19-4 : 贈る言葉

「……兄上」



 しんと静まり返っている室内に、肩越しに振り返ってアランゲイルを見つめ返すシェルミアの、落ち着き払った声が反響した。


 謁見の間に踏み入れた兄の視界に、国王の前に立つ妹と、それに並び立っている騎士団長の姿が映る。



「……これは……」



 胸の内で、何か得体の知れないものに火がともる感覚があった。



「これは、どういうことだ……シェルミア……」



「……」



 アランゲイルのその問いかけに、シェルミアは何も答えなかった。無言の妹の、ただその視線だけが、すっと右下に流れるのみだった。



「お、王子殿下……!」



 背後に、アランゲイルに追いついた文官の焦燥した声が聞こえた。



「なるほど……貴様……貴様等……私を足止めしていたと、だましていたと、そういうことだな……」



 怒りに食いしばらせた歯をのぞかせて、屈辱にゆがんだ唇の端を震わせて、振り返った兄が文官を鋭い眼光でにらみ付けた。



「そ、そのようなことは……! 殿下をだますなどと、そのようなことは決して……!」



 顔面を蒼白そうはくにさせた文官が、全身を大げさに動かして必死に取り繕おうとする。



「こ、これはまだ、内々に約定が示されるというだけのことでありまして……! 公布に至るまでにはまだ時間が……! それまでは部外への周知はなされるべきではなく……!」



 額に浮いた汗を何度も拭きながら、早口にまくし立てる男の襟元をアランゲイルがつかみ上げると、文官は蛇ににらまれたかえるのように顔を凍り付かせて微動だにしなくなった。



「……“部外”だと……? 貴様、今“部外”と言ったな……。この私がこの場にいてはならぬ部外者だと……他の者どもと同じように、公布されるまでこれを知る必要はないと……貴様等と同じ程度の者だと……そういうことだな……!」



 アランゲイルがにらみつける先で、文官は目を大きく見開いて、何度も口を開け閉めしながら何か弁明の言葉を発しようとしていたが、余りの動揺にその口からは息の漏れる音しか出てこなかった。



「……アランゲイル」



 背後から、聞き慣れた声がした。


 記憶と呼ぶには曖昧過ぎる幼き日々の中にも聞いた、としを重ね老いの影を背負いつつある、尊い者の声。



「そのような粗野をするでない。静かにしておれ」



 その一声を聞き入れて、文官の襟元から手を離したアランゲイルが、恭しく頭を垂れた。その背後で、畏れをなした文官が、逃げるように謁見の間から出て行く気配があった。



「失礼いたしました……無礼をお許し下さい……国王陛下」



 謁見の間の玉座に座す、“明けの国”現国王。その玉座の前に並び立つ、妹と“明けの国騎士団”団長。その3人を壇上に見上げ、階下で1人頭を垂れている兄。それは何かゆがんだ、不調和の漂う光景だった。



「……お前には、今宵こよいにでも伝えるつもりでおった……」



 壇上の玉座から、国王が低い声で言った。そこには兄に対してひどく言い難がっているような、重苦しい調子がにじみ出ていた。



「先の文官が言っておったように、これはまだ内々の約定ゆえ……しかし、兄のお前に何も伝えずというのは、確かに配慮に欠ける所もあった……。不服があればこの場で聞こう、アランゲイルよ」



「いえ、私こそ取り乱しておりました。そのお言葉だけで、十分にございます、父上……」



 そして一拍の沈黙があって、アランゲイルが思い出したように口を開ける。



「ああ、しかし、そうですね……この場に相応ふさわしからざる私のような者に、物申し上げる機会をお許しいただけるのであるならば、一言だけ……」



 そう言いながら、アランゲイルがゆっくりと伏せていた顔を上げ、騎士団長と並び立って玉座の前に列しているシェルミアを見上げて、み締めるようにゆっくりと、ゆっくりと、その言葉を贈った。


 ……。


 ……。


 ……。



「――騎士団長就任、“おめでとう"……シェルミア……“可愛かわいい妹よ”……」



 ……。


 ……。


 ……。



「……ありがとう……ございます……兄上……」



 ……。


 ……。


 ……。


 絡み合った視線に堪えきれず目を背けたのは、シェルミアの方だった。


 ……。


 ……。


 ……。


 アランゲイルのそのゆがみきった笑みを直視することが、かつての兄の姿を知る妹には、耐えられなかった。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。



 ――「私はもう、人間にも魔族にも、あの日のような顔をしてほしくはないのです……。あのようなことは、2度と……」



 兄の記憶のかすみの底には、謁見の間から去っていく妹のその言葉が、今でも蜘蛛くもの巣のようにまとわりついている。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。



 ――ああ……立派なことだな、シェルミア……。



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。



 ――ならば、私は……お前に見限られた私は、一体、どうすればよかったのだ……?



 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ――。


 ――。


 ――。



「――なるほど……そして此度こたびの、王位継承権の委譲でありましたか……。あの“明星”殿の兄王子様ともなりますれば、さぞ御心労も多かりましょう……」



 ……。



「ふん……愚兄のつまらん話をこうも聞きたがるとは、奇妙な文官もいたものだ……」



 ……。



「これは勿体もったいないお言葉。解任されたる前任に代わり、お役目果たさせていただきます……“第2王子”殿下」



 ……。



「……」



 ……。



「……」



 ……。



「ふん、笑うか貴様……とんだ度胸の据わった男だな……あるいは、ただの愚者か……」



「はて、何のことでありましょうか」



 ……。



「……いいだろう……貴様とは、どうやら馬が合いそうだ……。名を聞いていなかったな」



 ……。


 ……。


 ……。



「……ボルキノフ、と申します。以後、何卒なにとぞよろしくお願い申し上げます、殿下……」



 ……。


 ……。


 ……。



 ***





 ――シェルミア……ああ、シェルミアよ……。



 ――私は……お前のことが、可愛かわいくて仕方なかったよ……。



 ――私は……お前のためなら、何だってしてやりたかった……。



 ――お前が周囲の信頼を集め、それに応えることのできる力を得ていくのが、それを見守ってやることが、私には誇らしかったよ……。



 ――シェルミアよ……。



 ――だから私は……お前が、私以上の信用と実力をその小さな身に宿していくことが、恐ろしかった……とても、恐ろしかったのだ……。



 ――だから私は……お前以上に、必死にもがいた。お前のまだ知らぬ法を学び、お前のまだ修めぬ剣術を鍛練し、お前のまだ知らぬ者たちとのつながりを作った……そうやってひたすら、醜くもがき続けたのだよ……。



 ――だから私は……血反吐ちへどを吐く思いを何度も……何度も何度も……何度も何度も何度も何度も繰り返す私の横を、容易たやすく追い越していくお前のことが……私から、私の得た物を、私しか持っていなかったはずのものを、全て奪い去っていくお前のことが……憎らしかった……。



 ――だから私は……そんな惨めな思いをしている私にだけ、兄である私にだけ、他の誰にも見せない特別な笑みを返してくるお前のことが……嫌いだったよ、シェルミア……。



 ――だから私は……私は……そんなふうにしか考えることのできない私自身のことが、何よりも憎かった……自分自身をどんなものよりも嫌悪し、殺したいほどうらめしかった……。



 ――私は……私を認めることができない……。



 ――私は……私をゆるすことができない……。



 ――私は……――



 ……。


 ……。


 ……。



 ――ああ、知っているかい? シェルミア……。



 ――お前が14になった年……お前が魔族の凶刃で、その身体に消えない傷跡を負ったあのとき……私の腕をすり抜けて、ゆっくりと倒れていくお前の姿を目にしたとき……私は、私の内なる声を聞いたのだよ……。



 ……。



 ――『ああ……これでやっと、解放される』……と……。



 ――その声を聞いてしまった私の気持ちが、お前には分かるだろうか……。



 ――最愛の妹を失う恐怖よりも、その妹からもたらされた呪縛の日々から解き放たれることを期待してしまった、兄の心のざわめきが、お前には分かるだろうか……。



 ――賢いお前には……そのときの私が感じたあの薄ら寒さを、理解することができるだろうか……。



 ――いいや、理解などできまい……理解など、されてたまるものか……。



 ――これは……“これだけは”、私のものだ……私だけのものだ……。



 ――お前には分かるまいよ、シェルミア……「私だけが知っている」という、たったそれだけの理由で、そんなおぞましい感情にさえすがり付いてしまう、愚かな兄のどうしようもなく黒い何かを……分かるはずが、あるまいよ……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――ああ、シェルミア……我が妹よ……。



 ――これは、たった1人のお前の兄からの、たった1つの忠告だ……。



 ――“明星のシェルミア”いう妹を持ってしまった、“アランゲイル”という男からの、たった一言の、呪いの言葉だ……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――“知らない方がいいよ……知らない方が……”



 ……。


 ……。


 ……。

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