第3部 : 「黄昏」編

侵攻戦線(前編)

19-1 : 幼き日々

「おにいさまぁ!」



 幼い少女が長いスカートの裾を持ち上げて、石畳の回廊の脇から、緑の茂る庭土にわつちの上へとピョンと飛び降りた。



「あ! こら! いけません!」



 髪をきつく結わえ付けた教育役の女が、幼い少女の背中に向かって堅い語調で叱るように言った。



「きょうの おべんきょうは おしまいでしょ? せんせえ。わたし なんにも いけないこと してないもの! いーだ!」



 教育役の女の方をさっと振り向くと、幼い少女はぐっと歯をみ合わせて顔面をくしゃくしゃにしながら言った。横に広く開けられた口からは、まだ抜け始めてもいない乳歯がのぞき見えた。



「ま! 一体どちらでそんな真似まねを覚えてきたのですか! はしたのうございますよ!」



 幼い少女の均整の崩れたその表情を見て、教育役の女は飛び上がる勢いで驚いて、目を丸くした。



「ふんだ! しらなーい!」



 そして幼い少女は教育役の女にさっと再び背を向けて、庭土にわつちの上を元気に駆けだした。その目の見つめる先にいる、1人の人影に向かって。



「おにいさまぁ!」



 スカートの裾の端を泥に汚しながら、幼い少女が勢いよく跳んで、兄と呼ぶ少年の胸に全身で飛び込んだ。



「おっと」



 幼い少女よりも一回り大きな体格をした少年が、飛び込んできた幼い妹の柔らかく温かい身体をしっかりと受け止める。



「そんなに走っちゃ、危ないじゃないか」



「へへぇー。だいじょうぶ! おにいさまが うけとめてくれるもの!」



 優しく諭そうとする少年の胸に顔を埋めて頬をこすりつけながら、幼い少女が甘えるように言った。


 そんな妹の細く繊細な金髪の頭をでてやりながら、少年はゆっくりと言葉を続ける。



「ダメだよ。ほら、先生だって怒ってる」



「えー、なんでー? おにいさまぁー」



 少年にでられながらその頭を上げた幼い少女は、何故なぜそんなふうに言われるのか分からないという顔で、不満そうにぷくっと頬を膨らませて見せた。



「だって、見てごらんよ」



 そう言いながら前方を指し示す少年の指先を追って、幼い少女が後ろを振り返る。


 兄が指さした先には、庭土にわつちの上を駆け回った妹の足で踏み荒らされた花壇があった。その中で、開きかけの若いつぼみを頂く花が幾つか、その茎からぽっきりと折れて土に頭をつけていた。



「あ……」



 それを見た幼い少女が、胸から絞り出されたような、悲しむような息を漏らした。


 やがてその場に立ったままになっている兄妹の下に、正規の順路を回ってきた教育役の女が追いつく。



「いけませんと、私は言いましたよ。ま! 泥だらけではありませんか!」



 教育役の女は幼い少女の汚れた服を見て、再び驚きの声を上げた。そしてその場にしゃがみ込み、教え子と同じ高さに視線を落として、心配するような声で続けた。



「あの花の葉には、硬いとげがあるのです。お怪我けがをされては大変です。どこか痛むところがありますか?」



 教育役の女の目線をじっと見つめ返しながら、少年の胸にぎゅっとしがみつきながら、幼い少女は少しの間、口を噤んで何も言わなかった。


 そして――



「……」



 ――兄と教育役の女に囲まれて、幼い少女はぽろぽろと涙を流し始めた。



「ま! やはりどこかお怪我けがをされたのですね!? 傷を見せて御覧なさい――」



「……おはな……おれちゃった……」



 幼い少女が、裾についた泥が写った手で涙を拭いながら、震える声で言った。



「お、はな……おっ、ちゃった……ご、めんなさい……かわいそう……」



「……」



 しゃくり上げながらそうつぶやく幼い少女の泣き顔を見て、教育役の女はいたたまれない表情を浮かべた。何と声をかけるべきかと考え込んで、頭を悩ませるように首をひねる。



「……」



 ぽろぽろと泣き続ける幼い少女を、何も言わずに抱き締めたのは、彼女の兄だった。



「……どこか痛いかい?」



 幼い少女が首を横に振る感触が、少年の胸の中にあった。



「花を折ってしまったから、泣いているの?」



 今度は、こくりと小さくうなずいたのが分かった。



「そう」



 兄がもう1度、妹の頭を優しくでる。



「お前はすごく元気で、それに優しい子だね。そんなお前のことが、僕はとても好きだよ。花はまた、僕らで植え直してあげようね」



 そして、泥と涙まみれになった幼い少女の顔を拭いてやりながら、少年がにっこりと優しく微笑ほほえんだ。



「大丈夫だよ、僕がついているからね。だから、もう泣かないで……――」



 そっと抱き寄せた腕の中で、妹の涙の止まるのが、兄には見なくてもはっきりと分かった。



「――ね、シェルミア……」


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