17-3 : 貴方と過ごした日々
――同“大断壁”、“
――300年前。
「――ふふっ」
――“
「? どうした?」
“
「いえ、何でもありませんわ……
“鐘楼”に据えられた、丸テーブルと2脚の椅子。テーブルの上にはティーポットと、茶の入れられた1対のティーカップが置かれている。
「また随分と昔の話だな」
――ペラッ。
テーブルを挟んで、ローマリアと向かい合って座っているゴーダが、湯気が上らなくなる程度に
「あら、わたくしにとってはついこの間の出来事ですわ。ゴーダ、
――ペラッ。
「……そう、だな。最近はよく、そういうことを考える。人間の精神構造のまま、100年以上の時を生きるのは、少々無理があるな」
そう言うゴーダの声には、少し弱々しさが混じっていた。この時期、ゴーダは極めて長寿の魔族の肉体に、人間の精神が追いつかなくなる現象に
「“大断壁”の要塞で部下を抱える隊長が口にする
ローマリアが、ゴーダの
――ペラッ。
ゴーダが、自嘲気味に鼻で笑った。
「手厳しいな、お前は……」
そう言うとゴーダは、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
「ここで、お前とこうしていると、とても落ち着く……」
「……そうですか……」
……。
“鐘楼”に、静かな無言の時間が流れていく。
……。
――ペラッ。
……。
……。
「――ふふっ」
ローマリアの小さな笑い声が、無言の時間を終わらせた。
「何だ、今度はどうした」
――ペラッ。
「ふふっ。“それ”ですわ」
ローマリアが、目を細めて柔らかい微笑を浮かべた。
「ん? 何のことだ?」
ゴーダは、ローマリアが何を面白がっているのか分からず、ティーカップの茶を飲みながら不思議そうに首を
――ペラッ。
「ですから、“それ”ですわ――
ローマリアが、テーブルの上に広げられた治癒の魔法書を指さして
あの日、“
「ああ、“これ”か」
――ペラッ。
「まぁ、な。お前の目の動きを見れば、大体は分かる。いや、というより……お前の読む速度というか、そう、“呼吸”だな。そういうのが、俺の身体に染み着いてしまっている。数十年も続けていれば、“俺でなくても、誰だってそうなる”」
……。
……。
再び、“鐘楼”に沈黙が下りる。
……。
……。
ゴーダが、魔法書をめくろうと、ページの端に指をかけたとき……ゴーダはぴたりとその手を止めた。
……。
……。
まだ、ローマリアはこのページを読み終えていない。ゴーダには直感的に、そのことが分かった。
……。
……。
いつまで
不思議に思ったゴーダが、手元から目を上げると――。
「……」
――ローマリアが、面白くなさそうに口を
「? どうした、今日はもうここまででいいのか?」
何の含みも持たず、ただ単純にゴーダはローマリアにそう尋ねた。
「……。そうですわね。どなただかが無粋なことを
ローマリアが、少し不機嫌そうな顔つきで、
それを見て、ゴーダは少し面白がるように
「やれやれ……お前のそれも、転位魔法の至高の魔女がとる態度ではないな、“
「ふん、何とでも
「お手柔らかに頼むよ、師匠」
「さあ? どうですからしらね? それは弟子の態度にもよりますわ」
不機嫌さの中にも親密感の漂うやりとりに、ゴーダは困った顔をして口元を緩めた。わざとらしく改まった口調で、ゴーダが口を開く。
「……では、恐れながら師匠、若輩者の物質召還の修練におつき合いいただけないでしょうか?」
軽く頭を下げたゴーダを見て、ローマリアが口に運んでいたティーカップをかちゃりと受け皿に戻し、こちらも声音を変えて言葉を返す。
「良いでしょう。
「課題はどういたしましょう?」
「そうですわね――」
そこまで言ってローマリアは、ゴーダへの課題を口に出そうとしたが、何かを思い出せない様子で、首を
「……えぇと、何と言いましたかしら? ほら、この前
「――オレンジタルト?」
「そう、それですわ」
2人の口調がそこで崩れ、元の会話に戻った。
「……せっかくの改まった空気が台無しだ」
「あら、それはお互い様ですわ」
「なるほど……」
そう言いながら、ゴーダが手を伸ばし、テーブルの中心に指を
魔方陣が淡く光り、テーブルの表面が水面のように揺れ、
「なら、これでチャラだな」
「あら、女への借りは、3倍返しでなければいけませんわ」
「ふむ……まぁ食べてみるといい」
ゴーダが手の平を向けて、ローマリアにタルトを勧めた。ローマリアが、タルトをフォークで小さく切り分けて、その一切れを口に運ぶ。
「……あら? この前のと少し違いますわ」
ローマリアが、フォークを口に運んだまま目をぱちくりとさせた。
「前のは甘すぎると言っていただろう? その方が口に合うかとね。
ローマリアは何も言わず、頬に左手を添えて、ただこくりと
「そうか。前回よりも3倍うまいのなら、やはりこれでチャラだな」
ゴーダがからかうように、肩を上げて言った。
「……ふふっ。まぁ、そういうことにして差し上げますわ。修行の成果です、
――。
「……お戻りになって?」
オレンジタルトを食べ終えてからしばらく後、席を立ったゴーダの背中に向かってローマリアが言った。
「ああ、そろそろ“下”に降りる」
“鐘楼”と“
「ゴーダ、帰る帰るー?」
ふと、ゴーダの足下で
「? 何だ? 人形か?」
「ふふっ。えぇ、最近のわたくしの趣味です。今はまだその子1人だけですけれど、数を増やしていこうと思っていますの」
「
「ふふっ、
ローマリアが椅子の上で腰を
「ゴーダ、ばいばーい」
ローマリアに抱かれた人形が、きゃっきゃと楽しげな声を上げた。
ゴーダもそれに合わせて、人形とローマリアに手を挙げて見せた。
「……じゃあな、ローマリア」
足下の転位昇降機が起動し、ゴーダの身体が青白い光に包まれる。
「えぇ、おやすみなさい、ゴーダ……また明日、ですわ」
「あぁ、おやすみ……」
***
……。
……
……。
……
……。
……いいえ、
……。
……
……。
……わたくしには、よく、分かりません……。
……。
……よく……分かりません……。自信が、ありません……。
……。
……ですから、ね? ゴーダ……わたくしは、
……。
……
……。
……
……。
……そのために、わたくしは……。
……。
……力を、欲しましたの……。
……。
……魔族の何者も、
……。
……。
***
「……ふふっ」
“鐘楼”に据えられた丸テーブルを前にして、魔女がたった1人、椅子に腰掛けてクスクスと笑っていた。
肩まで延びた
「……随分と久しぶりに、長く眠ってしまったようですわ……たくさんのことを、夢の中で、思い出しました……
独り言を漏らしながら、魔女は眼帯をつけた自身の右目を指先で
「
そう
右目の眼帯に指を
「……。……さぁ……」
魔女がゆっくりと、椅子から立ち上がった。白いローブが月光に照らされ、そのか細い四肢のラインが浮かび上がる。
「……参りましょう……」
魔女が見上げる“鐘楼”の直上には、巨大な青い満月が浮かんでいた。
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