19-2 : 兄と妹

「お兄様」



 扉をたたく静かな音がして、それに続いて兄を呼ぶ少女の声が私室の外から聞こえた。



「ん? シェルミアかい?」



「はい」



 燭台しょくだいともしたあかりを頼りに書物を読んでいた兄が顔を上げ、扉に向かって語りかけると、その向こうから妹の鈴のように美しい声が応えた。



「こんな夜遅くにどうしたんだい? もう眠らないと、朝が起きれなくなってしまうよ」



「はい、分かっています、お兄様」



 ……。


 それだけ言った後、しばしの沈黙があったが、兄には扉のそのすぐ向こうに立っている妹の息遣いが分かるようだった。幼かったかつての姿の上に女性らしさが宿り始め、活発で力強く、そして多感で繊細な少女の姿が、扉を透かして見ているかのようにはっきりと脳裏に浮かんだ。



「少し、お話ししたいことがあるのです。開けていただいても、よろしいでしょうか?」



 言葉の一語一語が、正しい抑揚と正確な発音で紡ぎ出され、それらがつながり、一連の美しい節となる。王城内で施される教育の賜物たまものだった。



「ああ、構わないよ。鍵は掛かっていないから、入ってくるといい」



「ありがとうございます、お兄様」



 いつもすぐそばで寄り添いながら大きくなってきたのに、こうして姿を遮って耳だけで聞いていると、お前の声は実の妹とは思えないほど美しいのだね――私室の扉が開き、少女の姿が燭台しょくだいあかりの下に現れるまでのわずかな間、少年は心の内で感嘆しながらそうつぶやいていた。


 少女は、長く伸ばし始めた金色の髪を1本の三つ編みにして、それが首にかからないように頭の後ろに小さくまとめていた。あおい瞳は下手な宝石よりも美しく、じっと見つめていると吸い込まれそうで、足下がふらついてしまうほどだった。白い肌は陶器のようで、そこには生を受けてから1度も傷を負ったことなどないとでもいうような、触れることを躊躇ちゅうちょさせる神秘さがあった。


 少女の着ている白無地の綿のドレスは、装飾も刺繍ししゅうも最低限の簡素な作りをしていた。少女は普段から飾り気の少ない服飾品を好んだが、その抑えられた装飾性が彼女の地の魅力をかえって引き立ててさえいた。


 妹のその聡明そうめいな顔立ちと、着飾らない美しさは王城内でもここ数年で一気に評判になっていた。市井の暮らしぶりを見たいと城下じょうかに降りることも多くなり、王都市民からも慕われているといった話も兄の耳にはよく入ってきていた。


 兄にとって、それは喜ばしいことであり、また誇らしいことでもあった。やんちゃで泣き虫だった妹が周囲に認められていくことを祝福しない理由など、あるはずがないのだ。


 ……。



 ――「妹姫様は、日に日に御立派になられておいでね」



 ――「いずれは“明けの国”を善き光の下に導かれるお方になられるでしょうね」



 ――「両陛下も喜んでおいででしたわ」



 ……。



 ――「兄王子様にもその才が宿っておいでであれば、言うことはなかったのでしょうけれど……」



 ――「そうね……王の素質が長子に継がれているのであったなら、国王陛下も頭をお痛めになられることもないでしょうに……」



 ……。


 周りの大人たちは、僕と妹の一体何を比べているのだろう。


 時折背後から聞こえてくる、王城内の声。そこに含まれる意味について、兄は無意識の内に考えないようにしていた。


 妹は確かに賢く、周囲に裏表なく接することのできる花のような存在だった。



 ――でも、僕はシェルミアのお兄さんだよ?



 ――僕の方が、シェルミアよりもいろんなことを知ってるんだよ?



 ――僕の方が、シェルミアよりも身体が大きいんだよ?



 ――勉強だって、毎日夜遅くまでしてるし、僕がシェルミアに教えてあげたりもしてるんだよ?



 ――騎士団に剣の稽古をつけてもらっているし、僕の方がシェルミアよりも強いんだよ?



 自分と妹に、どんな違いがあるのか、どこが違っているのか、兄には分からなかった。


 しかしそこには確かに、何か目には見えない、言葉に表すことのできない違いがあるのだと、兄は思い知らされる。実の兄でさえ、少女を前にするとその開花しかけている“何か”の前に、思わず言葉を失ってしまうのだから。



「お兄様?」



 少年の私室の入り口に立った妹が、口を噤んでいる兄の姿を不思議そうに見つめていた。



「あ、ああ……ごめんよ、シェルミア。少しぼぉっとしてしまっていたみたいだ」



「ふふっ、夜更かしをしているからですよ、お兄様」



 そう言いながらくすりと笑う妹の笑い顔は、年頃の少女そのものだった。


 兄は知っている。その笑みには、妹が幼かった時分に兄の後ろをひなのようについて回っていた頃の面影が残っているということを。それは血を分けた兄妹の間にだけ交わされる、特別な親密さの込められたものだということを。



「そうだね。もう今日はこれでおしまいにしよう。それで、話というのは何なんだい、シェルミア?」



 読んでいた書物を閉じながら、兄が用件を尋ねると、妹はわずかに目線を下げて、言いにくそうにもじもじとした。



「? どうかしたのかい?」



 言いよどんでいるその姿までも愛らしく思いながら、兄が掛けていた椅子から立ち上がる。ゆっくりと妹の前に歩み寄り、少年はその頭を2度3度と優しくでた。


 妹は幼い頃から、兄にそうされるのをとても喜んだ。今年で11になった妹は、周囲から向けられる視線の前に、努めてその期待に応えるよう振る舞っていたが、どんなに王族らしくあろうとしても、少女であることに変わりはない。


 その小さな身体に大人たちが望んでいるものは、重すぎる。



「大丈夫だよ、シェルミア。僕たちは兄妹なんだから、何も気兼ねなんてしなくていいんだよ」



「……はい……」



 兄に頭をでられながら、妹は頭を軽く下げ、心地よさそうにまぶたを閉じた。


 妹が自分から言葉を発するまで、兄は黙って寄り添い、少女の金色の髪に優しく触れていた。


 ……。



「……お兄様」



 親密な沈黙がどれほどか続いた後、妹が静かに口を開いた。



「お願いがあるのです」



「うん」



 兄が妹の頭から手をどかすと、少女は少年の目をじっと見上げて真剣な顔つきと言葉で続けた。



「……。……。……私に、剣を教えて頂きたいのです」



 燭台しょくだいともされたあかりが、自身の熱でゆらゆらと揺れていた。


 ……。



「随分と急な話だね」



 兄の薄茶色の瞳が、妹のあおい瞳をじっとのぞき込む。



「そう、でしょうか」



 妹の流れるような言葉の連なりが途切れ、喉に引っかかるようにぎこちなくなった。



「シェルミア、お前はまだ11になったばかりじゃないか。それに、女の子が剣なんて、持つものじゃないよ」



 少女の口からそんな話が出てくるとは考えもしていなかった兄は、少なからず動揺していた。妹の華奢きゃしゃな手が剣を握っている様など、想像することもできなかったし、夢にも思えないことだった。



「……いけませんか? お兄様」



 少年の目を見つめ返す少女の瞳は、ほんのかすかに揺れていた。


 兄は、自分がひどく不快で不安な気分になっていることを自覚していた。「そんなことは、そんな危ないことは、駄目だ」と、正に喉元から声が出かかった。


 しかし、妹が口を開くまでの間、話を切り出すべきかどうか悩んでいた様子を思い返すと、兄はその言葉をみ込むしかなかった。恐らく扉の前に立つまでに、もっとずっと長い時間、少女は悩んでいたはずだった。そしてその末に、兄を信じて、少女はそれを口にしたのだ。


 そんな少女の苦悩と願いと信頼を、少年は、兄は、むげにすることなどできなかった。


 血を分けた妹の願いを、聞いてやりたかった。


 いや、そう思った時点で、兄は妹の申し出を受け入れるつもりでいた。


 しかし――。


 兄が、妹の両肩に手を置いた。



「シェルミア――」



 しかし、ひとつだけ、確かめておかなければならない。



「――誰かに何か、言われたのかい?」



 ……。


 ……。


 ……。



「いいえ」



 少女が、はっきりとした声音で、よどみなく答えた。



「私が、自分で決めたことです。私に剣を、教えてください、お兄様」



 ……。


 燭台しょくだいあかりに誘われてきた1匹のの羽ばたく影が、兄妹の小さな2つの影に重なる。


 ……。



「……分かったよ、シェルミア」



 妹の肩に置いていた両手をそっとどかして、納得するように兄が言った。



「本当は、危ない真似まねはしてほしくないのだけど、お前は1度そうすると決めると譲らないものね」



「ありがとうございます、お兄様」



 妹のほっとしたような顔色を見て、兄も優しく微笑ほほえみ返す。



「それじゃあ、時期を見て稽古をつけてもらうよう、指導官には僕から頼んでおこう」



「よろしくお願いします」



「余り厳しくしないでやってくれとも、言っておかないとね」



「ふふっ」



 少女が笑うと、それだけで部屋のあかりが一段明るくなるようだった。



「さて、もういい加減眠らないといけない時間だ。本当に明日起きれなくなってしまいそうだよ」



 寝室に引き揚げる準備をしようと、少年が机と本棚の整理を始める。



「そうですね」



 その背後から、少女の鈴のような声が応える。


 ……。



「お兄様」



 妹が、兄を呼んだ。



「何だい、シェルミア?」



「ふふっ」



 振り向いた兄に向かって、妹がうれしそうに笑顔を浮かべる。



「お兄様、本当のことを言うと、今日は“2つ”お願いがあって来たのです」



「ん? そうだったのか。それならすぐにここを片付けてしまうから、それまで待ってくれるかい?」



 そう言う兄をじっと見つめながら、妹は両手を後ろに回して、にこにこと微笑ほほえみながら首を横に振った。



「いいえ、大丈夫です。あと1つの方のお願いは、もう聞いてもらいましたから」



 そう言いながら、少女は右手を自分の頭にやった。


 それを見て、少年は思わず口許くちもとをふっと緩めた。



「さあ、もう寝ないとね、シェルミア」



「うん。またね、お兄様」



 ……。


 ……。


 ……。


 その夜、普段より遅くに床に着いた兄は、それでもうまく眠ることができなかった。


 ……。



 ――何だろう、これ。



 ……。



 ――何で僕は、シェルミアが「剣を習いたい」と言ったとき、あんなに胸がざわざわしたんだろう。



 ……。



 ――何で僕は、シェルミアを心配するより先に、「嫌だな」なんて思ったんだろう。



 ……。



 ――僕は、何を“嫌だ”と思ったんだろう。



 ……。



 ――僕は、シェルミアに何を“とられちゃう”と思ったんだろう。



 ……。



 ――分からないや。



 ……。



 ――でも、よく自分で決めたね、シェルミア。



 ……。



 ――父上も心配するとは思うけど、きっとそれ以上に、お前がそう決めたことを喜んで下さると思うよ。きっと、褒めて下さると思うよ。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――僕も……。



 ……。


 ……。


 ……。



 ――僕も、シェルミアみたいに、褒めてもらいたいだけなのに……。



 ……。


 ……。


 ……。


 横になって目をつむりながら、兄は妹のあおい瞳の輝きを思い返していた。


 妹が目線を右下に下げるときは、決まってうそいているときだということを、努めて考えないようにしながら。

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