20-5 : 希望

 不意に届いたその声に、サリシスはどきりとして、反射的に実験机の上から起き上がった。心身が激しく動揺して、鼓動が早くなっているのが分かった。



「あの……お身体の具合でも……?」



 サリシスの様子に戸惑いながら、不安そうに胸の上に両手を重ねて、記憶の中の“彼女”そのものの声と姿をしたユミーリアが、そこに立っていた。



「あ、あぁ……。……。……きみか」



 極度の感情の起伏で目眩めまいを起こしている額に手を当てながら、サリシスがぼんやりとした声で言った。一瞬、過去の記憶と現在の認識との区別がつかなくなり、目の前に立っている女性が誰なのか――ユミーリアの母の“彼女”なのか、“彼女”の娘のユミーリアなのか――分からなくなったサリシスは、“きみ”という呼び方でその場を取り繕うことしかできなかった。



「……どうしたんだい? こんな所に訪ねてくるなんて」



「い、いえ! その、特に用があったという訳ではないのですけど……。御気分が悪そうです、サリシス様、座っていて下さい……!」



 ふらつきながら机から立ち上がろうとするサリシスに向かって、ユミーリアが慌てて言った。椅子に座り直した“第6室長”を前に、“第8室長”がもじもじとしながら言葉を続ける。



「あ、あの、ええと……改めて今日のお礼をと思いまして……。何というか……サリシス様がどうされているか気になったと言いますか……ただ、御挨拶にと……そ、それだけです。お邪魔してしまったようで、すみません……っ」



 要領を得ない言葉を並べて、ユミーリアが勢いをつけてペコリと深く頭を下げた。


 それを見たサリシスの口許くちもとはニコリと緩んで、その顔にはふだんの飄々ひょうひょうとした“狐目”の表情が戻っていた。



「いやいや、お気遣い感謝するよ、ユミーリア君。ちょっと柄にもなく、根を詰めすぎてしまっていてね。おっちょこちょいな君の顔を見たら、ほどよく気が緩んだよ。次からは塩と砂糖を間違えないよう、きちんと確認した方がいいね」



「え……? ……っ! や、やだっ、私、そういえば味見も何もせずに……! ご、ごめんなさいっ」



 手料理についてのサリシスのからかうような言葉を聞いたユミーリアが、顔を爆発させたように真っ赤にして、再び腰を折って深々と頭を下げて見せた。



「気にしなくていいさ。娘がそうしてくれることが、何より1番嬉しいものだよ、父親というものはね。味は二の次、三の次さ」



 そう言われたユミーリアが少し不機嫌そうに頬を膨らませるのを見ながら、サリシスは心の内を相手に読ませない糸目でニコニコと微笑ほほえんだ。



「そういえば、研究の方は順調なのかい?」



 糸目をわずかに開いたサリシスが、幾分か真剣な声音で切り出した。



「はい、“第1室”から古い魔法書が見つかりまして。これまで未解明だった部分の術式理論が埋まりそうです。この調子でいけば“転位の術式巻物スクロール”の量産にもぎ着けそうで」



すごいじゃないか! 転位魔法を術式巻物に落とし込めれば、人と物の移動に革命が起きるよ。それこそ君の業績で世界が変わると言っていいね」



「か、からかわないで下さい、サリシス様っ。私、そんなすごいことをしているつもりは……」



 さらに顔を真っ赤にして、ユミーリアが照れくさそうに言った。



「参ったな。この顔で真面目なことを言っても、誰も信じてくれやしない」



「サリシス様が、そんな調子だからですよ」



「そうなのかい? もっと気難しそうにしていた方がいいのかな?」



 そう言いながら指で糸目の端をり上げて見せるサリシスの態度に、ユミーリアはあきれるように笑った。



「……ここまで研究を続けることができたのは、サリシス様のお薬のお陰です」



「……だといいんだけれどね。君の体調が良いのは、君自身が病気に負けないように頑張っているからだよ。僕の薬なんて、君の頑張りに比べれば、胡散うさん臭い栄養剤みたいなものさ」



 ユミーリアの言葉を聞いて、サリシスの顔に影が差したが、弱くなったランプのあかりがその表情を照らし出すことはなかった。



「もう、またそうやって煙に巻こうとなさるんですから……。……? サリシス様? それは何です?」



 サリシスの視界の中で、ユミーリアが“第6室長”の腰掛けている椅子の背後を指さしながら不思議そうに首をかしげた。



「ん? 一体何のことを言って――」



 同じく首をかしげたサリシスが、ユミーリアの指さしている背後を振り返ると――。



「なっ……!?」



 そこには、真綿のベッドに収められた3つの“石の種”の内の1つが、ぼんやりと青白い光を放っている光景があった。


 心臓が激しく脈を打って、驚愕きょうがくと畏怖の混ざり合った冷たい汗が頬を伝い流れていく感覚があった。サリシスは努めて表情を変えないようにしていたが、顔中の筋肉が自分の意思に反してピクピクと痙攣けいれんするのは止められなかった。


 どれだけ文献を調査しても、どれだけ予備実験を重ねても、どれだけ万全を期して臨んだ本実験でも、ただの1度も変質の兆しを見せなかった“石の種”に、正に今この場で、待ち続けていた変化が起きていた。それを目の当たりにして、サリシスは頭の中が真っ白になっていた。



「サリシス様?」



 “第6室長”の耳に、再び“彼女”の懐かしい声が聞こえ、そしてようやくサリシスははっと我に返る。



「あ、あぁ! ごめんごめん、少しぼぉっとしていたみたいだ」



 首をかしげたままでいるユミーリアの方を見ながら、サリシスが後ろ手に“石の種”の収まった金属の箱を閉じ、素早く抽斗ひきだしを閉める。



「何を見ていらしたのですか?」



 研究者としての勘が、その青白い光に神秘性を見出いだしたようで、ユミーリアが興味深そうな表情を浮かべて、サリシスの座っている実験机の方へと歩み寄る。


 サリシスの頬に、もう一筋汗が流れた。


 ……。


 ……。


 ……。



「……あ……」



 ふと、近づいてくるユミーリアの身体が、ふらりと揺れた。


 ……。


 ……。


 ……。



「■■■■っ!」



 全身が、反射的に動いていた。そして意識がそれに追いついたとき、サリシスの腕の中には、“彼女”の細く柔らかな感触があった。



「あ、あの、サリシス様……」



「……」



 腕の中で、“彼女”の身体が小さく震えているのが分かった。



「すみません……最近、また、目眩めまいがするように、なってしまったようで……」



「……」



 消え入りそうな“彼女”の声をとどめようとするように、思わず両腕に力が入った。



「それに……何だか、目がえにくく、なってきて……眼鏡、替えなくちゃ……」



「……」



 強く強く、“彼女”のことを抱き締めた。どこへも行ってしまわないように。消えてしまわないように。



「……苦しい、です……サリシス様……」



「……すまない……」



「サリシス様の長い髪、くすぐったいです……」



「……すまない……」



「……お母さんの名前、とても久しぶりに、聞きました……」



「……すまない……僕は……僕は……っ」



 ……。


 ……。


 ……。



「サリシス様……私……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……私……死にたくない……」



 ……。


 ……。


 ……。



「死なせたりなんかしない……絶対に……絶対にだ……っ」



 ……。


 ……。


 ……。



「サリシス様……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……お慕い、しています……」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。



「そうさ、死なせたりなんかしない……何に替えても、僕が君を、救ってみせる……」



 “第6室”から人の気配が消え、黒く深い夜のとばりが降りる中、サリシスはたった1人、ランプの消えた個人研究室の机に座っていた。


 実験机の上で青白く光り続ける、“石の種”を食い入るように見つめて。

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