17-3 : 貴方と過ごした日々

 ――同“大断壁”、“螺旋らせんの塔”。


 ――300年前。



「――ふふっ」



 ――“星見ほしみの鐘楼”。



「? どうした?」



 “螺旋らせんの塔”をはるか雲の下に置き去りにして、世界を巡る夜のがわを追いかけ動き続ける“星見ほしみの鐘楼”。そこはローマリアが自らの転位魔法によって築いた彼女専用の研究室であり、限られた者しか招き入れることのない私室でもあった。



「いえ、何でもありませんわ……貴方あなたがまだ、魔族兵の見習いをしていた頃を、思い出していましたの。覚えていらっしゃる? 貴方あなた、あの頃はわたくしのことを“ローマリアさん”だなんて呼んでいましたわね。それを思い出すと、つい、可笑おかしくて……ふふっ」



 “鐘楼”に据えられた、丸テーブルと2脚の椅子。テーブルの上にはティーポットと、茶の入れられた1対のティーカップが置かれている。



「また随分と昔の話だな」



 ――ペラッ。


 テーブルを挟んで、ローマリアと向かい合って座っているゴーダが、湯気が上らなくなる程度にぬるくなったティーカップを持ち上げながら言った。



「あら、わたくしにとってはついこの間の出来事ですわ。ゴーダ、貴方あなたもいい加減、魔族の時間の流れに慣れなさい。人間のように生き急いでいては、すぐに一杯になってしまいますわよ?」



 ――ペラッ。



「……そう、だな。最近はよく、そういうことを考える。人間の精神構造のまま、100年以上の時を生きるのは、少々無理があるな」



 そう言うゴーダの声には、少し弱々しさが混じっていた。この時期、ゴーダは極めて長寿の魔族の肉体に、人間の精神が追いつかなくなる現象にさいなまれていた。ゴーダが、“次元魔法”と“魔剣”を究める前夜の時代である。



「“大断壁”の要塞で部下を抱える隊長が口にする台詞せりふではありませんわ。もっと気を確かにお持ちなさい。情けないですわ、見ていられませんわね」



 ローマリアが、ゴーダのいたティーカップに茶をそそぎながら、背中を押すように言った。


 ――ペラッ。


 ゴーダが、自嘲気味に鼻で笑った。



「手厳しいな、お前は……」



 そう言うとゴーダは、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。



「ここで、お前とこうしていると、とても落ち着く……」



「……そうですか……」



 ……。


 “鐘楼”に、静かな無言の時間が流れていく。


 ……。


 ――ペラッ。


 ……。


 ……。



「――ふふっ」



 ローマリアの小さな笑い声が、無言の時間を終わらせた。



「何だ、今度はどうした」



 ――ペラッ。



「ふふっ。“それ”ですわ」



 ローマリアが、目を細めて柔らかい微笑を浮かべた。



「ん? 何のことだ?」



 ゴーダは、ローマリアが何を面白がっているのか分からず、ティーカップの茶を飲みながら不思議そうに首をかしげた。


 ――ペラッ。



「ですから、“それ”ですわ――貴方あなた、いつの頃からか、わたくしが何も言わないのに、治癒の魔法書のページをめくってくださるようになりましたわよね。わたくしがそのページを読み終える、ちょうどそのときに」



 ローマリアが、テーブルの上に広げられた治癒の魔法書を指さして微笑ほほえんだ。治癒の魔法書はローマリアの方に向けて広げられていて、その書物に触れられないローマリアに変わって、ゴーダがページをめくっているのだった。


 あの日、“螺旋らせんの塔”の書棚の前でゴーダが治癒の魔法書をローマリアの目の前で開いて以来、その役目はずっとゴーダが勤めていた。



「ああ、“これ”か」



 ――ペラッ。



「まぁ、な。お前の目の動きを見れば、大体は分かる。いや、というより……お前の読む速度というか、そう、“呼吸”だな。そういうのが、俺の身体に染み着いてしまっている。数十年も続けていれば、“俺でなくても、誰だってそうなる”」



 ……。


 ……。


 再び、“鐘楼”に沈黙が下りる。


 ……。


 ……。


 ゴーダが、魔法書をめくろうと、ページの端に指をかけたとき……ゴーダはぴたりとその手を止めた。


 ……。


 ……。


 まだ、ローマリアはこのページを読み終えていない。ゴーダには直感的に、そのことが分かった。


 ……。


 ……。


 いつまでっても、ローマリアからページを読み終えたときの“呼吸”が感じられなかった。


 不思議に思ったゴーダが、手元から目を上げると――。



「……」



 ――ローマリアが、面白くなさそうに口をとがらせていた。



「? どうした、今日はもうここまででいいのか?」



 何の含みも持たず、ただ単純にゴーダはローマリアにそう尋ねた。



「……。そうですわね。どなただかが無粋なことをおっしゃるものですから、読む気がせてしまいましたわ」



 ローマリアが、少し不機嫌そうな顔つきで、翡翠ひすい色の両目を閉じてそっぽを向いた。


 それを見て、ゴーダは少し面白がるようにめ息をついた。



「やれやれ……お前のそれも、転位魔法の至高の魔女がとる態度ではないな、“翡翠ひすい”様?」



「ふん、何とでもおっしゃいなさい。この“翡翠ひすいのローマリア”、弟子たちには厳しくてよ?」



「お手柔らかに頼むよ、師匠」



「さあ? どうですからしらね? それは弟子の態度にもよりますわ」



 不機嫌さの中にも親密感の漂うやりとりに、ゴーダは困った顔をして口元を緩めた。わざとらしく改まった口調で、ゴーダが口を開く。



「……では、恐れながら師匠、若輩者の物質召還の修練におつき合いいただけないでしょうか?」



 軽く頭を下げたゴーダを見て、ローマリアが口に運んでいたティーカップをかちゃりと受け皿に戻し、こちらも声音を変えて言葉を返す。



「良いでしょう。貴方あなたの修行の成果、師たるわたくしに見せて御覧なさい」



「課題はどういたしましょう?」



「そうですわね――」



 そこまで言ってローマリアは、ゴーダへの課題を口に出そうとしたが、何かを思い出せない様子で、首をかしげた。



「……えぇと、何と言いましたかしら? ほら、この前貴方あなたが召還した――」



「――オレンジタルト?」



「そう、それですわ」



 2人の口調がそこで崩れ、元の会話に戻った。



「……せっかくの改まった空気が台無しだ」



「あら、それはお互い様ですわ」



「なるほど……」



 そう言いながら、ゴーダが手を伸ばし、テーブルの中心に指をわせた。指先に集められた魔力によって、テーブルの上に魔方陣が描き出される。


 魔方陣が淡く光り、テーブルの表面が水面のように揺れ、ゆがみ……空間を伝わる波紋が収まると同時に、目の前にオレンジタルトが召還されていた。



「なら、これでチャラだな」



「あら、女への借りは、3倍返しでなければいけませんわ」



「ふむ……まぁ食べてみるといい」



 ゴーダが手の平を向けて、ローマリアにタルトを勧めた。ローマリアが、タルトをフォークで小さく切り分けて、その一切れを口に運ぶ。



「……あら? この前のと少し違いますわ」



 ローマリアが、フォークを口に運んだまま目をぱちくりとさせた。



「前のは甘すぎると言っていただろう? その方が口に合うかとね。如何いかがかな?」



 ローマリアは何も言わず、頬に左手を添えて、ただこくりとうなずいた。



「そうか。前回よりも3倍うまいのなら、やはりこれでチャラだな」



 ゴーダがからかうように、肩を上げて言った。



「……ふふっ。まぁ、そういうことにして差し上げますわ。修行の成果です、貴方あなたもどうぞ?」



 ――。



「……お戻りになって?」



 オレンジタルトを食べ終えてからしばらく後、席を立ったゴーダの背中に向かってローマリアが言った。



「ああ、そろそろ“下”に降りる」



 “鐘楼”と“螺旋らせんの塔”とを結ぶ転位昇降機に向かって歩きながら、ゴーダが応えた。



「ゴーダ、帰る帰るー?」



 ふと、ゴーダの足下で可愛かわいらしい声がした。ゴーダが見下ろすと、そこには小さな灰色の服とつば広帽子と手袋と靴が宙に浮いて、小人のような形に集合している物体があった。



「? 何だ? 人形か?」



「ふふっ。えぇ、最近のわたくしの趣味です。今はまだその子1人だけですけれど、数を増やしていこうと思っていますの」



茶目ちゃめっ気のあるやつだな」



「ふふっ、可愛かわいいでしょう?」



 ローマリアが椅子の上で腰をかがめて両手を広げると、人形が「わーい」と声を上げて魔女の腕の中に走り寄っていった。そのまま人形を抱き上げたローマリアが、人形の手を取って、ゴーダに向かって手を振らせてみせる。



「ゴーダ、ばいばーい」



 ローマリアに抱かれた人形が、きゃっきゃと楽しげな声を上げた。


 ゴーダもそれに合わせて、人形とローマリアに手を挙げて見せた。



「……じゃあな、ローマリア」



 足下の転位昇降機が起動し、ゴーダの身体が青白い光に包まれる。



「えぇ、おやすみなさい、ゴーダ……また明日、ですわ」



「あぁ、おやすみ……」





 ***





 ……。



 ……嗚呼ああ、ゴーダ……たった60年で、貴方あなたは他の弟子たちを、とっくに追い抜いてしまいましたわ……。



 ……。



 ……貴方あなたのその成長の早さならば、いずれ、わたくしにも追いつくでしょう……。



 ……。



 ……いいえ、貴方あなたならば、いつか遠くない日に、わたくしを追い越してゆくでしょう……。



 ……。



 ……嗚呼ああ……わたくしを追い越して、ずっとずっとその先へ行ってしまったとき、貴方あなたは、はるか後ろを歩くわたくしのことを、振り返ってくださるでしょうか……?



 ……。



 ……わたくしには、よく、分かりません……。



 ……。



 ……よく……分かりません……。自信が、ありません……。



 ……。



 ……ですから、ね? ゴーダ……わたくしは、貴方あなたに追いつかれるわけには、まいりませんの……。



 ……。



 ……貴方あなたの師で、有り続けるために……。



 ……。



 ……貴方あなたの視界の中に、わたくしが在り続けるために……。



 ……。



 ……そのために、わたくしは……。



 ……。



 ……力を、欲しましたの……。



 ……。



 ……魔族の何者も、貴方あなたにも、“淵王えんおう”陛下でさえ届き得ない、力を……。



 ……。



 ……。





 ***





「……ふふっ」



 “鐘楼”に据えられた丸テーブルを前にして、魔女がたった1人、椅子に腰掛けてクスクスと笑っていた。


 肩まで延びたつややかな黒髪と、白い霧のように重さを感じさせないローブを着た孤独な魔女の後ろ姿は、過ぎ去っていった日々を懐かしむ哀愁をまとっている。



「……随分と久しぶりに、長く眠ってしまったようですわ……たくさんのことを、夢の中で、思い出しました……嗚呼ああ、この“右目”には、あの日々の光景が、どんなものよりも、はっきりと見えますわ……」



 独り言を漏らしながら、魔女は眼帯をつけた自身の右目を指先ででた。



嗚呼ああ……はっきりと……はっきりと見える……忌々しいほどに……ねたましいほどに……ふふっ」



 そうつぶやきながら微笑を漏らす隻眼の魔女の目と口元は、嘲笑でいびつにゆがみ、かつて“翡翠ひすいのローマリア”と呼ばれた時代の柔らかな微笑ほほえみの面影は、どこにもなかった。


 右目の眼帯に指をわせながら、クスクスと嘲笑を漏らしていた魔女が、やがてぴたりと口を噤む。



「……。……さぁ……」



 魔女がゆっくりと、椅子から立ち上がった。白いローブが月光に照らされ、そのか細い四肢のラインが浮かび上がる。



「……参りましょう……」



 魔女が見上げる“鐘楼”の直上には、巨大な青い満月が浮かんでいた。

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