19-8 : 狩り

 更けた夜の世界を、無数の星の小さな光が照らし出し、深い紺色の天蓋とどこまでも黒い山の稜線りょうせん、そして影絵のように揺れる木々の輪郭が濃淡となり、暗闇の中に緩やかな単色の階調を生み出している。


 紺と黒の絵の具だけで塗り固められた沈黙の中で、自警団の掲げ持つ松明たいまつあかりだけが点々と浮かび上がり、横たわる深い夜の調和を乱すように、ゆらりゆらりと揺れていた。


 魔族兵から引き払われた武装に身を固めた魔族の男たちが、互いの松明たいまつの光を頼りに言葉を交わす。



「何か異常があるか?」



「いいや、何も」



「こちらにも、“人間”の気配はない」



「魔物用の鳴り鈴は巡らせてある。もし何か近づいてくるなら、それで分かるはず――」



 シャンシャン。と、自警団の男たちの会話が終わるよりも先に、暗い夜のとばりの向こうから、鈴の鳴る透き通った音が聞こえた。



「――!」



 魔族の男衆が一瞬凍り付き、ほとんど無意識の内に、音の鳴る方向へと松明たいまつの先端が向けられる。


 集落の周りに張り巡らせている、魔物よけの鳴り鈴。それに何かが触れたのだ。


 ……。


 ……。


 ……。


 シャンシャン。と、再び同じ鈴の音が聞こえた。


 魔族の男衆は互いに目配せし、合図を確かめる――“物音を立てるな”、“武器を構えろ”、と。


 ……。


 ……。


 ……。


 ホォホォ。


 鳴り鈴の音がした方向から、ふくろうの鳴く声がした。その寡黙で思慮深い鳥が、たまたま近くにくくり付けられていた鈴を鳴らしたのだ。


 魔族の男衆たちが、ほっと小さく息を吐き出す音が聞こえた気がした。



「何だ……夜鳥か……」



「もう、夜も遅い。“人間”たちが領内に侵入していたとしても、もう今夜は大丈夫だろう」



「夜が明ければ、魔族軍の守備隊がやってくる手筈てはずになっている。今夜だけ……今夜だけこのまましのげればいい」



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。



「――みたいなことをぉ、連中は今頃言ってたりすんのかねぇ。ひははっ」



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――ドウッ。


 一瞬、空気の裂ける音がした。


 闇に閉ざされ距離感のなくなった空間のその向こうで、ゆらゆらと揺れていた松明たいまつの光が1つ、消えた。



「いーち」



 ギリッ、ギリッ、ミミミ――大弓が絞られる、張り詰めた音がする。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――ドウッ。


 音とも呼べないような、鋭く研ぎ澄まされた空気の波打つ予感があって、太矢が松明たいまつの光に吸い込まれるように飛んでいったようだった――暗闇の中に放たれたその太矢の姿を認めることのできる者は、射手自身を含めて、どこにもいない。


 彼方かなたで、2つ目の松明たいまつが消えた。



「にーぃ」



 ……。


 ……。


 ……。



 ドウッ――「さーん」



 ドウッ――「しーぃ」



 ドウッ――「ごーぉ……ひははっ」



 闇の向こう側がにわかに騒がしくなり始めるまでに、そうしてニールヴェルトは5本の太矢を“的”に命中させていた。


 それまで上下左右にふらふらと揺れていた松明たいまつの光が、闇の中にぴたりと静止する気配があった。松明たいまつが地面か何かの柱か、そういったものに固定されたことが、遠く離れた闇夜やみよの中に立つニールヴェルトの位置からでも、はっきりと分かった。



「あーららぁ、バレたかぁ。いーぃ的だったんだけどなぁ」



 ニールヴェルトの、へらへらとわらいの混じった声が聞こえる。



「仕留めれたのは、5匹だけかぁ。“狩り”の成果としたら、微妙なとこだなぁ」



 鐘のような物が打ち鳴らされ、魔族の集落に“人間”の襲来のしらせが広がっていくのが聞こえた。



「あーぁ……あの集落、今までのよりもデカそうだからなぁ……こりゃ、あちらさんの方が地の利も数も有利かもしれねぇなぁ」



 間延びした声で、ニールヴェルトが誰に言うともなく独り言のようにこぼした。


 ……。


 ……。


 ……。



「……まぁ、もう手遅れなんだけどなぁ。ひははっ……ひはははっ……」





 ***





「ゆ、弓だ……! “人間”だ……!」



 自警団を構成する魔族の男たちの中に、ざわざわと動揺が伝播でんぱする。



松明たいまつを固定して離れろ! 的にされる……!」



「殺された……殺されたのか……?」



「“人間”が……“人間”が来る……!」



 水面に投じられた無数の小石の立てる波紋が重なり合って大きな波になるように、魔族の男たちの焦燥した声で周囲が次第に騒がしくなっていく。



「静かに! 静かにしろ……鳴り鈴が聞こえなくなる……!」



 ……。


 ……。


 ……。


 無数の喧噪けんそうの息継ぎが不気味にみ合い、まるで示し合わせたように、魔族の男衆たちの口が一斉に噤まれた。


 ……。


 ……。


 ……。


 つい今し方まで、何か言葉を口にしていなくては不安で仕方なかったはずが、今はその沈黙を破ることが何よりも恐ろしいことのように感じられた。


 ……。


 ……。


 ……。


 ホォホォ。


 ……。


 パチパチ。


 ……。


 全てが溶けてしまいそうな闇夜やみよの中で、ふくろうの意味深な鳴き声と、松明たいまつぜる冷たい音だけが、思い出されたように繰り返される。


 ……。


 ……。


 ……。


 魔族の男が1人、何をするというでもなく、半ば無意識に足下を踏み込み直した。


 ――ズチャリ……。


 足下が何か、水溜まりのようなものにはまった感触があった。


 その突然の感触に、身体の芯からサァっと熱が逃げていき、一拍遅れて今度は逆に身体の表面が熱くなって、汗が噴き出る嫌なしびれがあった。


 魔族の男が、恐る恐る足下の水気の方へと目を向ける。



「……」



 “人間”の放つ矢の的にならぬよう、地面に突き立てた松明たいまつの光に照らされたその足下には、太矢で喉元を真横から射貫かれ絶命した仲間のむくろが横たわっていた。目を閉じる間もなく命の途切れたその亡骸なきがらの瞳には、死者特有の濁りが浮かんでいて、何を見ているとも知れないその眼球の上で、そこに映り込んだ松明たいまつあかりだけが揺れていた。


 死体の周囲には、太矢に突き破られた頸動脈から噴き出した血で、大きな血溜まりができていた。



「……」



 血溜まりがいびつな形の鏡となって、松明たいまつの炎を逆さまに反射する。



「……」



 何か、違和感があった。



「……」



 100年近く同じ集落に暮らしてきた、見知った顔の魔族の男の亡骸なきがら。その死に顔は、記憶の中にある生前の顔つきとはどこか違って見える気がした。



「……」



 ひどく、現実味のない光景だった。



「……」



 極めて長寿の魔族は、人間以上に“死”という概念に実感を持たない者が多い。いや、死生観そのものが、人間と魔族とでは異なっている。魔族にとっての“死”とは、永い生涯の果てに辿たどり着く“生”の別の有りようだった。それは人間の抱くような、ガラス細工が砕け散って永遠に意味を失ってしまうと言うような“死”のイメージではなく、氷が溶けて水になるような、相が変化するといったイメージに近かった。魔族にとって“生”と“死”というものは、本質的には極めて似通ったものであるという認識だった。



「……」



 だが、今目の前にある“死”には、何か異質なものがあった。



「……」



 何か。何か決定的なものが、間違っていた。


 ……。


 ……。


 ……。


 そして――。



「……っ」



 ――グサリ。


 そして、死体の横たわっている血溜まりが、“赤い色をしている”と気づいたときには、全てが手遅れになっていた。



「……っ!」



 首筋が突っ張ったような感覚があり、何が起きたのかと口を開けた魔族の男は、全く声が出せなくなっている自身の肉体の異変に戸惑いを覚えた。



「……っ! ……っ!!」



 そして魔族の男は、次に自分が呼吸できなくなっていることに気がついた。



「……っ?!!?」



 突然の事態に理解が追いつかず、きょろきょろと上下左右に視界が泳ぐ。


 そして足下の死体に再び目をやったとき、魔族の男はその亡骸なきがらの喉元から、先ほどまでそこに突き立っていたはずの太矢が消えているのを認めた。



「……。……。……」



 魔族の男が足下の死体から更に視界を下げていくと――そこには自分の喉に突き立った、太矢の柄と矢羽根があった。


 ブクブクブク。


 ――何故なぜ何故なぜ、死体に刺さっていたはずの矢が、自分に突き立っているのだろう。


 ゴボゴボ。


 ――誰かが……“何か”が、死体から矢を引き抜いて、自分に向けてそれを突き立てたのだ。


 グチュグチュ。


 自分に突き刺さった太矢の柄をよく見ると、そこには何か、液体とも固体とも言えない軟体質の触手のようなものが絡みついているのが見えた。


 ズチャリ。


 もう1度だけ、魔族の男が死体に目を向けると――死体のすぐ隣で、ズルリと盛り上がった赤い血の塊が、じっと男の顔を見返していた。



「……――」



 次の瞬間、喉にいた太い矢傷を伝って、全身の血を吸い出されるような、それとも血管の中に何か別の液体が流れ込んでくるような、経験したことのない、相容あいいれない2つの感覚が同時に襲ってきて、魔族の男の意識は、ブツリと途切れて暗転した。


 ……。


 ……。


 ……。


 シャンシャン。シャンシャン。


 死体にまとわり付いていた“何か”に襲われた魔族の男が、誰の目にも止まることなく、糸の切れた操り人形のようにガクリとその場に両膝を突いたのと、複数の鳴り鈴の音が響いたのとは、ほとんど同時の出来事だった。


 シャンシャン……シャンシャン。


 集落をぐるりと覆うように張り巡らされた鳴り鈴が揺れ、静かな音色がみだりに鳴り散らされ、その集合が不協和音と化していく。


 シャンシャン……シャンシャンシャン。


 集落の外周部の至る所で鳴り響くその鈴の音は、獣の悪戯いたずらによるものでも、魔物の気まぐれによるものでもないことは明らかだった。


 シャンシャンシャン……シャンシャンシャン。


 次第に大きく、次第に広がっていく鳴り鈴の不協和音に、自警団の魔族の男たちがじりじりと後ずさりする。


 それはまるで、狩りに興じる存在に追い込まれていく獲物の振る舞いそのものだったが、魔族の男たちの中にそのことを自覚するものはいなかった。


 シャンシャンシャン……シャンシャン……シャン……。……。


 ……。


 ……。


 ……。



「――さて……」



 ほの明るい松明たいまつの光の中に踏み入って、“王子アランゲイル”が、顔の横に手を上げる。


 そしてそれを合図に、その背後から25人の銀の騎士と、“80体のくれないの騎士”が姿を現した。


 ……。


 ……。


 ……。



「……では諸君……“狩り”を、始めよう……」



 振り上げた手が、冷たく振り下ろされた。

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