20-10 : 言っていなかったこと

 ズルッ。


 血を抜き取った脚の傷口に鋭い痛みが走って、ボルキノフの意識が朦朧もうろうとではあるが引き戻される。


 ズルッ。


 どうやら、自分の身体は地面の上に倒れているらしかった。


 ズルッ。


 鋭い痛みの原因は、脚を強引に引かれ、地面の上を引きずり回されているためだった。


 ガチャリ。


 ドアノブがひねられる音がして、扉の開いていくきしんだ音が聞こえる。


 ズルッ。


 そして再び身体を乱暴に引きずられ、どこかへ連れ込まれていくのが分かった。



「~~~~」



 誰かが、ぶつぶつと何か独り言をつぶやいているのが聞こえた。そしてボルキノフは、その音が頭の中をぐるぐると巡って激しい頭痛を引き起こしていることを自覚した。意識が朦朧もうろうとしているのはこの頭痛のせいだと、それについては不思議とはっきりと理解することができた。



「ふふっ……ふふふっ……第1段階は、予想通りだったよ……」



 頭痛は依然として激しく頭を打ち鳴らしていたが、一度戻った意識はどんどんはっきりしたものに回復していく。やがて独り言を聞き取ることができるようになり、それをつぶやいているのが誰なのかも分かるようになる。



「これで“彼女”を失う心配は消えた……早速、第2段階に移らなければ……」



「……サリ……シス……」



 地面の上を引きずり回されながら、ボルキノフが“第6室長”の名を呼んだ。



「……おや」



 その声に反応して、サリシスが足を止め、引きずっていたボルキノフを振り返った。



「何だ、ボルキノフ……目を覚ましたのかい……そのまま眠ってくれていればよかったのだけれどね……」



 サリシスは糸目でそう言って、口許くちもとをいたずらっぽくにこりと笑わせた。



「これ、は……どういう、ことだ……」



 自分の声が頭蓋骨の中を激しくたたき、頭が割れそうに痛んだ。頭痛に耐えて振り絞るように声を出しながら眼球だけを動かして周囲をうかがうと、そこはサリシスの個人研究室の中だった。



「……そうだな……どこから説明するべきだろうね……」



 サリシスが顎に手を当て、頭の中を整理するような仕草を取る。先ほどまでボルキノフの脚をつかんで引きずり回していた手が放され、自重で地面に脚が落下した衝撃で、採血跡の傷口に激痛が走った。



「私を……だました、のか……サリシス……」



だます? 僕が? 君を? とんでもない」



 実験机の上をがさごそと物色しながら、サリシスの背中が肩をすぼめて軽く言い流した。



「僕らの目的は一致していたし、別に僕は金品が欲しくてこの研究をしていたわけじゃない。君をだまさなくちゃならない動機なんて、何もないよ」



 実験机から振り返ったサリシスが、床に倒れているボルキノフの下に歩み寄る。頭を殴打された影響なのか、上手く身体に力が入らなかった。



「ただ僕は、“君に言っていなかったことがあるだけだよ”」



 ――ドスリっ。



「……っ!?」



 ふいに、脇腹を何かで刺された感触があった。


 ――ドスリっ。ドスリっ。



「うっ……! ぐ……っ」



 更に2度、同じ刺される感触が続いた。目線を腹部に向けると、左右の横腹に太い採血針が3本突き立っているのが見えて、ボルキノフは思わず苦悶くもんの声を漏らした。



「すまなかったね、ボルキノフ。僕は君に、3つ、話していなかったことがある」



 しゃがみ込んだサリシスが、倒れているボルキノフの顔を真上からのぞき込み、ふだんと同じ口許くちもとをにこりと微笑ほほえませている“狐目”の表情で、落ち着き払った口調で語り始めた。



「1つ目の言っていなかったことは、“彼女の治療はまだ完了していない”、ということだよ」



 ボルキノフの腹部に突き刺した採血針に何か細工をしながら、サリシスが何でもないというふうに言った。



「どういう、ことだ……? ユミーリアの、病は、治っていないのか……?」



「いいや? そういう意味ではないよ。“彼女”の血の病は、さっきの処方で間もなく完治する。それは保証するよ」



 採血針に目線を向けているサリシスが、指先で何かを外すパチンという音が聞こえた。それと同時に腹部の針がわずかに動いて、ボルキノフは身体が内側から冷えていく感覚を覚えた。



「サリシス……何を……?」



「ん? ああ、君の血を分けてもらっているところだよ、ボルキノフ」



 採血針とつながっている採血管の絞りを開いたサリシスが、密閉容器に血がそそがれ始めたのを確認して、再びボルキノフの顔に向き直って話を続ける。



「これは2つ目の言っていなかったことに関係するのだけれど、“彼女”は血の病を完治させると同時に、“少し変わった体質”を持つようになるんだ」



「体質……だと……?」



「そうだよ。副作用と言った方が分かりやすいかもしれない。“石の種”の、副作用だね」



 密閉容器にボルキノフの血が着実に流れていくのを確かめながら、サリシスがうんうんとうなずいてみせた。



「“石の種”は、前に説明した通り、極めて高い自己修復能力を持っている。その核を取り出して人体に摂取させれば、それは他に類を見ない万能の薬となる。だからもう、“彼女”が血の病で命を落とすことはない。ただし――」



 サリシスが指を立ててみせ、注目を促した。



「ただし、“石の種”の自己修復能力の高さが副作用として現れて、摂取者を“浸食”する可能性が考えられた。いや、確実にそうなる。これまでの実験で得た結果から、それは明らかだ」



「“浸食”……? どうなると、言うのだ……ユミーリアは……?」



「大丈夫。何度も言うが、“彼女”が命を落とすという最悪の結果は回避されている。何も心配することはないよ。ただ、この浸食現象に対する、全く別の治療が必要になる、というだけのことだ。……おっと、血の出が悪いな」



 視線を再び採血針に向けたサリシスが、おもむろに太い針をつかみ、それをぐりぐりと回して腹部の更に深い箇所に食い込ませた。その拍子に内臓が傷ついたのか、血が喉を上ってきて、ボルキノフの口からそれがせきとともに吹き出した。



「ああ、すまない、話の続きだったね、ボルキノフ。……つまり、“彼女”に新たに現れる全く別の病状――現象と言った方が適切かな――の治療のために、“石の種”がもう1つ必要なんだよ。ここに残っている、最後の1個がね。そして、その変質実験には、当然ながら血が必要だ」



 採血針を食い込ませたことで出血量が戻ったことを確認したサリシスが、満足そうに言った。先刻の実験に続いて血を抜かれすぎたボルキノフは、全身が凍えて震えが止まらなくなってきていた。



「まぁ、そうは言っても焦ることはないのだけれどね。血の病の治療は時間との闘いだったけれど、次の治療ではむしろ時間が味方になってくれる……。“浸食”に対する治療法は、これからゆっくり、時間をかけて研究すればいいのだから……」



「……な、に……?」



 焦点の定まらなくなった視界の中で、ボルキノフがサリシスをじっとにらみ付けながら口を開いた。



「なら、ば……なぜ……いま……こんな……」



 身体からだ中が、ひどだるかった。頭が回らず、自分の言いたいことを上手くまとめて話すことができなかった。



「急ぐ必要がないのなら、そもそも“浸食”の治療法の研究が済んでもいないのに、何故なぜ今こうして、君に瀕死ひんしの思いをさせてまで採血をしているのか。そういうことが言いたいのかい、ボルキノフ?」



 サリシスの言葉にうなずき返す体力も気力も、ボルキノフには残っていなかった。



「それは3つ目の、君に言っていなかったことと関係するんだ、ボルキノフ……」



 かすんだ視界の中にあっても、ボルキノフには“第6室長”の糸目がうっすらと開かれて、その奥に隠れた瞳が自分のことを冷たく見下ろしていることがはっきりと分かった。



「今回の実験が――この“禁忌”に触れる実験が――他人に知られるわけにはいかないんだ」



 ……。


 ……。


 ……。



「だって、そうだろう? ボルキノフ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「“石の種”を侵すなんて……“災禍”そのものを冒涜ぼうとくするなんて……ゆるされるはずが、ないじゃないか」



 ……。


 ……。


 ……。



「だから、それを見てしまった君たちには……死んでもらわなくちゃならないんだよ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「心配しなくていい……“彼女”は僕が、いつか必ず、“人間”に戻してみせるからね……」



 ……。


 ……。


 ……。



「だから、安心して死んでくれ……ボルキノフ……僕の友よ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「僕から最愛の“彼女ひと”を奪っていった、憎い憎い、恋敵よ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……サ……リ……シ……――」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。

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