22-5 : 無言の攻防

 雨にれたつややかな毛の下にしなやかな筋肉を浮き上がらせて、黒馬がブルルと鼻息を荒らげた。



「そう気を立てるな……」



 落ち着かない様子の黒馬の首をでてやりながら、暗黒騎士“魔剣のゴーダ”がぽつりと言った。



「この辺りは手つかずの原生林だ……魔物の気性も他より荒いからな、無理もない」



 主の手に触れられ、落ち着きを取り戻した黒馬が小気味よくひづめの音を立てて林の間の小径こみちを進み続ける。


 カッポカッポ。


 カッポカッポ。


 カッポ……ザリッ。



「……」



 再び黒馬が、ブルルと息を荒らげて鬱陶しそうに鼻先を振った。ひづめが不快げに、ザリッと泥濘ぬかるんだ地面を蹴り上げる。



「……ついてきているな」



 視線を周囲にゆっくりと巡らせながら、ゴーダがつぶやいた。


 まとわり付くような、冷たい気配をうっすらと感じる。



「確かに、このざわついた空気は、落ち着かん……」



 感情を逆撫さかなでしてくるようなその空気には、明らかに何者かの意思が混ざり込んでいた。



「獣の類いがまとうものではない……リンゲルトの回し者か、あるいは……」



 手綱を離れたゴーダの右手が、すっと腰につるされたさやへと伸びる。半ば無意識の内に握られたその手は、しかし刀の柄に触れることなくくうつかんだ。



「……」



 先刻起きた、原因不明の次元魔法の暴発によって、銘刀“蒼鬼あおおに”はゴーダの下から消失していた。手元にあるのは、収まるべき物を失ったさやのみである。


 獣の放つものではない、理性を含んだ不気味な気配が、付かず離れずこちらの歩みに合わせて移動しているのが分かる。



「……」



 そして、黒馬とゴーダが歩みを止めた今、その気配もぴたりと静止しているのだった。


 理性を持っている限り、決して殺しきれない気配の残滓ざんしだけを残して、完全に息を潜めているその気配がどこに身を伏せているのか、その位置を探り当てることは困難をきわめる。


 それは気配の主が、ゴーダの放つ刃のように張り詰めた空気を前に機をうかがい続けている証拠だった。


 ゴーダは相手の位置が分からず、相手はゴーダに攻め込むだけのすきを見出せない――動きを止めた両者の間で、無言の攻防が展開されていた。


 先に気配をさらした方が、先にすきを見せた方が、限りなく敗北に近づく。それは、相手より先に動かなければならず、しかし先に動いてしまえば圧倒的不利を背負うことになるという二律背反だった。


 ……。



 ――静かすぎる……リンゲルトたちではないな……。



 物音ひとつ立てず微動だにもしない、神経がビリビリとしびれて摩滅してしまいそうな、互いの気配とすきの探り合い。その最中で、ゴーダは相手の素性について思いを巡らせる。



 ――というより……考えたくはないが、いや、しかし……それしか有り得ん、か……。



 ここは魔族の治める地、“宵の国”。そしてここにいるのは魔族最高位“東の四大主”である。ゴーダのすきうかがっている存在が何者なのか、おのずと答えは絞られていった。



 ――……カース……“暴蝕ぼうしょくの森”を抜けられたか……。



 ……。



 ――何隊し損じた? “明けの国”の戦力規模は? 損害は? どこまで侵攻されている?



 思わず、暗黒騎士は声を殺して小さく舌打ちした。それは全て憶測でしかなかったが、空白になったままの南方の情報と今のこの状況をかんがみれば、“宵の国”への人間の侵攻を許してしまったと考えるのが自然だった。


 ゴーダの頭の中で状況が整理され、駒が埋まり、全体の俯瞰ふかん図が瞬く間に描き出されていった。


 南方からの、人間による規模不明の侵攻。


 北方では、恐らく“明けの国”王都へ向けたリンゲルトによる反転攻勢。


 事態収拾のためまもりを手薄にせざるを得ない東方国境線。


 そしてこのことを知るのは、暗黒騎士“魔剣のゴーダ”のみ。



 ――控えめに言って、状況は最悪……。



 ――どうする……“明けの国”は“淵王えんおう城”を落とすつもりでいるのだろうか。ならばリザリア陛下の下へ……いや、そうこうしている間に、リンゲルトに追いつけなくなる……“墓所”の力を解き放たれては、王都は恐らく1日と保たん……。



 ――ならばローマリアに……いや、駄目だ。あいつは拠点防衛に特化した四大主……“星界の物見台”と対になって初めて真価を発揮する。域外の大規模戦闘には不向きだ……。



 ……。



 ――考えろ……どうすることが、最善か……。



 ……。


 ……。


 ……。



「(ひははっ……やぁっと、すきさらしたなぁ……!)」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――ドヒュッ。


 乱雑に絡み合った原生林の枝々をくぐり抜け、1本の太矢が“魔剣のゴーダ”に向かって一直線に飛んだ。



「っ!」



 思案を巡らせていたゴーダの一瞬の気の緩み、意識が別の事柄へと向いた瞬間を見逃さず、“烈血れっけつのニールヴェルト”が大弓を射る。


 鋭いやじりの先端が暗黒騎士の頭部を狙い澄まし、兜の隙間を穿うがってその眼球ごと脳天を射貫こうかとした瞬間――。



「――“魔剣二式:霞流かすみながし”」



 黒馬にまたがる暗黒騎士のごく近傍の空間がねじ曲がり、軸がずれる。


 ――ヂッ。


 間一髪、矢の飛ぶ速度を暗黒騎士の見切りの早さがわずかに上回り、空間もろとも半歩分後ろに瞬間移動したゴーダの兜をやじりがかすめ、金属の擦れる音と火花が散った。



「(ひははっ! うっそだろぉ! 今のかわしやがった!……おぉっと )」



 枝葉の壁の向こうに身を隠したニールヴェルトが、思わず興奮した声の漏れかけた自分の口を手で塞ぎながらつぶやいた。



「(ひは……ひはははっ! あぁ、何だこれぇ……ひはっ、ああ、駄目だ、にやけちまう……)」



 口角をぐにゃりとゆがめてわらうニールヴェルトの口許くちもとが、そこを覆う手のひらの隙間からのぞき見えた。三日月形ににんまりとねじれ上がった目元は、感激と高揚でギラギラと不気味な光を帯びている。



「(ああ、今のでこっちの位置、ばれちまったかなぁ……やべぇなぁ……やっっっべぇぇなぁ……!)」



 物陰に潜んだままのニールヴェルトは、しかしそうつぶやくばかりで、その場から動こうとはしなかった。



「(あんなに見事にかわされちゃぁよぉ……意地でも当てたくなっちまうじゃねぇかぁ……。ひは、ひはは、ひはっ。命がけのかくれんぼといこぉぜぇ……“魔剣のゴーダ”様ぁ……ひはははっ)」



 大弓の弦が引き絞られるギリリという振動が空気を揺らし、そして再び、沈黙が周囲を満たす。

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