20-12 : “天使”
夜明けが近づいていた。遠い地平に峰を連ねる山脈の向こうから太陽の光が
ボルキノフとサリシスの死体を隠し階段の暗闇へと投げ落とした後、そばかすの小男は研究室の床にへたり込んで
背後から“第6室長”サリシスの心臓をナイフで一突きにしたときの、刃が肉に食い込む感触が手のひらから離れなかった。
死にゆくサリシスの鮮血の熱さと、とうに死んでいたボルキノフのくすんだ血の冷たさが、鮮明に脳裏に焼き付いていた。
そして全身が脱力して硬直した死体の独特の重みが、それを担いで運んだ全身に染み着いてとれなかった。
研究室内には大きな血溜まりが2つできていて、それらは空気に触れて黒く変色してきていたが、そばかすの小男にはそれをどうこうしようという意思も気力も残ってはいなかった。
一拍も二拍も遅れて、恐怖と後悔と罪の意識がそばかすの小男に押し寄せて、貧弱な身体ごとその存在を押し潰そうとしているようだった。
古文書を専門に扱う魔法院“第1室”に勤めるそばかすの小男は、神学関係の古文書についても調査研究していたこともあって、人並み以上に信仰心の強い人物だった。人を
「お許し下さい……お許し下さい……お許しを……」
小さく貧弱な身体を尚一層縮こめて、そばかすの小男が
「……だ、誰でもいい……何でもいい……! ゆ、許して下さい……ぼ、ぼくを、許して下さい……!」
人並み以上の信仰心など、とうに押し流されていた。そばかすの小男は
ドサリ。と、遠くで何か大きな物が地面に落ちる
朝日も昇っていないこんな早朝から、魔法院にやって来る者などいない。暗闇に降りる階段の奥底へと投げ捨てた2人の死体の転がる音が、今更聞こえてくる
……。
……。
……。
「ユミーリアさん……」
その
「……ユミーリアさん……ユミーリアさん……!」
ぬめった
扉に駆け寄る身体を置き去りにするように、救いを求める両手が前に長く突き伸びて、それが病室のドアノブにかかる。許されたいという願望だけが激しく暴れ回り、むやみに
そしてバタンと勢いをつけてようやく開いた病室の扉の先には、ベッドから床の上に転げ落ちたユミーリアの姿があった。
「はっ……はっ……!」
ユミーリアは四肢を無防備に伸ばし、
「はっ……はっ……あ゛っ……苦し……っ……ああっ……!」
そばかすの小男が、何が起きているのか分からず凝視している前で、ユミーリアが床の上をのたうち回る。1か月間眠り続けて伸びた
「ユ、ユミーリアさん……!」
はっと我に返ったそばかすの小男が、どうすればいいかも分からないまま、暴れ回る娘の腕を
「……いやぁっ!」
その肌に触れた瞬間、ユミーリアが拒絶の悲鳴を上げて、そばかすの小男の手を払い飛ばした。重苦に
「はぁっ……! っはぁっ……! うっ……おえぇっ……!」
床を転げ回った末に窓辺の壁際に身体を打ち付けたユミーリアが、
「苦しい……苦しいっ……! あ、熱い……! 痛い……! 痛い痛い痛い! 熱い! 助けて……! 助けてっ!! 助けてよおぉぉぉぉ!!!」
ユミーリアが理性をかなぐり捨てたように、悲痛な声で泣き叫んだ。“第8室長”を勤めていた頃の
圧倒されたそばかすの小男は、涙を流してその場にへなへなとへたり込んだ。
ただただ、救いが欲しかった。
逃げるように、許しを求めた。
――ああ……神様……救いを……許しを……お導きを……。
……。
……。
……。
「……きゃあぁぁあぁああぁあっぁあああぁあああぁぁぁあぁ!!!!」
娘の、生を呪うような
――バサッ。
その悲鳴と同時に病室の窓辺に差し込んだ
……。
……。
……。
「ああ……」
……。
……。
……。
「……天使、様……」
そばかすの小男の瞳に、後光を受けて浮かび上がる、背中に2枚の羽根を生やした娘の異形の影が映り込んでいた。
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