20-9 : 目覚め

「……お、とう、さま……?」



 腕の中でその懐かしい声が聞こえたとき、父は歓喜の声を上げることも、再び涙を流すこともできなかった。



「……お、とう様……お父様……」



 呼吸と心臓が、止まったようだった。目の前の光景が信じられず、頭が真っ白になり、何も考えられなかった。



「……お父様? どう、されたのですか……?」



 アメシストのように淡い紫色をした瞳をじっとこちらに向けながら、ユミーリアが小首をかしげた。


 ……。


 ……。


 ……。



「……。う……っ……うぅ゛……っ」



 目を覚ましたユミーリアの声を耳にしてからしばらくの間を開けて、思考がようやく巡り始めた父は、娘を腕に抱いたまま、深々とこうべを垂れた。何のために、誰に向けてそうしたのかは、本人にも分からなかった。ただ、そうすることが最も自然な行為だと、そうしなければならないのだと、ボルキノフにははっきりと分かった。それだけのことだった。



「……ありがとう……ありがとう……ユミーリア……」



 深く頭を下げたまま、ボルキノフが一言だけ、喉から絞り出すように言った。やがて遅れてあふれ出た大粒の涙がポタポタとこぼれ落ち始めて、病床のシーツの上に染みを作っていった。



「……おはよう……」



 サリシスが、顔を伏せて静かに泣き続ける父の姿を不思議そうに見つめているユミーリアに向けて語りかけた。その声を聞いた娘が顔を上げ、“第6室長”の姿を視界に入れる。



「……サリシス、様……」



「……こんな真夜中に起こしてしまって、すまなかったね……」



「いえ、大丈夫、です」



「よく、眠れたかい?」



「……ずっと……ずっとずっと……とても長い、夢を見ていた、気がします」



「そう……いい夢だったかな?」



「真っ暗な、夢でした……とても真っ暗な……。でも、お父様と、サリシス様と、お母さんの声がする夢で……だから、怖い夢ではなかったのだと、思います」



「……よかった……それは、よかったね……」



 ……。


 ……。


 ……。



 ――おかえり……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――また、君に会えて、本当に、うれしいよ……。



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。



 ――■■■■……。僕の、最愛の人……。





 ***



 地平線の彼方かなたに降りた夜のとばりが薄くなり、星明かりが1つ2つと見えなくなっていく。夜の最も昏い刻を越えた“明けの国”に、朝がやってくるかすかな兆しがのぞき始めていた。


 だが、山の稜線りょうせんを越えてが昇り、その光が差し込むまでには、まだ時間を要する。


 1か月近く眠り続けていたユミーリアは、まだ頭の整理ができず、混乱しているようだった。ボルキノフとサリシス、それとそばかすの小男に囲まれて自分が今いる場所が何処どこなのか分からないようだったし、眠り続けたことで身体が上手く動かせなくなっていることに戸惑ってもいるようだった。


 そして何より、自分の髪の毛が長く伸びていることに、娘は一番驚いていた。


 娘が目覚めてからも、父はしばらくの間泣き続けた。そして涙と嗚咽おえつがようやく収まると、ボルキノフは優しい口調でゆっくりと、ユミーリアとたくさんの会話を交わした。この眠り続けた1か月と、それよりもずっと長い、互いに生き急ぐようにがむしゃらに仕事に没頭する余りにすれ違ってきた時間を埋め合わせるように。



「――そういうことがあったのだ」



「……はい」



「それとな、聞いておくれ、ユミーリア……」



「はい……」



 長い時間話し込んでいる親娘の間に静かに割って入るように、サリシスがボルキノフの肩をそっとたたいた。



「ボルキノフ、“彼女”は目が覚めたばかりでまだ疲れているようだよ。今は少し、休ませてあげるべきだと僕は思うけどね」



「む……う、うむ……そうだな、お前の言うとおりだ」



 柄にもなく饒舌じょうぜつになっていたことに気がついて、ボルキノフが気恥ずかしそうにごほんとせき払いする。



「夜が明けるまでにはまだ時間がある。今はゆっくりお休み、ユミーリア」



 父が娘の両肩に手を掛けて、もろいガラス細工を運ぶようにゆっくりとその身体をベッドの上に横にさせた。



「はい。お父様たちも、お身体を休めて下さいね……」



 ボルキノフに肩まで毛布をかけられながら、ユミーリアが微笑ほほえんでみせた。その段になって、病室の空気を停滞させていた病の気配が消えているのに気がついて、父は改めて大きな安堵あんどめ息を吐いた。



「朝になったら……が昇ったら、また、お顔が見たいです」



「ああ、また朝になったら、会いに来るよ、ユミーリア……」



 そしてボルキノフが先頭になって病室の扉を開け、名残惜しそうに何度もベッドの上の娘を振り返った末に、父は部屋の外へ出て行った。それに続いて、そばかすの小男もオドオドした様子で素早く頭を下げて、逃げ出すように病室を後にした。


 そして最後に残ったサリシスがドアノブに手を掛けて、病室を出ると同時に扉を閉めようとしたとき、ユミーリアの声が聞こえた。



「サリシス様」



 その声にサリシスが振り返ると、ユミーリアが微笑ほほえみながら毛布の端に指先をのぞかせて、手を振ってみせていた。



「……おやすみ。また後でね――」



 飄々ひょうひょうとした表情に口許くちもとをにこりとさせて、サリシスがゆっくりと病室の扉を閉めた。



「――■■■■」



 扉が閉まりきる直前、サリシスの口が“彼女”の名前の形に動いたが、ユミーリアからはそれが見えなかった。


 ――。


 ――。


 ――。



「サリシス。本当に、何と礼を言えばいいか……」



 病室を出た先の“第6室”内を歩きながら、背後を歩くサリシスの気配に向けてボルキノフが振り返らずに言った。


 室内は朝焼けの前触れのわずかな光に照らされて、物の輪郭だけがうっすらと浮かび上がっている。



「礼だなんてよしてくれ、ボルキノフ。“彼女”を救うことは、僕の望みでもあったんだから」



 サリシスの何でもないというふうな聞き慣れた口調が、背後からそう答えた。



「君にも、感謝している。娘の看病に付き合ってくれたこと、改めて礼を言わせてほしい」



「ぼ、ぼくはそ、そんな……きょ、恐縮です……」



 ボルキノフから礼の言葉を贈られたそばかすの小男が、緊張しきった声でどもりながらボソボソとつぶやいた。



「2人には、また改めて、是非礼をさせてもらいたい。金品でどうこうというのは違うのかもしれないが、何か欲しい物を言ってもらえないだろうか……? どんなものでも構わない。そうでもしないと、私の気が収まらないのだ……」



 先頭を歩くボルキノフの声音には、背後を歩く2人への信頼の厚さと、ユミーリアが目覚めたことへの喜びがにじみ出ていた。



「え……あ、う、その……」



 謝礼をさせてくれというボルキノフの言葉に戸惑ったそばかすの小男は、声をどもらす余りに何も言えないでいた。



「そんなに気前の良いことを言うと、僕は君を破産させてしまうかもしれないよ? ボルキノフ」



「お前の投じてくれた資金については、それとは別に私に負担させてもらいたいのだが」



 サリシスの冗談交じりの言葉に、ボルキノフが真面目な口調で応える。



「全く、君という奴は本当に律儀だな。ふむ、欲しいもの、か。そうだな……」



 背後を歩きながら受け応えする“狐目のサリシス”の声には、いつものごとく、何を考えているのか分からない飄々ひょうひょうとした響きがあった。


 サリシスの足音が背後で止まり、考えを巡らせている気配があった。


 そして間もなく、先ほどまでと比べてわずかにゆっくりとした足取りで“第6室長”が再び歩き出し、その足音がボルキノフたちの背後に追いつく。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――ドゴッ。


 ボルキノフの耳に聞き慣れない鈍い音が届いたのは、そのときだった。


 ――ドサッ。



「……サリシス?」



 ボルキノフが足を止め、後ろを振り向く。


 ……。


 ……。


 ……。


 背後の足下に、そばかすの小男が倒れている影が見えた。


 ……。


 ……。


 ……。



「……なら……君の、命をくれ……ボルキノフ……」



 ボルキノフの目の前で、夜明け前の薄明かりの中に浮かび上がったサリシスの人影は、実験用の大きな陶器の壺を頭上に振り上げていた。



「……な……」



 ……。


 ……。


 ……。


 事態を飲み込めない内に、頭に強い衝撃を感じて、ボルキノフの意識は遠のいていった。

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