19-3 : あの夏の記憶
「兄上!」
強く照りつける夏の日差しと
「シェルミア!
手甲の中で汗にふやけた指先に剣の重みを感じながら、兄が緊張した声で言った。
「っ……! 申し訳ありません、取り逃がしました……!」
細身の直剣にしっかりと両手を添え、兄たち一行を背中に
「報告にあった、街道に出没する野盗とは、連中のことか……!」
「そのようです……しかし……これは……」
とうに兄の腕を追い越した妹の構える直剣には、紫色をした
「今のが……“宵の国”の民、か…………」
地面にしゃがみ込み背中を向けていた兄が、妹の方へと首を回しながら言った。
「人であれば、そのまま絶命していてもおかしくはない傷の
街道に面した深い茂みと林の中に鋭い
真夏の木陰に潜んでいるはずの虫たちは不思議と鳴き
「……兄上」
兄を呼ぶ妹の声が、その沈黙を破った。
「分かっている。こちらの心配は無用だ」
しゃがみ込んでいる兄の腕の中で、何かがごそごそと
強い日差しを受けて、兄のものとは別に、2つの影が地面に伸びていた。
2つの影は汗ばむ日差しの中にあっても、まるで真冬の屋外に放り出されでもしたかのように全身を震わせている。右の影は口に手をやって声を殺し、左の影は硬く目を閉じて時折堪えきれずに細い声を漏らしていた。
兄はその2つの影に、かつての幼かった頃の妹の姿が重なって見えるようだった。
それは妹が騎士団と兄の指導の下に1年間の武芸の鍛練をこなした後、騎士団に籍を置いてから更に2年が
“明けの国”領内に出没し、それによる強奪と殺傷被害が報告された魔族の討伐。討伐隊として編成されたのは、上級騎士を筆頭とする
「……野蛮な連中め……」
手負いの魔族が姿をくらました方向に目をやりながら、兄が吐き捨てるように言った。
魔族の野盗は総勢5体。それを追って上級騎士の1人が部下を10人ほど引き連れて、林の中に姿を消してから幾らかの時間が
「何をもたついている……! あんなものは早々に皆殺しにしてしまえばよいのだ……!」
「……そうでしょうか……」
兄の見やる先で、妹の背中がぽつりと
「何だ? シェルミア?」
「本当に、彼らは蛮行そのものが目的の集団なのでしょうか……。私には、彼らが怖がっているようにも見えました……」
剣にべったりと付いた紫色の
「もしかすると、彼らも人間の姿を見るのは初めてなのかも知れません……。何かの理由でこの地に迷い込んで、不安を感じているのかも知れません……。私たちが今まさに、そうであるように」
「……」
妹のその
背中に
……。
――シェルミア、お前はいつもそうだな……。
――お前は昔からそうやって、粗暴な
――それがお前の、人望の源か? お前のそれに、周囲の者たちは集まってくるのか?
……。
「……兄上?」
妹が1本に結った金色の髪をふわりと揺らして、無言のままでいる兄を呼んだ。わずかに首を回しはしたが、少女の目は構えた剣先を通じてじっと前方を見やったままでいる。
「こちらの心配は無用と言ったぞ、シェルミア。お前にも思うところはあるのだろうが、今は自分たちの身を守ることを第一に考えるのだ。“敵”の身の上を案ずるよりも、自国の民の安全の方が優先だろう」
兄が発した“敵”という言葉に、妹の肩が一瞬ぴくりと震えたが、大きく息を吸い込んだ次の瞬間にはその震えは止まっていた。
……。
……。
……。
「ぎゃああぁぁぁぁぁっ!!」
林の奥から、追い立てられた動物のような悲壮な叫びが聞こえたのはそのときだった。
騎士たちが緊張した面持ちで円形の陣に広がり、互いに背中合わせに立って周囲を監視する。
少女は
青年は周囲を騎士たちに
……。
……。
……。
「ぐああぁぁぁぁっ!!」
林の中から、
その痛々しい絶叫を聞くに堪えず、妹は硬く
……。
……。
……。
そしてその後には、不気味な沈黙が降りて、夏の日差しが土を焼く音が聞こえてきそうなほどだった。
……。
……。
……。
「……始末したか……?」
兄が、ゆっくりと口を開く。
……。
……。
……。
……ガサッ。
妹の視界の中で、茂みの揺れたのが見えた。
少女がふーっと小さく息を吐き出し、全神経を集中させる。
……。
……。
……。
……ガサッ……ガサッ。
茂みが
「――ッ!」
――妹が振り向きざまに振り上げた剣が、背後の樹上から襲いかかってきた1体の魔族を斬り伏せた。
少女の
「うっ……」
男性と
騎士たちの大半は、これが初めての魔族との
その手元に確かな一太刀の手応えを感じていた妹は、その魔族の男が絶命こそしていないものの、戦闘不能に陥っていることを理解していた。倒れた魔族の方へと振り返り、直剣に付いた
「何をしている……殺せ! とどめをさせ!」
「! 待ちなさい! せめて話を――」
妹が止めに入ろうと声を上げたときには、既に倒れた魔族の男の背中に騎士たちの剣が幾本も突き立っていた。
「ぐっ……ごぼっ……!……ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……!!」
身体中をめった刺しにされながら、それでもその頑強な身体は生への執着を止めず、肺を潰され声も出せなくなった魔族の男は地面に指を突き立てて、爪が剥がれるのも構わずにガリガリと土を引き
その凄惨な、声にならない断末魔の姿を目にして、妹は思わず手で口を覆い、目を背けずにはいられなかった。
……。
……。
……。
魔族の男の身体からふっと力が抜けて完全に動かなくなるまでに、それから更に数分の時間がかかった。
魔族の男の生命力の強さとその壮絶な最期を前にして、騎士たちの間に見えない動揺が広がっているのが
「……よくやった……」
背けた視界の外から、兄のその声が妹の耳に届く。
「よくやってくれた。異邦の賊は、粛正された。残りも全て、処分するのだ」
……。
その声の主を死角に追いやっている少女が、青年の顔の皮一枚下に浮かびかけている、薄ら笑いの影を見ることはなかった。
対して兄は、目を背けている妹がその拳を固く握りしめている姿を、はっきりと目に焼き付けていた。
……。
――シェルミア……何を悔やんでいる……何に怒っている……。私たちは、この国に害を成す異形を処理しただけだよ……私たちは、何も間違ってなどいないのだよ……妹よ……。
……。
……。
……。
……ガサッ。
そして何度目かの、茂みが揺れる音がした。
騎士たちが魔族の男の身体に串刺しにしていた武器を引き抜いて、一斉に音のした方向へと各々の武器を向ける。剣を下ろし握り拳を作っていた妹も、再び剣を構えないわけにはいかなかった。
そしてガサリと一際大きな音を立てて、
張り詰めていた周囲の空気から、ほっと
「……賊はどうなった?」
帰還した上級騎士に、兄が問いかける。
「2体の死亡を確認。他の2体が弓傷を追って逃亡したため、それの追撃に手間取っていました」
上級騎士が、手に持っていた麻袋を地面にどさりと置きながら言った。
「対象の2体は追撃の過程で渓谷に自ら身を投げました。残念ながら、“処置証明”を獲得するには至りませんでしたが、使用した矢は毒矢の上、この地域に走っている渓谷の底は枯れています。万に一つも生存の可能性はないでしょう」
報告を上げる上級騎士が“処置証明”と言いながら指さした2つの麻袋の結い口からは、髪の毛のような物が
「皆、御苦労だった」
銀髪の双子を同行の騎士に預け、兄が
「これで処分が完了した魔族は5体……これで全部の
「報告では、野盗の数は5体で間違いありません」
「よろしい……」
討伐任務が完了し、
ただ1人、剣を持った手をだらりと下げて
「シェルミア、礼を言うよ。お前がいてくれたお陰で、我々は全員無傷で王都に帰還できる。それに……どこから迷い込んできたのか知らないが、子供たちを助けることもできた」
少女の肩に手を置いて、青年は優しい声音で言った。
兄には、妹が戦闘の空気に当てられて動転しているのが分かった。
――ああ、シェルミア……幾ら武の才能に恵まれていたとしても、お前はまだ若すぎる……。
――でも、心配はいらないよ。私が、ついているからね。
同じ環境に生まれ、同じ場所に住み、ずっと一緒に育ってきた、たった1人の妹。その妹が感じている痛みを、苦悩を、理解できない訳がなかった。
その
……そうであって、欲しかった。
「……」
妹が、肩を振って、兄の手を振り払った。
「……どうした、シェルミア……?」
妹に振り払われた手を所在なげに伸ばしたまま、兄が静かに問うた。
「……。……。……野蛮なのは、どちらなのでしょうか……残酷なのは、どちらなのでしょうか……」
苦悩の表情を浮かべながら、少女が片手で頭を押さえる。
「……私には、分からなくなりそうです……兄上……」
妹のもう片方の手に握られたままの剣が、ふるふると震えていた。
「……シェルミア――」
「すみません……少し、1人にさせてください……」
兄の言葉を遮ってそれだけ口にした妹は、帰還の準備を進める騎士たちとは距離を空けて、どこへともなくふらふらと歩を進め始める。
……。
……。
……。
……ガサッ。
茂みの揺れる音がしたのは、そんなときだった。
「なっ……!」
兄が声を上げるよりも先に、
「シェル――!」
「っ!!」
飛び出した影が少女と交差した瞬間に飛び散った血の色は、紫色をしていた。
兄の声を聞くより先に、理性が危機を悟るより先に、武芸の染みついた身体が、本能そのものが剣を振り、妹は襲いかかってきた“敵”を討ち払っていた。
ドサリと地面に落ちた“敵”に、絶命の一撃が入ったのが分かった。
妹の
――“おにいちゃん”。
魔族の幼い少女は、声の出ない口をぱくぱくとその言葉の形に動かして、息絶えた。
「あ……!」
それを見てしまった妹が、凜々しく結んでいた硬い表情を崩して、かつて花を傷つけてしまったと泣いていた小さな少女と同じ声で、か細い叫び声を上げた。
……。
……。
……。
「あ゛あ゛ア゛あ゛ぁ゛ぁ゛ァ゛ァ゛ぁ゛ァ゛っ!!!!!!」
聞く者を呪うようなその絶叫を上げたのは、処分されたと思われていたはずの魔族の男だった。
めった刺しにされたその身体で、
「……っ……」
妹の青ざめた唇の端から、真っ赤な血が細い筋となって流れた。
兄も、騎士たちも、その場に居合わせた全ての人間が、ただの一声も上げず、上げることもできず、上げるよりもずっと先に、各々が
「…………」
そして、兄と騎士たちの誰の剣が届くよりも先に、少女の突き下ろした剣が、魔族の男に正真正銘の最期の一撃を与えた。
「…………」
駆けつけた兄が
「…………」
「シェルミア……!」
兄が伸ばした腕をすり抜けて、気を失った妹の身体が、ふわりと地面に倒れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます