14-4 : 野良犬

 ――同日。時刻不明。暗闇。


 ピチャン。と、天井からにじみ出てきた水滴が、思い出したように滴り落ちた。



「う……」



 冷たい水滴が首筋に落ちてくるたび、シェルミアは意識を引き戻されてしまう。


 目の前にあるのは、ただの闇だった。完全な闇。暗黒の世界。


 自分の手の平も、足下も見えない。それどころか、自分が今この瞬間に、目を開けているのか、それとも閉じているのか、それさえも判断できなくなるほどの闇だった。


 瞳孔が開ききっている感覚があり、何も見えないがゆえに目線が安定せず、眼球が無意識にふらふらと動き回っているのが分かった。そのせいで、常に目が回っているような不快感がつきまとっている。


 暗闇の中に、意識が流れ出ていくような浮遊間を感じもした。初めの内、シェルミアはその感覚が一体何なのか分からず戸惑ったが、やがてそれが眠りに落ちていく途上の感覚なのだと理解した。それに気づいた頃から、シェルミアの意識から“視覚”という概念が消失し始めた。ただこの空間に、“シェルミア”という名の意識が浮かんでいるというような、そんな奇妙な感覚にとらわれ始めていた。


 そして、首筋に水滴が落ちて、シェルミアの意識が、浅い眠りから覚醒する。



 ――私は……目が覚めたのでしょうか……?



 ピチャン。首筋にまた、水滴が落ちる感覚があった。



 ――ああ、この感覚は、きっと、眠りから覚めたのでしょう……。



 ピチャン。



 ――……? あ、れ……?



 ピチャン。



 ――いや……こんな夢を、ついさっきまで見ていたような気もする……。



 ピチャン。



 ――どうなっているのですか……? どっちですか……? 私は、起きているのでしょうか……? それとも、まだ眠っているのでしょうか……?



 ピチャン。



「……。……ぁ……」



 ――ああ……声の出し方が、よく分からない……。



 光の届かない地下牢に投獄されて、どれだけの時間がったのか、シェルミアにはもう分からなくなっていた。


 闇の中に独りでぼんやりとしていると、あらゆるものの意味が溶けて、流れ出ていく。


 自分が眠っているのか、それとも起きているのかさえ判然としないシェルミアが今感じている感覚は、“倦怠けんたい感”だった。


 ひどく、身体が重怠おもだるかった。



 ――私の“身体”とは、どういうふうになっていたのでしょうか……?。



 シェルミアはふと、薄膜のかかった意識の中でそんなことを考えた。


 意識だけが浮かんでいるような錯覚に捕らわれだしてから、シェルミアは自分の身体の構造が曖昧なものにしか感じられなくなっていた。


 頭の中に“左手”という概念を思い描いて、それを強く意識してみた。すると、闇の向こうで、筋肉が動き、皮膚の擦れる刺激があった。



 ――ああ、そういえば……これが、“左手”というものでしたね……。



 シェルミアはしばらくの間、“左手”を頭の中で意識して、闇で見えない自分の左手を握っては開く動作を繰り返していた。その当たり前の感覚が、今のシェルミアには実に奇妙なものに感じられた。


 次にシェルミアは、“右腕”という概念を思い出してみた。別の筋肉が収縮する不思議な感覚があって、闇の向こうで“右腕”が動く気配がした。


 そこまで来て、ようやくシェルミアの意識がはっきりする。そして、つい先ほどまで朦朧もうろうとしていた自分を思い出して、シェルミアはぞっとした。



 ――“身体”の“動かし方”が、分からなくなりかけていた……。私は……気がおかしくなってきているのでしょうか……?



 何も見えない闇の中で、シェルミアは自分の意識の変化に恐怖した。慌てたシェルミアは、とにかくこの闇の中を進んでみることにした。このまま“自分の思考”以外に認識するものがない闇の中でじっとしていたら、その“思考”さえいずれ認識することができなくなってしまうのではないかという焦りがあった。


 しかし、シェルミアが数歩も進まぬ内に、闇の中から「ガシャリ」という金属が擦れる音が聞こえた。それと同時に、シェルミアは闇の中で自分の平衡感覚がクルクルと渦を巻いた感覚を覚えて、次の瞬間、意識が激しく揺れるのを知覚した。



 ――?!?!



 何が起きたのか、全く分からなかった。随分の間があってから、シェルミアはようやく、“自分が転倒した”ということを理解した。


 そのことを理解した瞬間、“身体”に“痛み”が生じていることをシェルミアは知覚する。


 余りに無刺激な闇の中にいるシェルミアにとって、その“痛み”という感覚はむしろありがたかった。それがなければ、シェルミアは自分の状況について意味が分からなくなり、パニックを起こしていたかもしれなかった。



 ――ああ、そうだった……そういえば、“両手”と“両足”が、鎖で壁につながれているのだった……すっかり、忘れていました……。



 受け身も何も取らず、石の床に倒れ込んだシェルミアは、全身を強く打っていた。転倒した衝撃で肺から空気が抜けて、全く呼吸ができない。全身の骨と筋肉に激痛が走り、皮膚の何か所かに切り傷ができているのが分かった。



 ――大丈夫……この“痛み”が、私をつなぎ止めてくれる……。



 痛覚によって、シェルミアは意識と肉体の結びつきが取り戻されたのを強く感じた。先ほどまであやふやになっていた“身体”についての認識を、今でははっきりと持てていた。


 闇の中で、シェルミアの意識に、様々な情報が入ってくる。


 まず真っ先に認識したのは、空腹感だった。



 ――そういえば、一体“いつ”から、私は食事をっていなかったのでしょうか。



 それから、闇の向こうで何かがい回る音と気配を感じた。全く何も見えない闇の中で、そこにねずみがいることが、シェルミアには分かった。



 ――そうだ……獄吏ごくりが、パンを持ってきていたはず。ねずみがそのにおいを嗅ぎつけたのか。



 シェルミアが、ねずみの気配に向かって右腕を伸ばした。ジャラリと鎖を引きずる音がして、ねずみが驚いてどこかに逃げていく音がした。


 何も見えなかったが、シェルミアには、どこにパンが転がっているのか、まるで手に取るように分かった。迷いひとつなく、確信をもって、シェルミアが闇の中に手を伸ばす。


 ガシャンと鎖が鳴り、シェルミアの伸ばした右腕が止まった。


 あと十数センチ、目と鼻の先に、食糧があるにも関わらず、シェルミアの手は、そこに届かない。



「……ぅ……ぐ……っ!」



 しかし、その程度のことで折れるシェルミアではなかった。



 ――右手が届かないのなら、左手を伸ばせばいい。



 ガシャン。鎖が伸びきり、左腕も届かない。



 ――腕が届かないのなら、前に進めばいい。



 ガシャン。1歩進んだところで、右足の鎖が伸びきった。



 ――進め。たとえわずかだろうと。



 ガシャン。左足も、半歩で止まった。



 ――進め……たとえ、地をってでも……!



 シェルミアが床につくばり、身体を前に出した。両腕と両足が、鎖によって後方に引っ張られる感覚があった。伸びきった手足の関節にピキリと痛みが走ったが、構わずシェルミアは口を大きく開け、闇に向かって首を伸ばした。


 そして、シェルミアの歯が、床に転がった固いパンをかじった。手も足も使えない状況で、シェルミアは地につくばった姿勢のまま、空腹の野良犬のように、泥で汚れているパンをがむしゃらにらった。


 シェルミアのその姿は、王族にふさわしくない醜さで、騎士にふさわしくない無様さで、王都市民にふさわしくない惨めさだった。


 しかし、シェルミアのその姿こそ、王族よりも、騎士よりも、王都市民よりも、その他の何者よりも、諦めの悪い、しんに強い人間の姿だった。



「こんなところで……死ぬわけには、いきません……!」



 真っ暗闇の牢獄ろうごくの中に、“明星のシェルミア”の確固たる意志の声が響いた。

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