6-6 : 翡翠
ローマリアが、椅子に腰掛け、背中を私の方に向けている。
私はローマリアの真後ろに立って、右手に
……うむ、自分でもこの状況がよく分からなくなってきた。
「……本当にこんなことでいいのか?」
私は念のため、ローマリアに確認する。
「……無粋ですわね……。次にそういうことを口にしたら、
これは割と本気で言っているな……ローマリアの
というよりも、長い黒髪に隠れた耳が赤くなっているのを見てしまったら、もう“そういうこと”は言うに言えなかった。
ローマリアの髪を、手に乗せる。
その触れた毛先から、ローマリアの肩に力が入っているのが伝わってきてしまい、私は気が散って全く集中できないでいた。
仕方ないだろ……こんなこと生まれてこの方、やったことがないのだから……。
私はぎこちない手の動きで、ローマリアの髪に
毛先から10センチほどの位置に
「……大丈夫か?」
他人の髪の
「……ええ、大丈夫ですわ。ゆっくり、優しく
私は徐々に
そしてローマリアの頭頂部に
「……外せ」
私は声が震えてしまわないかと気に病みながら、口を開く。
「……なんです?」
ローマリアが、わずかに首を回して、尋ねてきた。
「……眼帯を、外せ。止め
ローマリアの艶のある髪の束の中に、黒髪よりも薄い黒色をした眼帯の止め
「……分かりましたわ」
ローマリアが、右目に手を延ばし、止め
邪魔だった右目の眼帯の止め
残るは――。
私は椅子を回り込んで、ローマリアの前面に移動する。
「……前髪も、
「……はい、お願いしますわ」
そして、ローマリアが顔を上げる。
眼帯を外した右目にも、左目と同じ、
250年前、ローマリアを四大主とならしめ、“三つ目の魔女”の異名を頂かせるに至った右目である。
私は、250年振りに目にするその右目をじっと見つめながら、ローマリアの前髪に
また、胃の辺りがムカムカしてくるのを感じた。
そして、私は気づいてしまう。ローマリアの右目の瞳の、不自然な揺れ方に。
「……ローマリア」
私は声をかけながら、ローマリアの頬に手を当て、ローマリアの左目を手の平で覆い隠した。
「……ゴーダ?」
左目を私に塞がれたローマリアが、私の方を仰ぎ見る。右目の瞳は、先ほどよりも
「お前……その右目……見えてないのか?」
濁りきり、焦点の定まっていない右の瞳が、所在なげにふらつき続けている。
「
「……そんなわけあるか……」
“そんなこと”だと……? “関係ない”だと……? そんなわけがあるか……私は……“俺”は……お前がそんな風になっていくのが……お前がそんな風になってしまったのが、見ていられない……。その右目に、自分の意志で身を委ねてしまったお前の成れの果ての姿なんて、俺は見たくなかったんだ……。
「(お前はもう少し、自分の身体を大事にしろ……)」
喉がからからに渇いて、私は声にならない声を出す。
「? 何か
当然、そんな声はローマリアには聞こえない。ローマリアの声も、
「……? ゴーダ? また震えていますわよ……?」
ローマリアが、左目を覆い隠している私の手に自分の手を重ねてきたが、頭の中で思考が渦巻いている私には、その感触が分からなかった。
250年前の記憶が、フラッシュバックしてくる。ここを出て行くときに捨てたはずの、かつての私の感情が、ゴボゴボと噴き出してくる。
……怖い。手の震えが止まらない。
ローマリア、何でお前はこんなところにたった1人でいられる? ローマリア、何でお前はそんな力を欲しがった? ローマリア、俺をこの世界に召還したお前は……俺が憧れた、最高の師匠だったのに……それ以上の人だったのに……何でお前は、そんなところに
……怖い。身体が冷たい。
……怖い。息をするのが苦しい。
……怖い。頭が狂いそうだ。
……怖い。
「ゴーダ!」
ローマリアのその声が、ようやく耳に届き、私は思考の迷路から抜けだした。
「……大丈夫ですか?」
私は、ローマリアの左目に覆い
「……すまん、昔のことを思い出して、混乱していた……。
ローマリアの声がようやく聞こえたことで、私の古い記憶と感情は、再び250年という時の
「……ええ、満足ですわ、とても」
ローマリアが、右目に眼帯をつけなおしながら、満たされた様子で言った。
「
そしてローマリアは立ち上がり、握られた右手を私に突きだしてきた。
「契約は果たされましたわ。約束通り、魔導器“偽装の指輪”は
ローマリアが右手を開き、そこから指輪が、私の手の平に
「……確かに受け取った」
それだけいうと、私とローマリアは、何も言わずにしばらく目を合わせている。
「……お帰りになりまして?」
最初に口を開いたのは、ローマリアだった。
「ああ、用は済んだ。引き揚げるとしよう」
「そうですか。またいらしても構いませんのよ、ゴーダ?」
……ローマリアのその言葉に、私は一瞬沈黙して、そして――。
「いや……もうここには来ないだろう……2度とな」
それだけ言って、私はローマリアに背を向けて、塔へと通じる転位昇降機のレバーを起動させる。
転位昇降機の陣の中に入ったところで、私はローマリアの方に向き直って、一言だけ口にした。
「貴様はもう、かつての私の師匠でも、かつての私の憧れた人でもない。ただの
私のその言葉を聞いて、ローマリアが表情をぐにゃりと
「アはっ……ええ、わたくしは四大主“三つ
そう。その通り。私が憧れた“
次の瞬間、私は星海の物見台のかつての研究室に転位し、鐘楼に残った魔女の姿は、跡形もなかった。
***
「さて、偽装の指輪は手に入れた。これで問題なく目的を果たせる」
星海の物見台を後にして、私は一路、イヅの城塞への帰路に就く。
「……潜入するぞ。明けの国の王都へ……」
***
――……。
ローマリアが1人、鐘楼の椅子に腰掛けて、月を見上げている。
静寂と静止しかない空間に、転位昇降機を上って、1体の人形が現れた。
「きれいきれぇい」
人形は頭に乗せた盆に、ティーセット一式を乗せていた。ローマリアが転位魔法で下げた茶器を、洗って持ってきたのである。
「ふふっ。御苦労様ですわ」
トコトコと足下に歩いてくる人形を、ローマリアが笑顔で出迎える。
「おかたづけ、おかたづけぇ」
人形が器用に、今はもう誰も座っていないローマリアの向かいの椅子によじ登り、茶器をテーブルの上に戻していく。
ティーポットをテーブルの中心に。ティーカップとその受け皿をローマリアの前に。
そして、もう1組のティーカップを、
“人形は、ずっとそこがその茶器の定位置だったとでも言うように、当たり前のようにそこに茶器を返した”。
「ふふっ。いい子ですわ」
そしてローマリアは、一仕事終えた人形を抱え上げ、ぎゅっと抱きしめた。
「わぁい」
ローマリアの胸の中で、人形がきゃっきゃと声を上げてはしゃいだ。
「……でももう、そのカップが使われることはないのでしょうね」
ローマリアが独り、クスクスと悲しげな嘲笑を浮かべた。
人形を抱きしめたまま、ローマリアが巨大な白い月を仰ぎ見る。
……。
月を見つめるローマリアの、その右目の眼帯の下で、グチャリ・ギュルンと肉の
ローマリアの目の前で、白い月が赤黒く染まる。そして波立つ水面に映し出された像のように、ぐにゃりと
「ふふっ……アは……。
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