20-4 : “石の種”

「……」



 ――魔法院“第6室”。サリシスの個人研究室。


 の沈んだ個室の中には、手元を照らすランプのあかりだけがぽつりとともっている。実験机の上には、木枠に立てかけられた大小様々な大きさのフラスコがずらりと並べられている。壁と一体になっている一面の棚には、その面積の半分に大量の論文が収められ、残りの半分には分厚い半球状のガラスの蓋をかぶせられ外気から遮断された状態で保管されている実験素材が陳列されていた。


 ゴボリ。と、ランプのあかりが向けられた1本の試験管の中で気泡が泡立つ音がした。


 その試験管の中に充填された液体は、それ自体が蛍光色に発光する性質を持っているようで、ランプのだいだい色をした光を受けたそれは試験管全体を青白く発色させて、その冷たい明かりでサリシスの顔を薄ぼんやりと暗闇の中に浮かび上がらせていた。


 実験用の薄手の革手袋を両手にめたサリシスが、青白く光る試験管を至近距離から見やりながら、スポイトに吸い上げた薬液を一滴一滴、慎重にその中にそそぎ入れていく。薬液が、試験管に満ちる青白い液体の中に滴り落ちるたび、異なる液体同士が触れ合った領域が紫色に変色して、それはあっという間に周囲の液体に溶け込んで色を失っていった。


 ゴボリ。


 そしてその試験管の中心には、小指の先ほどの大きさの、ゴツゴツとした表面をした小石のような物がふわふわと上下に浮き沈みしながら漂っていた。



「……」



 糸目をうっすらと開き、その小石のような物体に真剣な眼差しを送っているサリシスが、2本目のスポイトに持ち替えて薬液をゆっくりとそそいでいく。慎重になる余り、その手はわずかに震えていた。


 1滴。


 試験管を満たす液体の蛍光色が、更にはっきりとした青白い光を放ち始める。


 2滴。


 青白い光は目を焼くような強い白色に変わり、その中に漂う物体の影がはっきりと浮かび上がった。


 そして、3滴目の薬液がそそがれた瞬間、2液が混ざり込んだ部分が墨を溶かし込んだように黒くなり、それは瞬く間に試験管内全体に広がっていった。



「う……っ!」



 その反応を目にすると同時に、サリシスはそれ以上薬液が試験管に滴り落ちないよう、反射的に手に持っていたスポイトを投げ捨てた。床に落ちたスポイトがパリンと軽快な音を立てて砕け散り、飛び散った薬液が染みを作った。



「まずい……!」



 焦燥した声を漏らしたサリシスが、試験管の中に漂う物体を取り出そうと、革手袋をめたままの手を液体の中にけたが――。



「ぐっ……!」



 その指先が液面に触れた瞬間、ジュッと革手袋がける音がして、サリシスは試験管から手をどけるしかなかった。一瞬で革手袋を溶かした液体の一部が皮膚に触れ、黒く腐食した部分から血がにじみ出た。


 そしてサリシスがただすべなくのぞき込んでいるその先で、試験管の中に漂っていた物体がボロボロと崩れていき、それは小さな泡を無数に立てて、やがて跡形もなく液体の中に溶けていった。



「……くそっ!」



 サリシスが、思わず感情的な声を出して、実験机の上に拳をたたき付けた。



「これで、2度目の失敗、か……」



 組み合わせた両手に額を押しつけて、サリシスは誰にも見せたことのない感情的な表情を浮かべた。無意識に顎に力が入り、強くみ合わされた歯がのぞき見える。



「文献も、試料も少なすぎる……! しかし、彼女の病を完治させ得るものは、これしかない、これしかないんだ……“石の種”しか……!」



 実験に失敗したショックに打ちのめされながら、サリシスが震える手を伸ばし、何重にも鍵のかけられた抽斗ひきだしを開けた。抽斗ひきだしの中には、更に施錠のされた金属製の箱が収められていた。


 金属の箱を開けると、内部には真綿が引き詰められていて、そこに作られた5つのくぼみの内3つには先ほどの実験で使用した物と同じ、サリシスが“石の種”と呼んだ、ゴツゴツとした種のような物が並べられている。残りの2つのくぼみは空っぽで、その空白がサリシスに“失敗”の2文字を突きつけていた。


 真綿の上に赤子のように丁寧に置かれた“石の種”に冷たい視線を向けながら、サリシスが短く自嘲の笑い声を漏らす。



「こんな物1つに、金貨千枚、か……。“第2室”め、5個しか現存しないとはいえ、暴利もいいところだ……」



 ……。


 ……。


 ……。


 ――ドンッ。


 サリシスが机の上に拳をたたき付ける、2度目の音がした。



「……金貨5千枚だろうが、1万枚だろうが、幾らでも言い値で積んでやるさ……彼女を救うためなら、金でそれができるなら、幾らだろうと……!」



 しかし、それはかなわぬ願いだった。幾ら資金を積んだところで、それだけでは状況は変わらないのだ。サリシスが金貨5千枚――私財のほぼ全て――を支払って手にしたのは、“可能性”……ユミーリアの血の病を完治させ得る可能性だった。


 その可能性を現実のものとするか、それともはかない虚構と成り果てさせるかは、ただただ、サリシスの行動如何に委ねられていた。


 これまでにサリシスが挑んだ“石の種”の変質実験は、2回。そしてその2回ともで“第6室長”は失敗を犯し、有意性のある結果もデータも、ほとんど何も得ることができずにいた。得たものと言えば、朽ち果てた2個の“石の種”の残骸と、無力感だけだった。



「僕は……こんなにも無力だ……」



 打ちひしがれたサリシスが、白く長い髪の毛を鷲掴わしづかみにしてくしゃくしゃにき乱す。“石の種”の研究のためだけに設けた個人研究室の片隅には、ふだんは滅多めったに口にしない酒の瓶が散乱していた。



「魔法院の権威なんて、どうでもいい……。積み上げられてきた研究の歴史なんて、くそ食らえだ……。今はただ、“結果”が欲しい……どんな代償を払ってでも、彼女を救うことのできる“結果”、ただそれだけが……!」



 ランプのあかりが、燃料となる油を失いつつあって、徐々に小さく弱々しくなってきていた。机の上に突っ伏しているサリシスは、そんなことには全く構わず、ただ光が消えゆくに任せ、闇が周囲に満ちていくに委ねていた。


 無力感と、不安と怒りと焦燥で、目の前の景色が渦を巻いた。サリシスは硬く目を閉じて、眠ることさえできず、まぶたの裏の闇をただ見つめて、意識が停止していくのをじっと待った。



「――■■■■」



 ほとんど無意識の内に、サリシスの口から言葉がこぼれた。それはほとんど空気の漏れる音にしか聞こえない雑音だったが、その音が意味するものは、ユミーリアの母親――血の病で若くして死んだ、ボルキノフの妻の名だった。


 ……。


 ……。


 ……。



「……サリシス様?」



 そして気力を失っていたサリシスの耳に、懐かしい“彼女”の声が聞こえた。

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