1994/10/19 side”B” AM09:41

 左腕から全身を巡るしびれに一瞬意識を失ったが、マリは自分が椅子に座っている体勢になっていることをすぐに認識した。周囲からは、休み時間におしゃべりをしているクラスメートの声が聞こえてくる。

 まるで朝起きたときのように、大きくまばたきをふたつした。

 頻繁にタイムリープを繰り返すマリでも、こんなに短い時間を”飛んだ”のは、あまりやったことがない。机の下でこっそり腕時計を見ると、「09:41 00」の表示になっていた。もちろん、絶えず時間の表示は進んでいる。

「なあ、頼むよ、少しだけだから。ほかの人には相談できないんだ」

 そう聞こえてきたので、マリは腕時計から視線を外して顔を上げた。マサシが、不安げな表情でマリを見ていた。

 これからマサシが何を言おうか知ってしまっているマリにとっては、耳を覆いたくなるような気分だった。もう二度と聞きたくないし、二度と聞かないために”飛んで”来たのだ。

 マリの眼光が、あまりに鋭く憎悪すら感じられるものだったので、マサシは半歩ほど後ずさりして少し身構えた。

「少しだけ……」と繰り返したマサシに、

「言わなくてもわかってるわよ。自転車の二人乗りのことでしょ」とマリが割り込むように言った。

「な、なんで知ってんだよ……。お前、超能力使えるのか?」

 マリはさすがに少し気まずい顔をしたが、勢いで押し切るように

「昨日、商店街の近所にいたでしょ。私が気づいてないとでも思ったの? 気づかないふりしただけよ。それで、ほかには何か?」と高圧的に言った。

「いや、別に……」

 マリのあまりの剣幕にマサシはひるんでしまい、目的を達せないまま自分の席へ帰って行った。

 マリは不愉快なことや不安なことがあると、なぜか子供のころに聞いたアニメのエンディングテーマが頭のなかを流れるのだった。そのアニメ自体は大好きだったのだが、きっと大好きなアニメが終わることを告げるその曲が、マイナスの感情とリンクしていると自分で思っていた。

 このとき、頭のなかでその曲が大音量で流れ続けていた。

 カズコとマサシが並んで歩いてるところを、もし自分が逢沢マリでなければ、きっとお似合いのカップルなどと思うのかもしれない。両者とも、頭が良くて美男美女で、努力家。

 しかし、マリはマリだった。何があっても、そんなこと許せるわけがない。

 マリの机から去って行くマサシの後ろ姿を見て、

「ふんっ!」と大きな声で言った。

 その一部始終を近くで見ていた隣の席の新田ユミコが、

「あの、逢沢さん」と遠慮がちにマリに声を掛けてきた。

 マリとユミコはふだん、それほど仲良くしてるわけではない。学校以外で会ったことも一度もないが、同じクラスで、席が近所のよしみでそれなりに世間話をするといった具合だった。もちろん、お互い嫌いあってるわけでもない。

「何?」顔をユミコのほうに向けながら言った。さっきの勢いがまだ削がれてないのか、少し口調が雑になってしまっている。言ってからマリは反省した。

「逢沢さんと司馬君って、最近よく話してるよね。昨日も、何か進路のこと相談してたみたいだし」

 マリは丁寧な口調を心掛けながら、

「相談とはちょっと、違う。あっちが勝手に話しかけて来てるだけ。私はできれば、あんなやつとは関わりたくないんだから」

「そうなの? 司馬君って、ほら。女子のあいだで人気高いし、私なら話しかけられたら、ちょっとうれしいだろうなって思っちゃうけど」

「本当?」

 その気持ちは、当たり前だがマリにはさっぱり理解できない。

「司馬君のファンって多いみたいよ。特に年下の女の子に。あれだけかっこよくてモテそうなのに、浮いたうわさがひとつも出ないけど、それが逆に女子のあいだでさらに人気を高めることになってるみたいよ」

 昨日、カズコを通じての又聞きではあるが、マリも二年生のあいだでうわさになってるとかなんとか聞いたのを思い出した。ただ単に年上というだけであこがれてるだけなんじゃないだろうか。ようするにテレビのアイドルと似たようなものなのだろう。

「何か、司馬君を嫌う理由でもあるの?」とずばりと聞かれた。

「特に、ないよ。それと、別に私、司馬のこと嫌ってるわけでもないから」

「ひょっとして、司馬君が好きな人って、逢沢さんなのかもしれないよ」

 マリは上半身をがばっとのけ反らせるように起こした。そして、

「な、な、何、言ってんのよ! ないない。それは絶対にない。ないから。有り得ない。気持ち悪い」とムキになって否定する。

「そこまで否定しなくても……。ごめん。私、軽口叩いちゃったかな。ちょっとした冗談のつもりだったんだけど」

 ユミコは、マリの態度の変わり方に少し引いてる様子だった。”飛んで”来る前の出来事に気持ちが昂ってしまって、自分でも感情を持て余している。

「いや、私のほうこそ、ごめん」

 お互いに「ごめん」と言い合ったせいか、雰囲気が少し暗くなって気まずくなってしまった。腕時計を見ると、午前九時四十八分だった。あと二分足らずで休憩時間は終わる。気まずさをごまかすために、マリは話題を変えることにした。

「次の授業、なんだっけ?」

「物理よ」

 それを聞いてマリはわざとらしく頭を抱えた。

「うわっ。マジっすか~。担任の授業だと、寝てたら容赦なく叩き起こして来るんだよなぁ。せっかく今日はずっと寝ようと思ってたのにぃ」と冗談めかして言った。

「逢沢さん、家で相当、勉強してるでしょ。いつも授業中、寝てるのにあんなに良い成績取れるのって、うちの学校の七不思議のひとつになってるみたいよ」

「失礼ねえ。いつも寝てるわけじゃないわよ。ちゃんと三分の一は真面目に起きてるんだから」

 マリは机のなかから、入れっぱなしにしてある教科書のなかから「物理Ⅱ」と書いてあるものを探した。使うことはないだろうが、いちおうほぼ新品の大学ノートも取り出した。

「私が成績良いのは……、運がいいのよ。たまたま一夜漬けで覚えたところが、ドンピシャで出るってだけ。だから私、実はかなり頭悪いのよ。典型的な運動バカってやつね」とマリが苦笑しながら言った。

「物理Ⅱ」の教科書といっしょに、「物理Ⅱ 演習」というタイトルの付いた受験問題集もいちおう机の上に置く。マリのこの問題集は、表紙のちょとした汚れなどを除けば、受験生にはあるまじきほぼ新品の状態だ。

「でも逢沢さんならきっと大学は推薦枠もらえるだろうし、今さら成績なんて気にしなくてもいいよね。うらやましいわ」

「まあね」と言ってマリは右手の親指を上に突き上げた。

 教室のなかにチャイムが響くと同時に、いつものようにきっちりとしたスーツ姿にポニーテールの中村先生が入ってきた。

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