最期の選択

「え、都築さん。どうして……」


「相馬、お前にこれを預ける」


 そう言って上総が取り出したのは、複数のUSBメモリだった。


「瀬野を殺す前にすべて吐かせておいた。美月は眠らせていたから気付かなかったんだろう。それと、橋本からも出来る限りの情報を引き出しておいた。これを久瀬将官に渡すんだ。あとは恩田を堕とすのみ」


 相馬は少し混乱していたが、落ち着いて頭の中を整理する。橋本将官らの下についたはずの上総が、今目の前で橋本将官を殺してしまった。そして、なんの情報も得ていないまま上総が殺した瀬野の情報と、さらに橋本将官側の情報が今自分の手にある。


「無駄に手を汚す必要なんてない。こんな穢れた仕事は俺の役目だ」


「あ……」


 上総は裏切ってなどいなかった。自ら敵側に入り込み、危険を冒して情報を得ていたのだった。


「相馬……?」


 間違いだろうか。自分の眼には微笑んでいる相馬の姿が視える。どうして。裏切ったのに、部下を棄てたのに。


「ああ……。やはり、最後まで信じて良かった。都築さんは必ず戻って来ていただけると、信じていて良かった」


 上総は、眼を大きく見開き口を噤んだ。


「ご覧のとおり、私は無傷です。おそらく、他の皆もそうでしょう。十倍の人数の敵に対し、部下たちは拍子抜けしていることでしょうね」


 相馬の目尻から涙が一滴零れた。心からの安堵、最後まで信じ切れた自分。そして、これで終わってしまうという哀しい現実。


「都築さんが私たちを放棄するなど、絶対に有り得ません。私は都築さんの副官ですよ、見縊られてしまうと困りますね」


 なにが隊長だ、なにが上官だ。一番仲間をわかっていなかったのは自分じゃないか。


「都築さん……。私たちのために、この組織のために、わざとご自分を犠牲にしてこんな真似を。申し訳ありませんでした。上官に銃口を向けてしまいました」


「相馬……。……うっ」


 上総は顔を顰め頭を抑えた。歯を食いしばり、冷や汗をかき、足元がおぼつかない。


「都築さん?」


 上総は拳銃をしまった。立っているのがやっとで、呼吸をするのもままならず、身体中が酷い熱と痛みと吐き気とで、内側から破裂してしまいそうだった。


「……お前には俺を撃つ資格がある。いつかこんな日が来るとは思っていたけど、思ったよりも遅かったな」


 相馬は、目を見開き首を振る。目の前の現実に頭がついて行かない。


「どんな理由があろうとも、俺はしてはならないことをした。それは罰せられないといけない。だから、俺を殺せ」


 相馬は首を縦に振ろうとはしない。上総は間違ったことなどしていない。いつもいつも、自分を犠牲にして周りを助けてばかりだ。


「……なら、お前を殺すぞ。お前が死ねば、今お前が手にしている情報は二度とそちらへは渡らなくなる。部隊長として決断するんだ」


 今最も重要なのはこの情報だ。だが、それと引き替えに彼を殺すことなど出来るはずがない。


「お前は、少し優しすぎるところが欠点だな。それは長所でもあるけれど、その優しさは時に判断を鈍らせる。指揮官として、非情な決断も必要だ」


 上総は、震える手で一本の注射器とアンプルを相馬に手渡した。


「これを、司令官に……。頼めるか」


「これは……」


「司令官に指示されて、俺が作った薬だ。つい最近、改良版の試作が完成した。試してみたら予想以上の出来だ」


「薬……?え、いったいなんの薬ですか。試してみたって、あの、まさか」


 相馬は、上総の裏の仕事を知らない。それでも、自分たちの知らない上総がいる、自分たちには言えない仕事をしているということは、なんとなく気が付いていた。


「自分で実験してみる方が一番わかりやすいな。これは、なかなか酷い……」


「なんてことを!どうして……」


「これは体内に残らないんだ。だから、他の皆には黙っていてほしい。これまで俺がしてきたことに対して少しでも報いるためには、決して病気でなんか死ねないから」


「だからって……」


 なぜ。なぜ彼ばかりが、こんな苦しみを受け続けなければならないのか。


「実はもう、ほとんど眼が視えないんだ。ちゃんと礼を言いたかったな。相馬、お前になら安心して後を任せられる。……和泉たちにも礼を言わないと」


 上総は、今までのことを想い返していた。とにかくいろんなことがあった。普通ではない人生を生きてきた。決して真っ当な生き方だったとは言えない。なにせ、法を犯すことなんて当たり前だったし、どのくらいの人間を手にかけたのかももう覚えていない。

 この組織の中ではなんとか上に立つ存在としてやって来られたが、世間から見ればちっぽけなただの軍人。


 自分の人生は、果たしてこの世界に必要だったのだろうか。誰か、たったひとりでもいい。誰かの支えに、助けになっただろうか。


「……一時はどうなることかと、本当に相馬は諦めてしまうのかと焦ったよ」


「こんな状況でも私を試すようなことを……!相変わらず、都築さんは人が悪いです」


「はは……。悪かった」


 こんなに笑っている顔はいつ振りだろうか。最期に目にすることが出来たことを喜ぶべきなのか、今まで笑顔にさせてあげられなかった自分を恨むべきか。


「いいか、俺は最低な上官だった。だから、お前は決して俺を真似するなよ。俺みたいになったら許さないからな」


 すると、上総はゆっくりと銃口を自分のこめかみへと運ぶ。


「……!!」


 相馬の表情が一変する。なんなんだこれは。どうして、どうして彼は、自らの頭に銃口を向けている……。


「都築さん、やめてください!そんなこと絶対に許しませんよ。私だけじゃない、皆が許しません!あなたは生きないといけない。まだ私たちの上に立っていないといけない。ここを変えるのでしょう。それを見届けるべきです!」


 今思い返せば、どんなミスをしたって上総は声を荒げることはしなかった。むしろ、自分の教育不足だと逆に謝ることさえあった。

 あまり部下たちと距離を縮めようとはしなかったが、皆わかっていた。上総ほど自分たちのことを考えてくれていた人はいない。どこまででもついて行きたかった。


「相馬、これからは、相手が誰であろうと自分の意見はぶつけていけ。お前なら立派な部隊長になれる。だから、この先はお前に託した。……もっと、お前たちと話をする時間をとるべきだった」


 今、自ら人生に幕を閉じようとしている上総を、相馬はとても見ていられなかった。誰がこんな未来を予想出来ただろう、いったいどこで道を間違えたんだろう。


「悪いけど、美月と大郷に謝っておいてくれないか。これだけは決して許されない罪だ」


 上総は目を閉じて、銃口を頭に押しつける。


「……都築さん、いけませんよ」


 今すぐにでも上総を止めたかったが、相馬の身体は言うことを聞かない。どうしても、一歩を踏み出すことが出来ない。


「……」


 上総の手に力が入る。後悔していることはもちろんある。叶うなら、ひとりひとりに会って謝りたい。こんなことになってごめん。力不足でごめん。助けてあげられなくてごめん。


「本当に、何のために生きてきたのか……」


 頭の中で、なにかが千切れた。視界が失われていく。感情が失われていく。これで終わる。もう本当に、自分にはなにも出来なくなる。


「都築さん……」


 下唇を噛み締め震えを抑え込む。涙が止まらない。悔しさがどんどん溢れてくる。だけど、相馬はもう上総を止めることはしなかった。これが彼の決断であるならば、最期まで自分はそれに従おう。


「あ……」


 もう、話すことも出来なくなったみたいだ。この声はもう届かない。この想いはもう伝わらない。だからどうか頼む。皆、必ず生きて笑えるように。この存在を早く忘れて、前を向けるように。


「……ひとつ、お伺いしても」


 上総はゆっくりと深く頷く。


「和泉が死んだのは、計画の内でしたか?」


 その問いに少し表情を歪ませながらも、上総は顔を横に振った。


「そうですか……。よかった」


「……護れ、なかった」


 今にも割れそうな頭。焼けるような身体。とてつもない苦痛に耐え、上総は人差し指に最後の力を込めた。


 その途切れ途切れの声に、心からの叫びに。この人が最期まで護り抜いたその固い意志を。相馬は悲痛な表情で、それでもなんとか笑みを浮かべて敬礼を掲げる。


「都築さん、お疲れさまでした……!!」


 一発の乾いた銃声が夜空に鳴り響いた。それは、ある男の人生の終わりを告げる音であると共に、もうひとりの男の人生の新たな幕開けを告げる哀しい音だった。

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