17-2 : 貴方と出逢った日

 ――同“大断壁”、“螺旋らせんの塔”。


 ――400年前。


 研究室から降りてきたローマリアが、螺旋らせん階段に沿って立ち並ぶ膨大な数の書棚を、手でなぞりながら歩いていた。


 生まれ持った転位魔法系統との親和性の高さから、“宵の国”での魔法研究の最高峰“螺旋らせんの塔”にあって、“翡翠ひすいのローマリア”の名を知らぬ者はいなかった。


 今や、螺旋らせんの書棚の一角を成す転位魔法の書棚の蔵書のほとんどは、ローマリアが書き記したものとなっていた。


 ほこりひとつなく磨き上げられた書棚に、手をわせながら歩くローマリアが、ふっと足を止める。



「……」



 顔をうつむけて、少しだけ戸惑った表情を浮かべたローマリアが、意を決して、恐る恐る、治癒魔法の書棚に手を伸ばした。



「……」



 治癒の魔法書の背表紙に、か細く繊細な白い指先が触れようとした瞬間、ローマリアは思い直して手を下げた。



「……いけませんわね。未練がましいですわ」



 細いめ息をつきながら、ローマリアはそう自分に言い聞かせていたが、治癒魔法の書棚の前から、魔女はなかなか離れることができずにいた。


 ……。



「ローマリアさぁん!」



 いつの日だったかのように、階下から彼女の名前を呼ぶ声があった。ひとつ違う点といえば、それは年老いた魔法使いの声ではなく、若い魔族兵見習いの男の声であることだった。



「……はぁ……性懲りもなく、またここに来ましたのね。あの男……」



 その男は、長い長い螺旋らせん階段を駆け足で上がってきた。



「はぁ……はぁ……ロー……マリア……さん……はぁ……はぁ……」



 全力で駆け上がってきた男は、両膝に手を突いて、息切れを起こして肩を激しく上下させていた。



「……貴方あなたも諦めの悪いお方ですわね。何度いらしても同じことですわよ?」



 ローマリアが額に指を添えて、「やれやれ」と頭を振るう。



「そんなぁ……。ローマリアさん、俺にも魔法、教えてくださいよ……。俺をこっちに転位させたの、ローマリアさんでしょ……?」



 男が顔を上げて、懇願するようにローマリアを見た。上がっていた息は、もう既に落ち着いていた。



「確かに、貴方あなたをこちらに転位させたのはわたくしですけれど、ただそれだけのことですわ。今回のわたくしの研究内容――異界からの魂の転位――のまとに、たまたま貴方あなたが当たったと言うだけのこと。貴方あなたに対する興味なんて、貴方あなたを転位させた時点でせていましてよ」



 ローマリアのその言葉を聞いて、男は上げていた顔をがくりと落とした。その肩に向かって、ローマリアが更に畳みかける。



「その研究も、貴方あなたを転位させたことで粗方終わりましたわ。後は研究内容を魔法書に書き起こせば、いよいよ貴方あなたはわたくしにとって用済みですわ。これからは魔族として、貴方あなたの生きたいように生きればよろしいのではなくて?」



「だから……俺はやりたいようにやりたいんですよ、魔法が使えるようになりたいんですって……!」



 そう言って男は、真横に並ぶ書棚にずいっと手を伸ばして、手近な魔法書を手にとって開いた。


 開いたページを男は凝視したが、“宵の国”の文字が読めない男は、すぐに自分の無力にうなだれた。



「……っ。うぅ……何が書いてあるのかさっぱり分からない……。表題も読めないんじゃ、話にならな――」



 そして男は、横から向けられている視線を感じた。


 男が書棚から横を振り向くと、螺旋らせん階段の数段上からローマリアが首を伸ばして、男が開いた魔法書の中身を凝視している姿があった。



「……ローマリアさん?」



「……えっ。あ、あら、これは失礼」



 ローマリアは慌てて取り繕ったが、その瞳だけはしきりに男が手にした治癒の魔法書に向けられていた。



「……」



 何かを察した男が、さっと魔法書を横に動かした。


 ローマリアの目が、それを追って横に動いた。


 男がさらに、反対方向に魔法書をやる。ローマリアの翡翠ひすい色の瞳が、それを追いかけてくるくると左右に揺れた。


 男が何かを確かめるように、おずおずと開いた治癒の魔法書をローマリアの顔に近づける。ページをのぞき込むローマリアの目が、とても興味深そうに見開かれた。


 パタン。


 そこまで確認し終えたところで、男は治癒の魔法書を閉じた。



「……あっ」



 開かれていたページを読み終えるより先に本を閉じられてしまったローマリアが、思わず声を漏らす。そしてばつが悪そうに口元を手で隠して、コホンと小さくせき払いした。



「……ローマリアさん、この魔法書読みたいんですか?」



 男が、ローマリアに尋ねる。



「え、えぇ……魔法の探求者たるもの、魔法書に興味がないはずがありませんわ」



「なるほど。ローマリアさんは、この書棚の魔法書に興味があるけれど、何かの理由で読むことができない……いや、触ることができない、ってことですか?」



 男に的を突かれたローマリアが、一瞬目を泳がせた。そして観念するように、「ふぅ」と細いめ息をついて、口を開く。



「……当たらずとも遠からず、ですわ。えぇ、大体は貴方あなたの推測通りでしてよ。わたくしは体質的に、治癒の魔法書に触れることができませんの」



 異界転位してきて以来、ことあるごとにローマリアの下に「魔法を教えてくれ」とせがんでくる男。そのたびに男のことを散々こけにしてきたローマリアが、“お笑いになればよろしいわ”と自嘲気味に言おうとしたとき――。



「はい。じゃあ、こうすれば読めますよね?」



 男は何の含みもなく、ローマリアが読みやすい高さに本を持ち上げて、手にした治癒の魔法書の最初の1ページを開いて見せた。



「あ……。……ありがとう、ございます……」



 男が余りに素直にそうしたことが意外で、ローマリアは目をぱちくりとさせた。


 自分の手で触れることができないのなら、誰かに代わりに開いてもらえばいい――孤独に黙々と研究を続けてきたローマリアにとって、それは余りに単純で、それゆえに思いつきもしなかった解決手段だった。


 何度も何度も、学びたいと願いながら、とうとう読むことのできなかった治癒の魔法書。その念願の1ページ目が、目の前に広がっていた。ローマリアは夢中になってそこに書かれた文字を読み、喜びで鼓動が数段早くなるのを感じた。



「ゴオォォダアァァァ!」



 そのとき、“螺旋らせんの塔”の入り口から、魔族軍のおさの声がとどろいた。



「ひぇっ」



 男が小さな悲鳴のような声を漏らして、治癒の魔法書をローマリアに向けて開いたまま、肩を縮こまらせた。



「そんなところで何をやっている! 演習が始まるぞ! 不参加ならば貴様を演習の的にして、斬り捨てる!」



「は、はいぃ! すぐ! すぐ行きますー!」



 男が、慌てた様子でローマリアの方を振り向く。



「す、すみません、ローマリアさん! 俺、魔族軍の演習に行かないと……!」



「……え? あ、あらそう、そうですわね……えぇ、そのページは読み終えましたわ。もう閉じていただいてよろしくてよ」



 ローマリアが言うが早いか、男は大急ぎで魔法書を閉じ、書棚の元あった位置にそれを戻し、転がるように螺旋らせん階段を駆け下り始めた。



「……っ。お待ちなさい!」



 その背中を見やりながら、ローマリアは数秒間躊躇ためらっていたが、やがて意を決して、魔女は男を呼び止めた。



「! な、何ですか? ローマリアさん……!」



 男は相当焦っているようで、螺旋らせん階段の上で立ち止まったまま、足だけを上下に動かし続けている。



「……またおさの目を盗んで、この書棚の前に来なさい。貴方あなたに魔法を教えてなどあげませんけれど、この“翡翠ひすいのローマリア”に本を開いて見せることを許して差し上げますわ」



「! は、はい! 分っかりました! 絶対また来ます、ローマリアさん!」



 男は螺旋らせん階段の階下からローマリアに向かって手を振って、そして再び転がり落ちるような早さで“螺旋らせんの塔”を駆け下りていった。



「……ふふっ。異界転位の研究も区切りがつきましたし、もう関わることはないと思っていましたけれど、存外気遣いのできる男でしたのね。魔族軍に預けたのは、失敗でしたかしら……? ふふっ」



 “大断壁”の内部をくり抜いて建造された要塞に部隊を据える魔族軍のおさに引きずられながら、男の姿が“螺旋らせんの塔”の正門の陰に消えていった。



「……ゴーダ……その名前、覚えておきますわ。また、いらっしゃい……」

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