20-11 : 幻影

「……ふぅ」



 個人研究室に1人きりとなった“第6室長”サリシスが、実験机に密閉容器をごとりと置きながらめ息を吐いた。



「さすがに2度目となると、必要量まで採血できなかったな。まぁ、不足分は僕の血を使えばいい」



 腕に巻いた包帯を解きながら、サリシスが独り言をつぶやく。包帯の下の手首の部分には無数の切り傷がついていて、その傷口の上にナイフを当てた“第6室長”は、一瞬の躊躇ちゅうちょもなく刃を走らせて、そこに新たな傷を作った。


 傷口から流れ出た血を試験管の中にそそぎ入れながら、サリシスが鼻歌交じりに今後の計画を整理する。



「採血が終わったら、まずは“彼女”のベッドを“地下研究室”に移そう。せっかく実験の目撃者2人には“黙って”もらったんだ、これ以上人目に触れる前に“彼女”には身を隠してもらわなくては……。おっと、そういえば“あれ”も人目に触れるとまずいな。こちらもが昇るまでに片付けてしまおう」



 何でもないというふうに後ろを振り向いたサリシスの目線の先には、多量の失血によって命を落とした文官ボルキノフの亡骸なきがらが横たわっていた。



「“彼女”と目撃者2人の失踪はしばらく騒ぎになるだろうが、そんなことは、全く問題じゃない……。ああ、でも、3人が一度に行方不明になってしまうと、一番に疑われるのはきっと僕だろうな……さて、これは困ったな……」



 手首を切っていない方の手を顎に当てて、サリシスが糸目と口許くちもとをニコニコとさせながら小首を左右にかしげる。その間も、鼻歌がむことはなかった。



「……ああ、そうだ……ならいっそのこと、僕も“彼女”と一緒に“地下研究室”に隠れよう……。あそこにだけは、騎士も魔法使いも、誰も近づかないものね……」



 手首の傷口から止めどなく流れ落ちる自分の血を眺めながら、サリシスが自分の案に高揚した声を上げる。



「ははっ。名案だ。それなら誰にも邪魔されず、僕は“彼女”の次の治療の研究を続けられる……それも、“彼女”のすぐそばで……“彼女”と、2人きりで……ふふっ、素敵だなぁ……楽しみだなぁ……」



 “狐目”の飄々ひょうひょうとした表情の下からいびつな笑い顔が浮かび上がり、頬が緩むのを抑えきれなくなったサリシスが、頬と口を手で塞いだ。しかしそこから漏れ出てくる忍び笑いだけは、どうやっても誤魔化ごまかせなかった。



「ああ……■■■■……僕が心から愛した、たった1人のいとしい人……すぐ行くよ……採血が終わったら、すぐに、迎えに行くからね……」



 ユミーリアの姿にかつて恋い焦がれた女性の姿を、ユミーリアの母親にしてボルキノフの妻だった女性の姿を重ねる余り、もうその幻影しか見えなくなっているサリシスが、試験管に満ちた自分の血を満足そうに見つめた。そして再び傷口に包帯を巻き、試験管に封をするために実験机に手を伸ばす。


 ――ポタリ。試験管の中に一滴の血が滴り落ちたのは、正にそんなときだった。


 ポタリ。



 ――おや、おかしいな……。



 ポタリ。



 ――手首の傷は、塞いだはずだけれど……。



 ポタリ。



 ――ああ、勿体もったいないなぁ……血はもう、足りているのに……。



 ポタリ。



 ――どこからこの血は滴ってきているんだ? 困るなぁ……もしも型が合わない血が混ざってしまったら、実験に差し支えてしまうじゃないか……。



 ポタリ。



 ――ああ、よかった……。



 ポタリ。



 ――この血は、いい血だ……とても上質な、実験に適した血だ……。



 ……。


 ……。


 ……。



「……ゴフッ……」



 何かが気管に入り込んで、サリシスは思わずむせ返った。


 口の中が、鉄の味でいっぱいになった。


 唇の端から、生暖かい液体がこぼれ流れる感覚があった。


 ……。


 ……。


 ……。


 サリシスが、ふらりと背後を振り返る。


 ……。


 ……。


 ……。



 ――なぁんだ……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――これは……僕の血じゃないか……。



 ……。


 ……。


 ……。


 …………バタリ。


 ……。


 ……。


 ……。



「……はぁっ……はぁっ……」



 たおれたサリシスの背中には、背後から心臓を貫いたナイフが突き立っていた。



「……わ、悪くない……ぼ、ぼくはわ、悪くなんてない……!」



 自分の手で刺し殺したサリシスと、そのすぐそばで死んでいるボルキノフとを交互に見やりながら、そばかすの小男がどもりながら自分にそう言い聞かせていた。



「せ、せ、正当防衛だ……! こ、殺されかかったのはぼ、ぼくの方だったんだから……!」



 聞く者のいない研究室内でぶつぶつとつぶやき続けるそばかすの小男の頭部には、サリシスに殴りつけられた際にできた傷から血が流れていた。目元を覆うように目深に被られたフードの端から、血の筋が数本垂れ流れてきている。


 そばかすの小男にとって、殺されかかったことなどこれまで経験したことのないことであったし、人を殺した経験も無論これが初めてのことだった。


 そばかすの小男は、すっかり動転していた。自分の怪我けがの具合を確認することも忘れ、誰か助けを呼んでこようという発想も浮かんでこなかった。


 今この瞬間に目前に広がっている非現実的な光景に――2人の男の死体が横たわっているという惨状を前に――そばかすの小男がまず最初にとった行動は、死体の隠し場所を探すことだった。それは自分の犯した罪の証拠を隠蔽しようという目的ではなく、ただ目の前の非日常に蓋をして目をらしたいという衝動から出た行動だった。


 半ばパニックを起こしながら研究室内を見渡すそばかすの小男の視界に“それ”が映り込んだのは、一刻も早くこの場から逃げ出したいという恐怖心がもたらした全くの偶然だった。


 サリシスの個人研究室の巨大な本棚の一角が、ほんのわずかだけずれ動いている様子が、そばかすの小男の目に飛び込んできたのである。


 そばかすの小男はそれにすがり付くように、一目散に本棚へと駆け寄って、考えるよりも先に全身でそれを奥へと押し込んだ。


 本棚の一角に組み込まれていた細工がガコンと鈍い音を立てて、留め具が外れる。本1冊分だけ奥へと押し込まれた本棚が回転扉のようにぐるりと半回転すると、その先には奈落の底へと続くような長い長い下り階段が隠されていた。


 ボルキノフとサリシスの死体を隠し階段の闇の向こうへ放り込んだそばかすの小男が、この下り階段が“騎士びょう”の地下深くに続いていると知るのは、もっとずっと後になってからのことである。

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