしかいねぇから、バレねぇよな……。あ、あんた、もう1回あれ、聞かせてくれよ……! キヒ、キヒヒヒ……」



 鼻息を荒くした獄吏ごくりが、何かを期待するように声を震わせた。


 そして、ビュンっと空気のしなる音がして――。


 ……。


 ――バチンッ。



「あ゛っ……!」



 獄吏ごくりが闇の中で振り上げたむちが、シェルミアの身体を打つ鋭い音がして、次いで息の詰まった悲鳴が聞こえた。



「キヒ……!」



 ビュッ――バチンッ。



「うぐっ……!」



 ビュン――バヂンッ。



「うぁ゛っ……!」



 鎖がジャラリと揺れ、むちに打たれたシェルミアのうめき声と、独房の床に彼女が倒れ込むドサリという音がした。



「キヒ……キヒヒっ! ああ、やっぱり、綺麗きれいな声だなぁ……!」



 シェルミアの小さなうめき声を聞きながら、獄吏ごくりが興奮した様子で声を震わせる。



「で、でも……この前むちで打ったときと同じじゃ、オイラ、前ほどゾワゾワしないなぁ……!」



 ニチャリと獄吏ごくりの笑った音があって、そしてゴソゴソと何かを持ち出す気配が続いた。



「キヒ……! こ、今度は、これを試してみよう……!」



 獄吏ごくりの手元に、小さな小さな淡い光がボォっと浮かび上がり、数秒の後に消えた。その光は魔導器が発する、魔力を帯びた特徴的な輝きだったが、知識のない獄吏ごくりにとってはそんなことはどうでもよかった。


 魔力の弱い発光が消え、地下牢に再び深い闇のとばりが降りる。


 ……。


 やがて、ジリジリと熱を帯びた小さな音がし始め、湿気とほこりの充満する独房の空気のける嫌な臭いが漂いだした。そして最初の魔力の光とは異なる、鈍い赤色の光が、闇の中に浮かび上がる。



「べ、便利だよなぁ、これ……! む、昔は監獄送りになる囚人たちに、烙印らくいんを押すのにこれを使ってたって、誰かが言ってたのオイラ聞いたんだ。いちいち火であっためなくても、炎の魔法でずっと熱いままなんだってよ……あ、頭いいなぁ、これ考えた奴……!」



 赤熱した焼きごてが闇の中でブンブンと揺れ、それが獄吏ごくりの興奮のしようを物語る。そこに彫り込まれていた烙印らくいんは、長年の使用による加熱と冷却の繰り返しのために、判読が難しいほどに朽ちていた。



「ど、どうかなぁ……! これ押しつけたら、あんた、どんな声出すのかなぁ……! キヒ、キヒヒ……!」



 右手に赤熱した焼きごてを持ち、左手を闇の中へフラフラと伸ばして、獄吏ごくりがその手にシェルミアの髪の毛をつかんだ。


 鷲掴わしづかみにした金色の髪越しに、シェルミアのぐったりとした重みが獄吏ごくりの手に伝わってくる。


 そのまま獄吏ごくりはシェルミアの後頭部と首筋をなぞって、暗闇の中手探りで囚人服をつかむと、それをビリリと引き裂いた。



「ああ、白くてスベスベな肌だったのが、こんなに傷だらけになっちまったぁ……! ぜ、全部、オイラがやったんだ、オイラが……! キヒヒ……!」



 薄汚れた手で、むちで何度も打たれたシェルミアの背中の肌触りをベタベタと確かめた獄吏ごくりが、鼻息荒く焼きごてを持ち上げる。



「キヒ、キヒヒヒ……!」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――ジュウゥッ。



「うっ゛……あぁ゛ぁああ゛ぁぁあ゛ぁ゛ぁあ……っ!!!」



 赤熱した焼きごてがシェルミアの背中に押しつけられ、肌のける音と苦悶くもんの声が上がった。かび臭い独房の中に、かすかに肉の焼き付いたような臭いが混じる。



「キヒヒヒ……! あ、あ……! グフフッ……!」



 焼きごてをじかに押し当てられたシェルミアの悲痛な声を間近に聞いて、獄吏ごくりが気色の悪い上ずった笑い声を上げた。



「あっ、あっ……! か、可愛かわいい声だなぁ……! オ、オイラ、こんなに綺麗きれいな声、初めて聞いた……!」



 感極まった様子で、獄吏ごくりが感嘆の声を漏らした。



「はぁ……はぁ……あ、うぅ゛……」



 痛めつけられたシェルミアの困憊こんぱいした吐息の音が、獄吏ごくりに背徳的な充足感をもたらす。



「キヒ、キヒヒヒ……! も、もっと遊んでたいけど、今日はもう戻んねぇと……。あ、明日からは、もっといろんな道具を使って、いろんな声を聞いてみたいなぁ……! こ、壊れちまわないように、気をつけないと」



 獄吏ごくりの頭から、それが本来禁じられている行為だということはあっさりと抜け落ちていた。次はどうやって苦痛の声を引き出そうか……その醜い男の頭の中は、その思いだけで一杯になっていた。



「はぁ……はぁ……」



 上機嫌で独房を去ろうとした獄吏ごくりの背中に、シェルミアの痛みにもがく息遣いが聞こえた。



「……」



「はぁ……はぁ……」



「……」



 ゴクッ。と、獄吏ごくりが生唾を飲み込む音が、一際大きく独房に響いた。



「……い、1回ぐらい、いいよな……?」



 獄吏ごくりがゴソゴソと、手の中で道具をいじり倒す音がした。


 シェルミアの吐息を聞いて、醜い男はどうしても、自分の手で痛めつけたその女の姿を確かめたいという衝動を抑えられなくなっていた。



「オ、オイラ、我慢できねぇ……!」



 獄吏ごくりあかりを消していたランタンを持ち出し、その蓋を開け、興奮で震える手であかりをともす準備を始める。



 ――お姫様のあの綺麗きれいな肌に、どんなふうに烙印らくいんがついたのかなぁ……!



 ――オ、オイラが付けた傷、どんな具合になってるのかなぁ……!



 ――あっ、あっ……見たい……見たい見たい見たい!



「――き、“綺麗きれいなんだろうなぁ……!” は、早く、早くけ、この……!」



 期待と高揚で震える手元は、なかなかランタンにけることができないでいた。


 興奮する余り、一瞬一瞬が恐ろしく長い時間に感じられた後、ようやく獄吏ごくりの手元でランタンに小さなあかりが宿った。



「や、やった……!」



 舞い上がった声を上げた獄吏ごくりが、そのすぐ後ろで荒い呼吸を繰り返しているシェルミアの方を振り返る。



「キヒ……! キヒヒ――」



 ……。


 ……。


 ……。


 ランタンが照らし出した先には、四肢を鎖につながれたまま、身を伏してひたすらこのときを待ち続けていたシェルミアの、野良犬のような鋭い眼光があった。



「――え?」



 ――ザクリッ。


 そしてランタンを持った獄吏ごくりの手に、鋭い痛みが走った。

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