17-15 : 至高の魔法書

嗚呼ああ……人間の魔法使い様……先ほどの魔力の逆流は、とても、効きましてよ……体内の魔力を乱され、かれる、あの感覚……えぇ、とてもとても、しびれました……」



 魔女が両手を顔に添え、高揚に頬を赤らめる。



「あの地獄の業火に焼かれるような……精神そのものを犯されるような……自分の肉体が生存していることをいっそ恨むほどの、この世のものではない苦しみ……先ほどの瞬間は、さすがのわたくしも、いっそ死んでしまいたいとさえ思いましたわ……。そんな感覚は、数百年振りに味わいましてよ……うふふっ」



 そして、魔女の目が、見えている目と見えざる目とを問わず細められ、冷酷な光を放った。その目には、醜態をさらしたことへの屈辱の色がにじみ出ていた。その冷たく細められた目とは対照的に、口元はニコリとした笑いでり上がり、そこから魔女の美しい声がこぼれ出る。



「……嗚呼ああ……貴様たち……生きては帰しません……その醜い魔力の波動で、このローマリアを犯し乱したこと、地獄の底で悔やみなさい……」



「む……いやはや、西の四大主……宵の国の叡智えいちが集う“星海の物見台”をたった1人で預かるだけのことはある……まさに“魔女”の異名に恥じぬ業……」



 魔法使いのおさが、畏敬の念を込めてつぶやいた。



「うふふ……それはどうも……」



 ローマリアが嘲笑に口元をゆがめる。しかしその目は、冷酷な光を宿したまま、一切笑ってはいなかった。



「ときにその右目……“三つ瞳の魔女”の異名を頂く、その右目……この塔の記録を読めると見た」



「あら……あらあら、まぁ」



 ローマリアが、感心したように「まぁ」と口を開け、その口元を手で覆い隠した。



「魔族の女の精神を犯してよろこぶ酔狂者とばかり思っていましたけれど……なかなか洞察力がおありなのですね」



 魔女がクスクスと笑う中、その何も見えていない右目がキョロキョロと左右に揺れた。



「ええ、御明察ですわ……。この右目は、“記憶”を読むことができますの……。脳の中に眠る記録、わたくし自身が忘却してしまった記録さえ、この右目は読み取りますわ。“この塔の蔵書をすべて読んだ ”、わたくし自身の記憶を読み出す目……つまり――」



 ローマリアが、自分のこめかみを指先でトントンとつついた。



「宵の国の魔法の記録は、すべて“ここ”にありますの……“星海の物見台”は、補助の記録装置に過ぎません……」



「ぬし自身が、至高の魔法書ということか……」



「ふふっ。いかがですかしら? 大切に扱う気になってくださいまして?」



「何を言う……むしろ逆じゃ」



 数人の弟子たちと並び立ち、魔法使いのおさが厳しい目を向けた。



「宵の国の魔法をすべて知る者……“星海の物見台”を独占する者……そんな存在は、明けの国にとって……いや、宵の国にとっても危険過ぎる……何としてもその記憶、ぬしごと葬り去らねばなるまいて」



 長のその言葉を聞いて、気がたかぶったローマリアは、頬をますます紅潮させ、両目をギョロリと丸く見開いた。



「……アはっ。素敵ですわ……えぇ、やって御覧なさい……足掻あがいてみせなさい……わたくしを、たのしませてくださいまし……」



 興奮で声を上擦らせ、ローマリアが悩ましげな吐息を漏らした。その姿はどうしようもなく妖艶で、そしてどうしようもなく狂おしく、猟奇的だった。



「ゆけぃ」



 魔法使いのおさが、並び立つ弟子の1人に告げた。


 1人目の弟子は、手に水晶を磨いてとがらせたナイフのようなものを持っていた。水晶のナイフを螺旋らせん階段に突き立てて、弟子がその場にひざまずき、何かに祈るような仕草をとって詠唱を開始する。


 祈りの詠唱がとなえられるにつれて、水晶のナイフが氷の結晶のように成長していった。やがてその成長した部分は花のつぼみのような形状となり、それが開いた瞬間、周囲が結晶に包まれた。騎士と魔法使いが押し寄せている位置よりも上階の螺旋らせん階段と書架に結晶が浸食し、透明度の高い鉱石の中に、それらを閉じこめていく。



「うふふ……結晶化の術式……嗚呼ああ綺麗きれいですわね……」



 結晶化していく螺旋らせん階段と書架もろとも、その内部に閉じこめられる寸前のところで、ローマリアが瞬間転位し、結晶化の及んでいない上階から魔法使いたちを見下ろした。



「わたくし、結晶術式は好みですわ。術式によって生じる結晶の色・透明度・形状……それらには術者の精神が映し出されます……。ふふっ、人間の術者が紡ぐ結晶も、美しいものですわ……ですけれど、すこぉし、濁りとひずみが目立ちます……貴方あなた、心がざわついていますわね。ふふっ」



 ローマリアの言葉を聞いて、結晶使いがピクリとわずかに動揺した。



「魔女の言葉に耳を貸すでない。一瞬でよい、魔女の動きを封じよ、できるな?」



 おさが弟子の肩に手を置きながら言った。



「お任せを、我が師よ」



 結晶使いが、更に深い祈りに没入していく。それと同時に、指にめられた“魔力連結の指輪”が淡く輝き、500人分の魔法使いの魔力によって増幅された結晶化の術式が――。


 パキンッ。


 ――はるか上層にまで続く大螺旋らせんの、およそ半分を結晶の中に飲み込んだ。



「ふふっ……うふふっ……」



 ローマリアのなまめかしい笑い声が聞こえる。結晶が浸食していく中、その声は先ほどと同じ位置から聞こえてきていた。



嗚呼ああ、素晴らしいですわ……結晶化の術式を、一途いちずに、ここまで練り上げたこと、賞賛に値します……」



 ローマリアの足首にまで浸食した結晶が、魔女の転位を阻み、その場にくぎ付けにしていた。



嗚呼ああ、本当に、綺麗きれいな結晶ですわね――」



 足首を飲み込み、更にふくらはぎ、太股ふとももへと浸食を進めてくる結晶を見やりながら、ローマリアがうっとりとした声を漏らした。


 そして、魔女の右目が、塔の記憶を読み上げる。



 ――第2530番書架、中央段、右から7冊目……「共鳴する破砕術式」。



 ローマリアの手に1冊の魔法書が転位し、次の瞬間、それはボロボロに朽ち果てた。



「――壊してしまうのが、惜しいほどに……」



 パリンッ、と楽器のような美しい破砕音が響き、ローマリアの周囲の結晶が粉々に砕け散った。空中に舞い上がった結晶の微粒子が、塔の最上層の天窓から降り注ぐ陽光に照らされて、幻想的に光り輝き、舞い散っていく。



「残念でしたわね、結晶使いのお方?」



「いいや……私の役目は、十分果たせた……」



 容易たやすく自身の結晶化の術式を砕かれた結晶使いだったが、その言葉には使命を果たした者の声音が含まれていた。


 ローマリアの背後、木製の書架から無数の植物のつたが伸び、魔女の四肢を絡め取ったのは、その直後のことだった。



「……あらあら」



 絡みつくつたがローマリアの両腕を書架に縛り付け、両脚をがんじがらめにする。つたの成長はそれにとどまらず、魔女の二の腕・わき・肩と絡みつき、更に太股ふともも・腰・胸部へと伸びて、みるみる内にその華奢きゃしゃな身体を締め上げていった。


 ギシリ、ギシリと、つたがローマリアの身体に食い込む音が聞こえる。



「……あっ……はぁ……」



 胸部に絡みついたつたに肺の空気を締め出され、ローマリアが甘い吐息を漏らした。



「……ふふっ……宿り木の、術式、ですわね……あっ……いけませんわ……そんなにきつく、縛っては……んっ……跡になって、しまいます……ふふっ……」



 ローマリアが、からかうように、誘惑するように、挑発するように言った。



「……魔女め……! そのままへし折れるがいい……!」



 2人目の弟子、宿り木使いが、ローマリアの言葉を挑発と受け取って、“魔力連結の指輪”をめた拳を、顔の前に突き出してグッと強く握った。それに呼応して、魔女の身体を締め上げる宿り木が、ギシリギシリと更にきつく絡みついていく。



「……うふふ……嗚呼ああ、意地悪な、お方ですわ……そんなに、激しくしては、いけませんと、言って、おりますのに……」



 宿り木は数を増し、既にローマリアの姿はほとんど隠れて見えなくなっていた。絡みついたつたの隙間から、魔女の顔の右半分がわずかにのぞき見えるだけになっている。



れ言を……!」



 宿り木使いが、顔の前で両手を握り合わせ、力を込めた。“魔力連結の指輪”の輝きが、強くなる。


 ギギギギ、とローマリアの骨のきしむ音が聞こえ始める。



「……うふっ……いいえ、所詮は、不埒ふらちでいけない、お遊びのような、もの、ですわ……」



 宿り木の隙間から垣間かいま見えるローマリアの右目が、ギョロリと宿り木使いの方を向いた。



 ――第583番書架、下段より2列、中央54冊目……「枯死の蟲の術式」。



 魔女の右目の見つめる先に、魔法書が転位し、空中でさらさらと灰になって消えた。


 それと同時に、無数に絡みついていた宿り木がしぼみ、枯れ果て、ボロボロと自壊していった。



嗚呼ああ、残念ですわ……もっと優しく、丁寧に縛ってくださいましたら、お互いにもっと、たのしめましたのに……うふふっ」



 ローマリアが、嘲笑を浮かべる口元を手で隠そうと右手を挙げたとき――その動作が、不自然に途中でぴたりと静止した。

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