AM9:59

 中村先生が黒板に文字を書くたびに、白いチョークと黒板がぶつかるドンドンという小さく低い音が教室のなかに発せられた。動かす右手に合わせるように、先生の後頭部の長いポニーテールが上下左右に細かく揺れる。

 先生の板書はかなりの速筆なのだが、まるでワープロ文字のように丁寧で、その性格を表しているようだ。「μ(ミュー)」や「ε(イプシロン)」などの、普段使わないギリシャ文字も、まるで判で押したように同じ形で書く。

 中村先生の授業だけは、眠たくても眠れないないのでマリは喉の下から湧き出しそうなあくびを抑えるのに必死だった。戯れに、「μ」の文字を自分のノートに書いてみたが、きれいに書けない。ギリシャ文字というよりもローマ字の「w」のようになっていた。たしか数学では、「ω(オメガ)」という字を使うこともあったが、マリがこの二つを横に並べて書けば、自分でも区別がつかないだろう。

 腕時計を見ると、9時59分で、マリは10時に切り替わる瞬間を見たくなって、液晶の表示をぼんやり眺めていた。

 区切りのいいところまで板書をした先生は、

「この問題の場合、磁界から受ける力、エフは、に・パイ・アール分のミューゼロ・イー・アイだから、後は与えられた数字を入れていけばいいだけ、わかるわよね」と太い声で言った。

 さっぱりわからない。まるで何かの暗号か、眠りを誘う呪文のようにしか聞こえない。たしか、1年くらい前にマクスウェル方程式がどうのこうのというのを習った記憶はあるのだが、それが何かマリはまったく記憶にない。昔はこの方程式のことを、「マックスウェル」と詰まった音で表示することもあった、と中村先生が言ったことは覚えている。それと、その式によると電界と磁界が相互に発生して波を作り、その波は宇宙の果てまで飛んでいく、ということも聞いた記憶はある。

「で、ここ点エーにおけるz軸方向の磁束密度は……」と先生が続ける。

 マリはなんとなく、ノートに「宇宙の果て」と書いた。

 先生が振り向いて、板書の続きを書き始めた。

 するとその瞬間、ユミコが隣の席から腕を伸ばして、ノートを小さくちぎった紙片をこっそりマリの机の上に置いた。

 ユミコの顔を見てみると、右手の指を口元に当てて、「シーッ」と小さく言った。そして、「先生に見つかったら、怒られるから」と言うような形で口を動かした。

 マリはその紙片を広げてみる。


 逢沢さん、実は別の高校に通ってるうちの弟が、逢沢さんのファンらしくて、「ねえちゃんと逢沢さんとぼくとの3人でどっかに遊びに行こうって誘ってよ」なんて言われてるんだけど……どう?


 マリはその紙とユミコの表情とを交互に見た。ユミコはまっすぐ黒板のほうを向いて、まるで授業に集中してるように見える。

 これはつまり、姉であるユミコを介してデートに誘われたということになるのだろう。

 もちろんマリはそのユミコの弟と面識はないが、「ごめん、ムリ。興味ないや」と余白にシャーペンで書いた。そしてそのままユミコに紙片を返そうかと思ったが、それだけでは何か味気なく感じてしまったので、「どうして別の高校の弟さんが私のこと知ってるの?」と付け足した。


 うちの弟もバレー部なのよ。たぶん、どっかの大会か練習試合で知ったんじゃないかな。「ねえちゃんの学校の女子バレーのキャプテン、すっげえ美人だな」なんて言ってきてね。その人同じクラスだよって私が言ったら、紹介してくれとか言って来て……。たぶんダメだろうってずっと私が言ってたんだけど、あまりにしつこいから。


 新しくなってやってきた紙片には、そんなことが書いてあった。

「ふうん、なるほどねえ」とマリは心の中で言った。男子バレー部と同じ体育館で試合があったのはいつだっただろうかと思い出そうとした。5月の末あたりにそんなことがあったような記憶はあるが、かなり曖昧だ。


 弟さんには、ゴメンって言っといて。ついでに、部活がんばれーって。


 そう書いた紙片をユミコの机の上に返すと同時に、板書をしていた先生が振り返って、マリは一瞬ヤバいと思ったが、どうにか見つからなかったようだ。

「それじゃ、これから残りの時間は実戦の問題ね。去年のセンター試験の一部を印刷して持ってきたから、それぞれ解いてみて、あとで答え合わせします。マークシートは用意してないから、問題用紙に直接記入して。本番はいちおう60分ってことになってるけど、その半分の時間で最後まで回答できるようにしておくのが理想ね」

 再生紙のプリントが配られた。問題文と、1.2.3.4.5の選択肢に、文章や数字が書いてある、どこから見てもセンター試験の問題だった。

 推薦入学ができる人でもいちおう受けることが多いのだが、マリはセンター試験を受けるつもりはない。

 適当に、選択肢に○を付けて行ってると、ユミコがまた紙片をよこしてきた。生徒が問題を解いているあいだ、先生はめずらしくぼんやりした表情で、窓の外を眺めている。

 マリは紙片を、手のひらのなかで開いた。


 逢沢さん、彼氏はいるの? yes or no


 これも、その弟に聞くように頼まれたのだろうか。マリは「no」に丸を付けて返した。

 するとすぐにまた、紙が返ってくる。


 それじゃ、好きな人はいる? yes or no


 それを見てマリは少し戸惑い、考え込んでしまった。好きな人がいるかどうかと問われれば、いる。もちろんその相手はカズコ以外にいない。

 その後のユミコの反応を想像すると、ここでは「no」にマルを付けて返すのが処世術としては正しいのだろう。正直に答えなければいけない義理もない。しかし、そうしてしまうと、まるでカズコを裏切ることになるような気がした。

 マリはためらいながらも、「yes」にマルをして返した。

 教壇の向こう椅子に座っていた先生が立ち上がって、

「はい、解答やめ。これから答え合わせしていくわね。目標はこの時期だと、85%以上の正答率が求められるわね。もし時間が足りなかった人がいたら、ちょっと早く解答する訓練をしたほうがいいかもしれない」

 いつのまにか、10時20分を過ぎていた。

「問1。これは簡単ね。これ間違えるようじゃまずいわよ」と先生が言いながら解答していく。


 この学校の人? 告白しないの?


 先生の目を盗んでやってきた紙片には、そんなことが書いてあった。

 マリはそれを見て、複雑な気持ちが胸中に湧き上がってきた。マリとカズコが相思相愛になってから、かなり長い時間が経っているが、思い返せば、きちんとお付き合いしてくださいと言ったこともないし、言われたこともない。

 子供のころからふたり一緒にいることがあまりに自然なことだったから、いつからが友達でいつからが恋人になったのか、あまりはっきりしない。

 マリはそれが少し寂しいことのように思えた。


 いちおう、この学校の人。告白は……いつかちゃんとしようと思う。


 そう書いた紙をユミコに返そうと腕を伸ばそうとしたとき、それまで板書をしていた先生がものすごい勢いで振り返って、

「コラッ! 逢沢と新田、起立しなさい!」と叫ぶように言った。

「はいっ!」とふたり同時に声を出して立ち上がる。

「ちゃんと授業に集中しなさい! あなたたち、さっきから内職してるでしょ」

 思わず背筋が伸びる。

「してません!」とマリが、

「すみません!」とユミコが同時に言った。

 クラス中に一気に大きな笑い声が響いた。

「静かに。逢沢、問6の答え、言ってみなさい」と先生がマリを指名した。

 マリは机の上のプリントを見た。問6のところには、滑車が3つ付いた絵が描いてあり、四角い重りが糸で吊るされている。

 仮にこの問題の意味がわかったとしても、いくつかの数式を計算しなければ答えられるはずはない。解答のための時間を先生のいう「内職」に費やしてしまったマリには、正解を出す準備はない。

「えっと、2番です」カンでそう言うと、先生は、

「……いいわ、座りなさい」と落ち着いた声で言った。

 どうやら運良く、正答も2番だったようだ。マリは胸を撫で下ろした。

 椅子に座る動作の途中で、ユミコが手を合わせて、

「ごめんね」と小さな声で言った。

 マリは手を左右に小さく振って、「問題ない」という意思表示をした。

「告白は……いつかちゃんとしようと思う」と書かれた紙は、マリの手もとに残ったままになった。

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