賽は投げられた
最大の味方が最悪の敵へと
"……本当に大丈夫か?このままで、お前はさ"
——大丈夫だよ。
自分で選んだ道だ。だからお前も、振り返ることはせずに前だけを見ていろ。
お前には、最後は頼むと託した。あの時の哀しげな表情は、未だ眼に焼き付いて消えない。
"……なにやってるのさ。あれほどやめておけって言ったのに"
——本当だよね。君は、散々忠告してくれていたのに。
君からは、最後は頼むと託された。電話越しだったけれど、君のまだ生きたいという叫びは、未だ頭の中に響いている。
"……最期は、晴れ晴れとした顔で"
——ああ。迷いも後悔も、すべてを棄ててきた。
あの日、死んでいった部下たちには謝るなと叱られたな。お前の最期の表情、俺は目を逸らした。
「さあ、どうか見て見ぬ振りをしてくれ。この先はもう、地獄だ……」
苦難に耐えながらも、なんとか舞台端から落ちないよう留まっている。痛みや苦しみを訴えるかの如く、ぎしぎしと軋む音をたてて、人生の幕が下がりはじめた。
***
「動くな」
上総は美月の頭に銃口を向けた。
「桐谷さん!」
さすがに隊員たちは飛び出そうとしたが、久瀬たちの後ろでは橋本将官が見張っており、下手にこの場からは動けない。
「……まだ殺さないよ。だけど、少しでも動いてみろ。一生後悔することになる」
「都築、これで部下の無念が晴れたとでもいうのか。そんなことのために、俺たちを裏切ったわけじゃないだろう」
久瀬は歯を食いしばり、必死に上総に訴えかける。最も信頼していた部下がいつの間にか自分たちを騙していた。これほどの哀しみがあるだろうか。
「裏切った……。聞き捨てならないですね。私は、これが正しい選択だと確信したので行動を起こしたまでです。それがたまたま橋本将官らと目的が一致しただけのこと。それに、遅かれ早かれこの男は始末するつもりだったのですから」
上総は一切表情を変えず淡々と話しながら、美月の口を覆っていたテープを剥がす。
「久瀬将官、私はなにか間違ったことをしましたか」
久瀬は大きく肩を落とした。いったいなぜ、自分のせいなのか。あまりにも頼りにしすぎてしまったばかりに、いい加減耐えきれなくなったのか。将官として振る舞えていなかったか。
ずっと共に行動して来たお前は、偽りの姿だったのか……。
「だからって、瀬野からはまだ情報を得られていないんですよ。これじゃあ、和泉二佐や福島と群馬の隊員たちはいったいなんのために闘って、なんのために命を懸けたんですか!皆、都築一佐のために全力で命を懸けたんですよ!」
依然、上総は冷徹な顔で腕を組み佇んでいた。その表情からはなにも読み取れない。ただ怖ろしい。動くなと言われれば、絶対に動けない。
「……あれだけ大勢の人間を失ってしまったのは、組織としては非常に残念だ。だが、こちら側としては、それだけ邪魔者を排除出来たという点で、あの掃討作戦は成功したと言えるだろう。これで、福島も群馬ももう使いものにならない。……なんなら、退避命令なんて出さなければ良かったかな」
この上総の言葉に、橋本を除く皆が言葉を失った。あれだけ部下や組織のことを考えて必死に作戦を練り直し、長い時間を費やしてやってきたじゃないか。
明日のために今日を精一杯生きて欲しいというあの願いは嘘だったのか。和泉が盾になったとき、心の中では笑っていたのか……。
美月は未だ涙が止まらない。それは裏切られたことだけじゃない。様々な感情が渦巻き、美月自身もわからなくなっていた。
「上総、どうして……。こんなの間違ってるよ、嘘なんでしょ」
「今、どんな気持ち?」
「え……」
美月はその顔に愕然とした。喜びでも哀しみでも怒りでもない、それは一言で表すならば果てしなく無の表情だった。
「わざわざ俺は、こんな重傷まで負ってこいつを連れて来てやったんだ。美月にね、ちゃんと犯人の顔を見せてあげたかったんだよ。だから、少しは感謝して欲しいね」
違う。
「美月だけじゃない、お前たち皆がそうだ。この数年間、お前たちのために俺がどれだけの労力を使ったと思ってる」
違う……。
「馬鹿みたいに騒いで、うざったいくらいに俺を頼るだけしか能のない……」
こんなの上総ではない。確かに、上総が激務なのを承知で頼りきっていた部分は否めない。そもそも、組織に入った時点ですでに恩田や橋本らと組んでいた可能性もあるが。
「相馬、俺が忙しいのを充分理解しているうえで、よくも食事だなんて発案が出来たものだ。あれだけ意味のない時間ははじめてだよ。久瀬将官、ひとの過去を勝手に露呈するのはやめていただけませんか。大変不愉快です。……それ以外は、言葉さえ出て来ない」
恐怖、冷酷、そのどちらにも当てはまり、そしてそれ以上の落胆が彼らを襲った。こんな人間の下で、自分たちは今まで一体何をしてきたんだ。
「そういえば、美月に聞きたいことがあったんだ。あの夜、本当は助けない方が良かったのかな。助けないで、むしろ背中を押しちゃえば良かったのかな。……ねえ、両親の死に顔を目にしたときと今、どちらが辛い?」
「ふざけるな!!」
遂に大郷は拳銃を構えた。その姿に、美月をはじめ周りの隊員たちは目を疑った。
上官に銃口を向けるなど以ての外だが、相手が相手だ。処分がどうこうという話じゃない。上総が本気を出さずとも、彼が引鉄を引けば、いとも簡単にこの場の全員の命を奪えるだろう。
「動くなと言ったはずだ」
「……過去のことは関係ないでしょう。やめてください」
血の気が引いていく。鼓動が速くなる。少し息苦しい。今どれほどのことをしでかしているのか自分でもよくわかっている。
この距離なら、まず外すことはないだろう。今すぐにでも引鉄を引いてしまえば勝ちだ。
「お前、俺を誰だと思ってる。お前に俺は撃てない。お前ごときが、俺に擦り傷ひとつ負わせられるとでも」
「……っ」
焦りの中で、歯を食いしばり目を見開いてなんとか狙いを定める。しかし、そこから先がどうしても動かない。確かに上総に敵うはずがないし、なによりも恐ろしくてたまらない。
引鉄に掛かる人差し指は小刻みに震え、焦点を合わせようにもまるで定まらない。撃ってしまってから起こるであろう恐怖が、次々と頭の中に浮かび上がってしまう。
「もう、いい加減うるさいから。目障りだから。一人ずつ消えてもらう」
「!?待っ……!」
生気のない表情を浮かべた上総が、迷うことなく銃口を美月に向けた。その光景に、誰もが顔を青ざめた。
「やめてください!!」
ドンッ……!!
鳴り響く銃声、息詰まる沈黙。いったいどうなった、どちらが撃った……。
美月は、固く閉じた目蓋をそっと開いた。上総の左手に持つベレッタの銃口は、まだこちらを向いている。
だが、上総はもう片方の手にも拳銃を構えており、あろうことか
何が起こったんだ。この一瞬の間に、見てはいけないものを見てしまったかのような。
「なぜ、俺が目を背けた瞬間に撃たない。だからお前は、いつまでも弱いままなんだ」
大郷は、ほんの僅かでも彼を倒せるかもしれないなどと自惚れたことを激しく後悔した。久瀬や相馬でさえ、上総を前にして茫然と立ち尽くしている。
「……俺を見縊るな」
そう吐き捨て、上総は未だ放心状態のままの大郷の脇を通り過ぎて行く。
「つ、都築さん!私はまだ認めておりません。必ず戻って来ていただけると信じております!」
相馬は必死に訴えたが、上総の足は止まることはなかった。
「桐谷三佐、お怪我は……」
結城が駆け寄り、急いで紐をほどく。美月の目は虚ろだった。これまでの間、美月が心の奥底に押し込んでいた過去。それを今、上総は一度に引き摺り出した。
「……平気。辛いことなんてたくさんあった。でも今は辛いんじゃない、呆れて笑っちゃいそう」
言葉とは裏腹に、美月の目からはたくさんの涙が溢れ出ていた。
「久瀬将官、申し訳ありませんでした。なんの疑いもせずについて行ったばかりに。せっかくの捕虜を失ってしまいました」
美月は、久瀬の前まで駆け寄り頭を下げた。握った拳が震えている。
「頭を上げてくれ、君は悪くない。致し方ないことだったんだ。まさか、彼が裏でこんなことをしていたとは……。ずっと側にいたのに、なにも気付けなかった。私は将官失格だ」
美月はそっと久瀬を見上げた。声が震えている。それは失望なのか哀しみなのか。もしくは、そのどちらでもなく自分に向けた怒りなのかもしれない。
「橋本は特務室を潰したがっていたからね。我々はそれを阻止すべく内密に調査を行って来たわけだが、それもすべて演技だったんだな。そして、今日このときを迎えるために、我々を絶望へと堕とすために、都築は命懸けで瀬野を連れ帰って来た」
久瀬の視線はおぼつかず、ただ気力だけで声を発しているようだった。これまでの上総とのことを思い出し、それらのすべてが偽りだったと、どうしても認められないでいるようだった。
「しかし、なにも橋本将官と組まなくても……。橋本将官の明らかな罠だってわかるじゃないですか」
「司令官と橋本がすべてを知っていると踏んで傘下に下ったのかもしれない。都築は瀬野を非常に憎んでいたし、瀬野を擁護する上層部もまた憎んでいたんだと思う。都築はここを変えたいのだとばかり思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。都築は、ここを潰したかったのかもしれないな」
上総は、この組織自体を長年憎んでいた。復讐する機会を狙っていた。それがまさに今、瀬野も組織も潰すことが出来る絶好のチャンスが訪れた。
しかし、本当にそれが目的だったのだろうか。本当に今までの上総は偽りの姿だったというのか。久瀬は苦渋の選択を迫られた。しかし、将官としてこの組織の未来をとった。
「……こうなった以上、都築も敵と見なす。橋本、都築両名を拘束。抵抗するようなら、殺せ」
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