20-2 : “魔法院 第8室”

 ――“明けの国”。王都。魔法院。


 先人たちの英知たる魔法書の管理、新たな術式と魔導器の開発、魔法使いたちの情報交換の場――魔法に関するあらゆる事柄を統括する組織。それが魔法院である。


 魔法院はその活動・研究内容ごとに組織が細分化されていて、それぞれが専門の“分室”を構えている。古文書の研究を担う“第1室”、術式媒体の収集と管理を受け持つ“第2室”に始まり、地・水・火・風……更に細かい分類と系統別に分室があてがわれ、各分野の探求者たちがそこに集っていた。



「~♪」



 ――魔法院“第8室”。父親に手弁当を手渡して上機嫌になっているユミーリアが、自らが籍を置く分室の敷居をまたいだ。



「ふふっ♪ 私の作ったお弁当、喜んで下さってたわ。次はもう少し難しい料理に挑戦してみようかしら……」



 鼻歌交じりに分室内を横切って作業机に向かっていくユミーリアの足下には、無数の魔法書が積み上げられていて、文字通り足の踏み場もないほどだった。作業机の上にも数え切れないほどの魔法書が散乱し、それらが間仕切りとなって椅子に座った彼女の姿をすっぽりと覆い隠してしまうほどだった。


 一見してそれは、魔法書の山が積まれては崩れ、再び積まれることを何度も繰り返したような無秩序な光景に見えたが、そこにはユミーリアにしか分からない書物の配置法則があった。


 読み終えたばかりの魔法書は積み上がった本の山の1番上へ。関連性の強い書物同士はうずたかく1か所に平積みされていき、それぞれの書の塊は分野が似通っているものほど近い距離に配される。そしてユミーリアが自らの研究にいて最も重要とし、頻繁に手にして開く文献の数々は、常に積み上げられた山の“最も下”に置かれていた。


 散らかっているようにしか見えない“第8室”は、そうして仔細しさいに観察していくと、それはユミーリア自身の知識と記憶の構造を映し出したかのような法則性のある配置が取られているのだが、そのことに気づく者は誰もいない。彼女自身、それはほとんど無意識に行っていることだった。


 魔法院から割り振られた分室をそのように煩雑に使用することが果たして許可されるのかといえば、通常、それは当然“否”である。


 乱雑に積み上がった魔法書に埋め尽くされていく一方に見える“第8室”のその状況が黙認されていることには、勿論もちろんそれだけの理由があった。



「よいしょ、っと」



 ユミーリアの知識と記憶の形そのものを転写させた石碑にように、床の上に新たな書物の山が積み上げられた。


 ――1つ目の理由は、“第8室”には室内が本に埋もれていくことを注意する者が、誰一人としていないことだった。


 コンコン。と、“第8室”の扉を外からたたく音がした。



「はい、どなたですか?」



 書物で築かれた壁の内側に完全に隠れてしまっているユミーリアが、扉をたたいた訪問者に向けて返事をすると、その向こうから男性のどもり声が聞こえた。



「ちょ、調査を依頼されていた……ま、魔法書をお届けにあがりました……ユ、ユミーリアさん」



「いつもありがとうございます。少しだけお待ち下さい。……。はい、どうぞ」



「し、失礼します……」



 扉越しに二言三言の会話があった後、“第8室”のドアノブが外からガチャリと回され、先ほどまで本の壁に埋もれていたはずのユミーリアと訪問者の目が合う。


 訪問者の目に映る“第8室”は、壁一面の本棚に無数の魔法書がずらりと並べられ、床の上には机とわずかな調度品しか据えられておらず、部屋の奥の広々とした研究机にユミーリアが掛けているだけの、整然とした空間だった。


 ――“第8室”の煩雑さが黙認されている理由の2つ目は、誰も普段の“第8室”の有様を知らないからだった。


 “第8室”にやってきたのは、ローブのフードを目深に被った小男だった。フードは意識的にぐいっと目元に引き寄せられていて、さらに小男は顔をうつむけているため、目元が完全に隠れていた。その隠れた目元と、低く小さい声音でぼそぼそとつぶやかれるどもり声から、小男が人付き合いの苦手な性格をしているということは明らかだった。魔法院には自身の知的好奇心にしか興味を持てない人種が多く、この小男のような人物は別段珍しいわけでもなかったが、フードの下からのぞき見える頬のそばかすが、影の薄い小男の存在をユミーリアに印象づけていた。



「だ、“第1室”のふ、古い年代のしょ、書棚から……ご、御依頼の一覧にあったちょ、著者の文献がみ、見つかりましたので……こ、こちらに」



 ぎこちない足取りで“第8室”の奥へと踏み入ったそばかすの小男が、研究机を挟んで向かいに腰掛けているユミーリアに向かって、身体をこわばらせながら、両手でつかんだ1冊の魔法書をおずおずと差し出した。



「まあ! こんなに古い著書を……! もうどこにものこっていないと諦めかけていました……何とお礼を言えばいいか……!」



 使われなくなって久しい古い文字で書き記された魔法書を食い入るように見つめながら、ユミーリアが感嘆の声を漏らす。



「い、いえ……だ、“第1室”の古文書整理がぼ、ぼくのし、仕事ですから……つ、ついでにやってるだ、だけですので……」



 そばかすの小男はユミーリアの言葉を聞いて、両手につかんだ古い魔法書をずいと突き出しながら早口に言った。俯けられた顔の陰の下で、口角がひくひくと引きっているのが見えたが、どうやらそれはうれしがっている表情らしかった。



「そ、それではぼ、ぼくは仕事場にも、戻りますので……ま、また見つかればお、お持ちします……ユ、ユミーリアさん……あ――」



 ひどく緊張している様子で何度もどもりながら、そばかすの小男はそこまで言って、小さなせき払いをして言葉を改めた。



「――し、失礼しました……ユ、ユミーリア“室長”」



「ふふっ。よして下さい、そんな呼び方」



 そばかすの小男の“室長”という言葉に、ユミーリアが困ったような表情を浮かべる。



「そんなに立派な者ではありませんよ。“1人しか在籍者のいない分室”なんて」



 謙遜するように言ったユミーリアにどう言葉を返せばよいのか分からない様子で、そばかすの小男は口許くちもとを様々な発声の形にさせながら、一言も発することができずにオドオドとするばかりだった。そして最後まで何も言葉を見つけることができないまま、小男はたった1人の“第8室長”に頭を下げて、ぎこちない動作で分室から出て行った。



「……。……ふぅ」



 再び1人きりとなった空間の中でユミーリアが小さくめ息をつくと、“第8室”はそれまで通りの、床の上に本の山が何百と積み上がった煩雑な有様に逆戻りした。



「これで、また1歩、私の夢に近づけるわ……」



 本の壁に囲まれた先で、ユミーリアの静かな独り言だけが異様に大きく聞こえた。


 ――ユミーリア1人のために魔法院が“第8室”を割り当て、一切干渉しない理由。その最大の理由は、彼女が“明けの国”ただ1人の――。



「失われた魔法体系の、復活を……」



 ――ユミーリアが“明けの国”に現存する、たった1人の、転位魔法の使い手であるからだった。


 そばかすの小男から受け取った魔法書を研究机のわずかな作業スペースの上に開き、ユミーリアが瞳を左右に猛烈な早さで往復させながら、古い時代の言葉で書かれた転位魔法についての理論を次々に読み解いていく。


 それは古文書を専門に取り扱う“第1室”の研究者にすら、まともに読むことのできない文字だった。


 それは、数ある魔法の中でも最高難度とわれる体系である転位魔法に精通する者にしか意味を開示しない、特殊な秘匿文字だった。かつて魔法の研究とは門外不出とされることが多々あり、その過程で様々な秘匿文字――それ自体が魔力を帯びた強力な暗号文があった。そして無数の流派・学派がそれぞれに秘匿文字を開発していった結果、後継者の途絶えた魔法体系の知識は暗号とともに歴史の中に忘れ去られていったのである。転位魔法も、そのようにして失われていった魔法体系のひとつだった。



「すごい……“翡翠ひすいの魔女”……ここの記述は、“宵の国”の“螺旋らせんの塔”のことを言っているのかしら……」



 ぶつぶつと独り言をこぼしながら古い転位の魔法書を一通り読み終えたユミーリアが、分厚い書物をぱたりと閉じて、疲れたようにふぅとめ息を吐いた。



「……魔族は、たった一代で魔法体系を完成させると聞くわ……。数代にわたって、一族の血を何世代も引き継いでようやくそこにまで辿たどり着ける私たち人間とは、大違い……」



 先人たちの英知の結晶たる魔法書を開くたび、ユミーリアの中にはある思いが巡るのだった。



 ――この魔法書を記した魔法使いたちは、一体どんな思いでこれを書き残していったのだろう。



 ――己に許された限りある時間をなげうって、命をささげて探求した魔法体系の完成を見ることもなく死んでいった彼らは、彼女らは、一体どんなことを考えていたのだろう。



 ――転位魔法を、失われた魔法体系の復活を夢に見ている私のおもいは、情熱は、私のいなくなった後の世界で、一体どんな形で受け継がれていくのだろう。



 ――私のいない世界……決して観測することのできない、“私が死んでしまった後の世界”……そんなもの、果たして存在すると言えるのだろうか?



 ……。


 ……。


 ……。



「……ああ、怖い……“死”について考えると……とても、とても怖い……」



 どれだけの知識を持っていようと決して理解の及ばない“死”という概念に思いを巡らせるたび、ユミーリアはたまらなく恐ろしくなり、自分というものがひどく曖昧でり所のない、孤独な存在のように思えてくるのだった。



「……ごほっ」



 突然、胸に何かが詰まったような違和感があり、ユミーリアが口許くちもとに手を当ててき込むと、喉の奥で冷たい泡がはじけるような不快な感覚があった。


 頭の中で漠然とした不安のようなものが大きな渦を巻いて、ユミーリアはまらず椅子に腰掛けたまま自分の膝を抱き寄せて顔を埋めた。



「……お父様……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……サリシス、様……」



 孤独な“第8室長”の独り言は、彼女の父親にも、“狐目”と呼ばれた男の耳にも、届くことはない。


 手のひらをらす吐血の感触を必死に頭の中から追い出そうと努めながら、ユミーリアは音も立てずに静かに泣いていた。

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