侵攻戦線(後編)
22-1 : 何にもなれなかった者
冷たく細い雨が、名前も分からない背の高い樹の枝葉を
深い茂みの中にできた1本の獣道は、水を吸い込んだ泥で
その
「……」
その足跡の先頭に、1人の人間の騎士がいた。銀の鎧は跳ねた泥で薄汚れ、
そしてその騎士の銀色の髪は、
背中に背負う“運命剣リーム”の古く威厳のある装飾とその重みも、戦意と誇りと心の折れたエレンローズにとっては、もう何の価値も意味もないものだった。
「……」
“宵の国”北方、“ネクロサスの墓所”。その要所の守護者、北の四大主“渇きの教皇リンゲルト”に挑んだ“右座の剣エレンローズ”は、“意志を持った歴史”の前に完全な敗北を喫した。
50万の骸骨兵団。かつて“ネクロサス”と呼ばれた地そのものに蓄積され具現化した“歴史”という大きすぎる敵。そしてその歴史たちの渇望が生み出した、
あの灰に覆い尽くされた大地で、リンゲルトに追い詰められたエレンローズには、まだ戦い得る力が、未来を選択する魔導器“運命剣リーム”があった。まだ可能性は、十分過ぎるほど残されていた。
しかし、“渇きの教皇リンゲルト”に「それを抜け」とまで言わせても
抜けなかった。
抜くことを、拒絶した。
“運命剣”が映し出す可能性の万華鏡のどこにも、望む未来はありはしないと、諦めてしまった。
そして、生き残った。
生き残ってしまった。
“死なせない”と誓い、“生き延びて”と約束した、あの新米騎士をたった1人戦場に置き去りにして、何もしないまま、今ここにこうして生き残っていた。
自ら敗北を認め、それ以上行動することを放棄し、そうしたことへの当然の報いをすら受けることなく、たった1人、エレンローズは見知らぬ土地に逃げ延びたのだ。
「……」
リンゲルトの骨の槍によって神経と筋を断ち切られ全く使い物にならなくなった左腕を垂らし、痛む左脚を引きずってまで、エレンローズはどこへ向かって歩き続けているのか。それは当の本人にさえ、知りようもなかった。
戦うべき相手は消え、
ただ理由もなく、ただただ歩き続けた。そうすること自体が、何ものへも
その行為はただ、“立ち止まっていない”というだけのことでしかなく、エレンローズはただゆっくりと、何かに追われるようにひたすら歩き続けていた。
「……」
立ち止まることが、恐ろしくて仕方なかった。
「……ごめんなさい……」
1度立ち止まってしまったら、もう2度、立ち上がれない気がした。
「……」
ゆえに、
「……ごめんなさい゛……ごめん、なさい゛ぃ゛ぃ゛……っ」
涙で
***
「……」
そのまま泥のように溶け落ちて、雨に薄められて消えてしまえればどれだけ楽だろうと願ったが、エレンローズの肉体は生への執着を
獣道の泥の中に横たわったまま雨に打たれ続ける内に、体温が下がり“死”を予感した肉体は、エレンローズの意思を置き去りにして再び自身の身体を立ち上がらせていた。
「……」
表情筋が
腹の奥でのたうち回る不快感は空腹から来るものだったが、食欲など皆無だった。何とはなしに麦粉を焼き固めた兵糧を一欠片だけ口に含んでみたが、どれだけ時間をかけて
頭の中で渦が巻いていて、目を閉じて幾ら待ち続けても眠りはやってこなかった。それどころか、わずかでも気を抜けば“ネクロサスの墓所”の記憶が強烈に目の前に
それからどれだけの時間が
「……なんで……」
拷問のように続く何もない時間の中にその身を横たえて、エレンローズがぽつりと独りごちる。
「……なんで、私……生きてるの……?」
濁った瞳をぼんやりと夜の世界に向けながら、女騎士が疑問を口にする。
それは、あの死に満ちた戦場から生還したことへの疑問というよりも、そこに至るまでの半生と、今目の前で流れていく時間に対する問いかけだった。
こんなに冷たく、暗く引き延ばされた時の堆積の中を、何を糧にここまで走ってきたのか、まるで分からなくなっていた。記憶の中の自分が
そんな答えも救いも何もない一瞬一瞬が、苦しくて、悲しくて、
「(……あれ……?)」
身体の芯から指の先まで、
「(……どうやったら……私の身体……動くんだっけ……?)」
身体中の至る所から根が生えでもしたかのように、脚1本、指先1本動かなかった。身体を動かそうと意識を集中させると、あるところでそれがピタリと何かに遮られるような感覚があって、どれだけ「動け」と念じても、透明なガラスを間に
「(……別に……動かなくても……いっか……)」
大木の
エレンローズは、疲れ果てていた。
立ち上がる
生きることが
頭の中に“自害”という言葉が何度も何度も浮かんでは消え、そのたびにエレンローズは意識を止めて、生きたいとも望まず、死にたいとも願わない、どちらでもない宙ぶらりんの虚無の中に身を横たえていた。
ふと気がつくと、先ほどまで夜明けの前触れが
いつからそこに動かなくなった身を横たえているのか、もう何も分からなくなっていた。エレンローズの眼は、一睡もせず外界の移り変わりを映し続けていたが、
そして何日目かの昼間。その日は最初の日と同じ、どんよりと曇った空から細く冷たい雨が降る、薄暗い日だった。
大木の中でぼんやりとしているエレンローズの曇った瞳を、大きな
――ああ……あんたが、私の“死”か……。
……。
……。
……。
――いいよ……食べなよ……私なんか、きっと
……。
……。
……。
――起きてるのも、眠ろうとするのも……生きるのも、自分で自分を殺そうとするのも、もうどうでもよくなっちゃった……。
……。
……。
……。
――だから、どうぞ……?
……。
……。
……。
飢えた魔物の
……。
……。
……。
――シェルミア様みたいに、強くもなれなかったし……ロランみたいに、優しくもなれなかった……。
……。
……。
……。
魔物の生ぬるい鼻息が顔にかかったが、エレンローズは表情ひとつ変えなかった。ぴくりとも身体を動かさず、その頬に一筋の涙が伝い流れた以外に、抜け殻となった女騎士がまだ生きていることを示すものは何もなかった。
……。
……。
……。
――何にも、なれなかったや……私……。
……。
……。
……。
魔物の牙が喉元に今にも突き立とうとした瞬間、不自然に風の
つむじ風に巻き上げられた魔物が、悲鳴を上げるよりも先に真空の亀裂に引きずり込まれ、バラバラになった臓物と紫色の血が辺り一面に飛び散った。
……。
……。
……。
「……よぉ……探したぜぇ、エレンローズぅ……」
飢えた魔物よりもぎらついた不気味な光をその眼に宿して、にんまりと
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