20-3 : “魔法院 第6室”

 ――魔法院。“第6室”。



「お帰りなさいませ、室長」



 “第6室”を象徴する、発色鮮やかな青色のローブの上に白衣を羽織った研究者の1人が、ボルキノフのもとから戻ってきたサリシスの方を振り向きながら言った。



「やーやー、ただいま。急に席を外してしまって悪かったね」



 感情の読み取れない糸目に、口許くちもとをにこやかに緩めたサリシスが、飄々ひょうひょうとした口振りで大股に歩き、ローブを宙にゆらゆらと躍らせた。



「室長、このところあの親娘とよく接点を持たれているようですが、“第8室”にそれほど御興味が?」



 手に持った試験管を振りながら、研究者が余り興味もなさそうに尋ねた。



「“文官”にも“第8室”にも、興味なんてないよ。僕はただ、“友人たち”に会いたくなっただけさ」



「“第6室長”が年端も行かない女に御執心だと、一部でうわさになっているようですが?」



「あらら、そうなのかい? 弱ったね。なら、『実は僕は熟女が好きなんだ』って言って回れば、その“一部の連中”は黙ってくれるのかな?」



 研究者は肩をすくめて、サリシスの言葉を右から左へ聞き流した。



「まぁ、いいさ。言いたいやからには言わせておけばいいよ。僕が幾ら言ったところで彼らを黙らせることはできないし、彼らが幾らささやき合ったところで僕を邪魔することなんてできないんだからね」



 口角を上げてニコニコと笑ったまま、サリシスが研究者たちをけるように分室内を横切っていき、奥にある個室の扉を開ける。



「また薬の調合ですか、室長」



 研究者が、わずかにとがめるような口調で“第6室長”の背中に向けて言った。



「お言葉ですが、幾ら成分を調整したところで、彼女の病は――」



「――君には言っていなかったけど、“実は僕は熟女が好きなんだ”」



 肩越しに振り返ったサリシスの糸目からのぞき見えた瞳には、有無を言わせぬ冷徹な光が宿っていた。



「……」



 研究者はサリシスのその目を見返すばかりで、それ以上何も口に出そうとはしなかった。



「言いたい連中には、言わせておけばいい。病む者は、勝手に病めばいい。僕はただ、気まぐれで薬を作っているだけさ。そういうことでいいんじゃないかな」



「室長……」



「ん、それじゃ」



 それ以上振り返ることもなく個室の扉を閉ざしたサリシスの背中は、何も語ろうとはしなかった。


 魔法薬学を専門とする、“第6室”。その室長、“狐目のサリシス”の本心を知る者はいない。



 ***



 ――法務院。ユミーリアが去った後の文官執務室。



「最近の彼女の体調はどうだい?」



 調味料を間違えたユミーリアの手料理をぺろりと平らげたサリシスが、何でもない世間話をするように口を開いた。



「このところは、落ち着いているようだ。貧血も起こしていないし、以前のように1度眠ると丸々3日目を覚まさないというような異常な睡眠もなくなったよ」



 椅子に深く腰掛け、娘の体調について淡々と述べるボルキノフの姿は、主治医の問診を受ける患者のようだった。黙々と自らの仕事に打ち込む勤勉な文官の顔はいつの間にか消えていて、そこには我が子を案じる親の顔があった。



「それは結構なことだね。ユミーリア君の容態に合わせて、これまで少しずつ薬の調整をしてきたけれど、今度の調合は上手くいっているようで安心したよ」



 ボルキノフの言葉を促すように、サリシスが合間合間で何度も小さくうなずいてみせる。“第6室長”のその落ち着いてやんわりとした相槌あいづちに、文官はすっかり気を許して、そして弱気になっているようだった。



「礼を言う、サリシス……」



「何の何の、こういうときに役立たなくては、“第6室”の存在意義が問われるからね」



 サリシスが何でもないというふうにニコニコと笑顔を浮かべながら話していると、ボルキノフが突然、執務机の上に両手を突いて深々と頭を下げた。灰色の髪の毛の中に、一際白い筋が幾本も走っていて、それがこの寡黙で勤勉で不器用な文官の、ユミーリアという才に恵まれた娘の父親の、ボルキノフという男の通ってきた苦悩を物語っていた。



「……どうしたんだい、ボルキノフ?」



「サリシス……お前には、幾ら頭を下げても、幾ら礼を言っても、到底足りん……」



 サリシスの飄々ひょうひょうとした態度とは正反対に、ボルキノフは机に額が着くほどに頭を下げ、その姿勢のまま微動だにしなかった。



「よしてくれよ、そんな真似まねは。聞こえが悪いのを承知で言うけれど、これは僕の趣味みたいなものなんだ。君が頭を下げることなんて何も――」



「私財をぎ込んで、自分の続けてきた研究も、出世の道もなげうって、ユミーリアのためにここまでしてくれる人間に、頭を下げることしかできない私を……ゆるしてくれ……!」



 夕陽ゆうひとも月明かりとも分からない光に照らされて、頭を下げたボルキノフの影が執務室の床の上に長く伸びていた。



「ユミーリアは……あの子は……何から何まで母親に……かつての妻に、そっくりだ……。優しいところも、感受性が強いところも、とても賢いところも……そして妻と同じで、生まれつき血の病を……不治の病を背負っているところまで……」



 ボルキノフの声が震え、喉が詰まったようにかすれて聞こえる。



「妻は……お前も知っているように、ユミーリアを産んですぐに逝ってしまった……。だが妻の死に顔は、とても幸せそうだったよ……。子を産むことはおろか、授かることも難しいと医者には言われていたのだ……。それが、我が子を自分の手で抱くことまでできて、夢がかなったととても喜んでいた顔が……もう思い残しはないと笑っていた顔が、今でもはっきりと思い出せる……」



「ボルキノフ……」



「そんな妻に、ユミーリアは余りに似すぎている……恐ろしいほどに。だから私には分かるのだ……分かってしまうのだ……あの子も決して、長くは生きられないだろうと……」



 そしてボルキノフはガバリと顔を上げて、目の前に立つサリシスの右手を両手でしっかりとつかんだ。その目元は、あふれた涙で赤く腫れている。



「頼む、サリシス……っ。あの子の夢を、かなえさせてやってくれ……っ。あの子が夢見た、失われた魔法体系の――転位魔法の復活を……それが成就するまでの、時間を作ってやってくれ……この通りだ……っ」



 ……。


 ……。


 ……。



「――“第6室長”に向かって、その物の頼み方は何だい、ボルキノフ」



 糸目の向こうから涙をこぼす文官の目をのぞき込みながら、サリシスが普段と変わらない声音で口を開いた。



「敬意に欠けていると、無礼だとは思わないのかい?」



 そして、サリシスがいていた左手をボルキノフの手に重ねて、爪が食い込むほどに強く握り返した。



「“ユミーリア君が夢をかなえるまでの時間を作れ”だって? 思い上がるなよ、ボルキノフ。彼女の父親なら、僕の友人なら、もっとはっきり言え――“ユミーリアを救え”とね」



「……っ」



 嗚咽おえつが漏れるのを抑えるので精一杯で、ボルキノフは何も言えなかった。


 ――。


 ――。


 ――。



「僕は“明けの国”の魔法薬学の最高峰、“第6室”の室長だ。僕の誇りに賭けて、ユミーリア君の病を治してみせるさ……必ず」



 ボルキノフの執務室を後にして、魔法院へと続く通路を歩きながら、サリシスが独りごちた。



「そうさ、ユミーリア君は、彼女の母親の……あの人の、生き写しだよ……」



 ……。


 ……。


 ……。



「ボルキノフ……だから僕は……“彼女”を2度も、あの病に……君に……奪われる訳には、いかないんだよ……」

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