12-1 : このままで

『やーい、白髪頭ー! 灰色目玉の、白髪お化けー!』



 ……――ああ、これは夢だ。



『お前たちみたいな、身寄りのない子の面倒を見てくださる院長様に感謝するんだよ。いいかい、院長様の言うことは何でも素直に聞かなきゃ、罰が当たるよ、ごく潰しども」



 ……――これは夢だ。蒸し暑い夏のに見る悪夢よりも、悪い夢。



『ねえ、お姉ちゃん。昨日までいた隣のあの子はどこへ行ったの? 全然声が聞こえないよ……』



 ……――これは夢だ。真冬の夜明けの凍える空気よりも、冷たい夢。



『お姉ちゃん……おなかいたね……』



 ……――怖い夢。崖から飛び降りて、地面がどんどん近づいてくるような、それよりもっとずっと、怖い夢。



『この悪餓鬼め……盗み食いだと……わしに恥をかかせおって……わしの顔に泥を塗りおって……』



 ……――夢だと分かっているのに、目覚めることができない夢。



『ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません! もう悪いことはしません! 痛い! 痛い! 嫌だ! 痛い! お姉ちゃぁん!』



 ……――目を覚まさないと駄目なのに、私の意志とは離れた場所で、夢は止まらず再生を続ける。



『ああ……お前はあのこそ泥餓鬼のお姉さんだったね……じゃあ、お前にもお仕置きをしないとね……』



 ……――やめて。止まって。



『お前は幾つになったのだったかな? 確か、そうだ、もう9つになるのだったね……』



 ……――やめろ、止まれ。私の夢のはずなのに、幾ら足掻あがいても、夢は止まってくれない。



『お前がどれぐらい成長したのか、わしにも見せておくれ……院長様の言うことは、何でも素直に聞きなさいと、わしは何度も教えたはずだね……』



 ……――目を閉じても、耳を塞いでも……あいつの顔が見える、あいつの声が聞こえる。それはそうだ。これは夢なのだから。



『お前はあの泥棒ロランとは違って、悪いことはしない良い子のはずだね? エレンローズ……お前まで悪い子だったら、わしはお前たち姉弟を、連れて行ってもらわないといけなくなる……』



 ……――あいつの指先が、私の背中をなぞる。毛虫がいずり回っているような感覚がよみがえる。これは夢のはずなのに。



『悪い子は、連れて行かれるんだよ……怖い怖い、悪魔の住む森へ……』



 ……――あいつの指先が、私の肩をい、胸をで、おなかをさすって……。やめろ、やめろ。めて、めて。



『惜しいなぁ……お前はとても綺麗きれいになるだろうに……そんな白髪と悪目立ちをする灰色の目をしていては、ろくなもらい手はつかないな……』



 ……――あいつが、私の脚に汚い手汗をつける。それから、その手が少しずつ上に上がってきて……。



 ……――やめろ、やめろ、やめろ。何であいつの指の冷たさまで思い出させるの。



『わしは面倒見がいいからね……エレンローズ、お前が良い子でいる限り、わしはお前たちを悪魔の住む森へ連れて行ったりはしないよ……すこぉしだけ、厳しくするだけだ……』



 ……――いやだ……いやだいやだいやだ。やめて……怖いよ……。



『だから、お前たちが良い子でいる限り、お前たちは、わしのものだよ……』



 ……――痛っ……。





***





「……」



 ――南部支援部隊、休息仮陣地。太陽は天頂を過ぎ、辺りには昼食で起こした残り火から、煙が細く上がっている。


 木陰を落とす大きな木の根元で仮眠をとっていたエレンローズが、横になったまま、ゆっくりと目を開けた。



「あ、姉様、起きた? ちょうど出発の準備が始まるところだよ」



 声のする方へ目を向けると、同じ木の根元で脚を伸ばして座っているロランが、横になっているエレンローズを見下ろしていた。



「……おはよ、ロラン」



 ロランの姿を目にしたエレンローズが、再びその目を閉じて言った。



「ちょっと、姉様? 聞いてたの? 出発するよ、2度寝しちゃ駄目って――」



「……起きてるよ、ロラン」



 エレンローズが静かな声で、ロランの言葉を遮った。



「起きてるよ……もう夢なんて見てないよ、ロラン」



 自分に言い聞かせるようにそう言いながら、エレンローズは木の根元に横になったまま、ゆっくりと呼吸をしている。



「姉様、やっぱり疲れてるの? ならそのまま休んでていいよ。準備は僕がやっちゃうから。だから――」



 ロランが一瞬言葉を止めて、自分の手元に目線を落とした。



「だから、手を離してよ、姉様」



 エレンローズが、横になって目を閉じたまま、ロランの手を握ったまま、ふっと口元を緩めた。



「……いいじゃん、もうちょっとこのままでも。もうちょっとだけ、このままでいてよ、ロラン」



 ロランが「もぉ」と言いながらぷくっと頬を膨らませたが、エレンローズの手を振りほどくことはしなかった。


 それから出発の直前になるまで、弟はずっと姉の手を握り返していた。



***



 ――同日夕刻、南部支援部隊、支援対象地域へ到着。ニールヴェルト近衛このえ兵長率いる先行部隊と合流。



「これは……」



 支援部隊の上級騎士の1人が、消し炭になった家屋の残骸を踏み砕きながら、力のない声をこぼした。



「くそ……なんて有様だ……!」



 別の上級騎士が、立ったまま焼け落ちている木の柱に拳をたたきつけた。



「あぁ……自分らを責めるなよぉ、皆さぁん」



 ニールヴェルトが、神妙な顔つきで、上級騎士たちに向かって口を開いた。



「最速で俺の部隊が着いた時点でぇ、もうどうにもならない状態だったんだぁ……。だからさぁ、自分らを責めるのはやめときなぁ。しんどいだけだからなぁ……」



 目の前の光景に打ちひしがれて、無念の思いに震えている上級騎士の肩に、ニールヴェルトが励ますように手を置いた。



「魔物と魔族は、俺らが追い返したぁ。救助した住民とぉ、負傷した兵たちはぁ、南部駐屯地に今頃着いてるはずだぁ……わずかしか、助けられなかったけどなぁ……」



 ニールヴェルトが、自分の無力さに絶望したように、力なく肩を落とした。その左腕には、迎撃戦で負った傷口に包帯が巻かれている。



「いや……よくやってくれた、ニールヴェルト……。お前たちのお陰で、救えた命もあったのだ。それを忘れないでくれ」



 そう言って、今度は上級騎士の方がニールヴェルトを励ました。



「……悪ぃなぁ。情けねぇとこ、見せちまってよぉ……」



 うつむいたままのニールヴェルトが、小さな声で礼を言った。



「犠牲者の埋葬も、お前たちが?」



 別の上級騎士が、意気消沈しているニールヴェルトに向かって、腫れ物に触るように尋ねた。



「あぁ……俺たちがやったぁ。そうでもしねぇとよぉ……無念すぎるだろうがよぉ……」



 うつむいたままのニールヴェルトが、手の平で目を覆う。



「……すまん。すべてをお前たちに背負わせた……俺たちを恨んでくれ……」



 いつの間にか、ニールヴェルトを囲むように、数人の上級騎士たちが集まってきていた。それぞれ浮かべている表情や仕草は違えど、そこにいる全員が、明けの国の民をまもる騎士としての任を全うできなかったことへの悔しさで、胸が詰まっていた。



「恨むだぁ……? 馬ぁ鹿、そんなこと考える暇があるんならぁ、せめて死んだ人間のために、祈ってやってくれぇ……。俺らのことなんかはぁ、どうだっていいんだよぉ……」



 そう言って、ニールヴェルトがふらつく足取りで歩き始める。それを見守る上級騎士たちは、それ以上かける言葉も思いつかず、ただニールヴェルトのために道を空けることしかできなかった。



「すまねぇけどぉ……しばらく、1人にさせてくれぇ……」



 ふらふらと人気ひとけのない方向へ歩いていくニールヴェルトの後ろで、上級騎士たちが黙祷もくとうささげる気配があった。



「1人に、させてくれぇ……」



 嗚咽おえつの漏れる口を押さえ込んで、ニールヴェルトがうつむかせていた顔を上げる。



「……でないとぉ……もう、耐えられねぇんだよぉ……」



 口を覆っているニールヴェルトの手の平の端から、くしゃくしゃにゆがんだ口元がのぞき、歯が垣間かいま見えた。



「……ふっ……くっ……くくくっ……あぁ、駄目だぁ……くくっ……たのしすぎてぇ、我慢できねぇよぉ……」



 ニールヴェルトがとうとう堪えきれなくなって、口角をり上げて、目元をにんまりとねじ曲げて、声を潜めてわらい始めた――その腰に、業物のショートソードをぶら下げて。

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