PM12:41
「うーん」と言いながらマリは座ったまま背伸びをした。
四時間目の授業の終わりを告げるチャイムの音でマリは、結局3時間目と4時間目はフルで寝てしまった。
眠気はだいぶ収まったが、代わりに空腹がやってきた。昨日から母がいないためお弁当を持って来ることができず、お昼ご飯は購買部でパンを買うことにしているのだが、昨日の昼の人混み具合でほとほと懲りてしまった。昼休みの購買部は戦争だ、などと言われている理由がよくわかった。焼きそばパンなる奇天烈な食べ物をゲットできただけでも、奇跡的だったらしい。
今日は、本来なら校則違反ではあるのだが、こっそり学校から抜け出して近くのお店にサンドウィッチでも買いに行こうと朝から決めていた。
カバンのなかから財布を取り出し、ファスナーを開けて小銭入れのなかをのぞいた。五百円玉が一枚と、百円玉もしくは五十円玉らしきものが数枚ある。余裕があるとは言えないが、一日のお昼代としては十分だろう。
「逢沢さん、今日も購買?」とユミコが言った。
「うん」
「早く行かないと、なくなっちゃうよ」
「え、ああ。そうだね……。ははは」
問題は学校を抜け出すときに、歩く校則とも呼ばれる担任に見つからないかどうかという点だが、裏門を通って表に出ればきっと大丈夫、そんなことを考えながら教室を出ると、ちょうど出入り口のところで誰かぶつかりそうになった。
「わっ!」
「きゃっ!」という悲鳴が同時に出る。
マリよりも身長が高い誰かにぶつかったので、てっきり男子だと一瞬思ったのだが、相手をよくよく見てみると、カズコだった。
「あー、びっくりした。カズコちゃん、どうしたの? うちのクラスに何か用?」
「あのね、たまには、一緒にお昼どうかなって思って、マリちゃんを誘いに来たのよ」
これまでマリとカズコは学校でお昼ご飯を一緒に食べることはほとんどなかった。バレーボール部員はなぜかお昼は部室で集まって食べるという変な伝統があって、マリも一学期が終わるまではそれに倣っていた。カズコもお弁当はクラスの友達と一緒する習慣で、それは今でも続いている。
「あっちゃ~。ごめん」とマリは額に手を当てた。「私、お弁当持ってきてないんだよ。ちょっと待っててくれる? 大急ぎでパン買ってくるから」
せっかくカズコが誘ってくれたのだから、それに乗らない手はない。こうなっては学校の外に買いに行くなどという時間的余裕はないかもしれない。
振り向いて、一階の購買部に走って行こうとすると、
「いや、いいのよ。私、お弁当ふたつ持って来たから」とカズコが言った。
「え? どゆこと?」
マリはカズコの手のほうに視線を落とすと、カズコが持っているお弁当袋はかなり大きなもので、ちょうどふたりぶんくのお弁当箱が入ってそうだ。
「あのね。昨日、帰ってからうちのお母さんと、マリちゃんの家は今お母さんが留守にしてるって話してたら、今朝、お母さんがふたりぶんのお弁当作ってくれて、マリちゃんにあげてって」
「マジで? 本当、もらっていいの?」
「うん。ミカンのお返しだって」
「やったー! ありがとう。おばさんにもお礼言っといて。本気でうれしいわ~」
「迷惑じゃなかった?」
「全然、大歓迎。実はね、けっこう困ってたのよ。昨日一日、お母さんいない生活をしてみて、晩ごはんは別に夜遅くに食べても困らなかったんだけど、お昼だけは、昼休み時間に限られてるしねえ。購買部じゃろくなものが買えないから、自分でお弁当作ってみようかとも思ったんだけど、たまご焼き作るフライパンが台所のどこにあるのかもわかんなくって」
「マリちゃん、たまご焼き作れるの?」
「へ? あんなの簡単よ。あの四角いフライパンのなかにタマゴを割ってぐちゃぐちゃ~ってかき混ぜるだけでしょ?」そう言いながらマリは菜箸でかき混ぜる仕草をした。
「………とりあえず、お弁当食べよっか。どこで食べる? 二組の教室に一緒に来る?」
「いやあ、さすがによそ様の教室はちょっと肩身が狭いわあ。って、それはカズコちゃんも同じよね。昼になってちょっと暖かくなってきたし、グラウンドのほうに行ってみない?」
「うん」
校舎から外に出ると、風はほとんど吹いておらず、空には魚のうろこのような形の白い雲がまばらに浮かんでいた。軽さを帯びた昼の光が、誰もいない校庭を土の色に照らしている。
中庭の、ケヤキの木に下のベンチは昼食を食べるのに絶好の場所だったが、すでに座っている一組の男女がいた。遠目にぱっと見たところ、そのカップルはまだふたりとも顔に幼さが残っていて、おそらく一年生。
「やっぱり、あそこは先客が居たね。体育館前にでも行こうか。あそこならいつも誰もいないし」とマリは言った。
「うん」
ケヤキの下の一年生は女子のほうがひざにお弁当を乗せて、「はい、あーん」などと言いながら食べさせあいをするという、絵に描いたようないちゃつき方をしていた。
「ねえ、マリちゃんもあんなこと、してみたい?」とカズコがひそひそ声で言った。
「いやあ……。あれはさすがに、できん。恥ずかしいわ。周りを気にせずあそこまでやれるのって、若さの特権よね。私はやっぱり、ご飯を食べるときは本能むき出しでガツガツ食べないとおいしくないわ」
マリとカズコは体育館と運動場の境目の、コンクリートが段差になっている部分に、横に並んで腰を下ろした。弁当の中身は当然だが二人とも同じものになっており、俵型のおにぎりに、小ぶりの鶏むね肉のカラアゲ、タコのウインナー、ジャコとツナを巻いたたまご焼き、ブロッコリーの味噌あえだった。
「わあ、おいしそう。カズコちゃんのお母さん、料理上手だもんねえ。いっただきまーす」
マリは最初にブロッコリーに箸をつけた。口に入れてすぐに、
「わぁ。おいしい。何これ。何か、ちょっといいにおいするよ」
どれどれ、と言いながらカズコもひとつ食べた。
「ああ、これは柚子味噌ね。うちのお母さん、これたくさん作って冷蔵庫に入れてるのよ」
「へえ。いいなぁ。うちのお母さんなんて、本当にダラ嫁でしぶしぶ家事やってるって感じだからなあ」
カズコはもう一口、ブロッコリーを食べた。
「マリちゃんのお母さん、いつ帰ってくるか、決まった?」
「それがね、昨日カズコちゃんが帰ったすぐ後に国際電話があったんだけど、ちょっとギックリ腰って英語で何て言うのか調べてくれ、とか言ってくるのよね。そんなの、和英辞典に載ってるわけないじゃない。まあ、お父さんのほうは寝てりゃそのうち治るらしいんだけど、お母さんはもう観光する気満々らしいから、予定を切り上げて帰ってくるってことはなさそう」
「そっか。寂しくない?」
「ぜーんぜん」
マリはタコのウインナーを箸で突き刺した。そしてそれを、カズコの口のほうへ持って行き、
「はい、あーん」と言った。
「ちょ、何するの。さっき、自分で恥ずかしいとか言ったばっかりじゃない」と言ってカズコは首を横に振った。
「いいじゃん、いいじゃん。ちょっとだけ」
「誰かに見られちゃうよ」
「誰も見てないって。はい、カズコちゃん。あーん」
カズコは頬を赤くしながら、まるでキスでもするかのように目を閉じて口を小さく開けた。
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