AM09:42
早朝のなごりを強く残した長い廊下は寒々としていて、誰もいなかった。教室と廊下を隔てる窓はぜんぶ閉められていた。白い光が外の樹木を照らしていて、葉の緑が廊下に差し込んで来ていた。少しまぶしいくらいに感じる。
「なによ。早くしてよ。私、寝るんだから」とマリは言った。
「逢沢。お前、いつも寝てるよな。授業中も。でも、なぜか成績一位なんだよな」
お前などと言われて、マリはさらに不愉快になった。今までそんなふうに呼ばれたことなど、両親にさえ一度もないのに。この男、いったい自分を何様だと思っているんだろう。
「あなたに関係ないでしょ。用件を早く言って」
「うん……。あのさ、昨日見ちゃったんだ。お前、自転車で二人乗りして帰ってただろ」
「う……」という声が漏れて、それに続く言葉をマリは探した。
そのうち誰かに見られるとは思っていたが、それをわざわざ言いに来る人物が教師以外にいるとは考えてなかった。
「何よ、二人乗りしちゃ、悪いの?」
「悪いに決まってるだろ。開き直るなよ」
「で、私にどうしろって言うの? 先生にチクりたければ、どうぞ。お好きにすれば。小学生みたいに、せえんせえ~逢沢さんが悪いことしてますう~、って言いに行きなさいよ」
「突っかかって来るなよ。そんなことしないよ。俺の家、あの近所だから、たまたま通りかかってるところを目撃したってだけだよ」
「じゃあ、何なのよ。はっきり言いなさいよ。男らしくない」マリは挑発するために、あえてそんな言い方をした。
さすがにマサシもムッと表情を硬くした。そして意を決したかのように、
「お前と一緒に自転車に乗ってたの、島田さんだろ。二組の」と言った。
「そうよ」
マサシはひとつ小さく呼吸を吸った。それにあわせて肩が少し上に上がって、下りた。
「逢沢って、島田さんと仲良いよな。よくふたりで一緒に居るところ、見るし」
「家が近所なのよ。カズコちゃんとは小学生からの友達で、幼なじみの親友ってとこね」
「島田さん、彼氏いるの?」
「ハァ??」あまりに想像からかけ離れたことをマサシが言ったため、思わずそんな声を出してしまう。
「いや、だからさ……。島田さん、彼氏いるのかなって。逢沢だったら知ってるだろって思って……」
マサシは日焼けた顔から首までを、真っ赤にしていた。唇は少しふるえてさえいる。まぎれもなくそれは片思いをしている男子高校生の姿だった。
「なんで、そんなこと知りたいのよ」とマリは抗議するように問い詰めた。
「いや、その、別に……」と最初は言葉を濁していたが、「俺、島田さんのことが好きなんだ。だから、その、実は……告白しようと思って」
マリはそれを聞いて、怒るというよりも呆れてしまった。文字通り、開いた口が塞がらないという状態になった。その相談をする相手としては、いちばん選んではならない人間を選んでしまっている。知らないから仕方がないとはいえ、これほど間抜けなこともあるまいと、少しかわいそうにさえ思った。
そんなマリの内心を知り得ないマサシは、話を続けた。
「あのさ、俺、お前に一度も成績勝ったことないじゃん。だから、来週からの中間、本気で勉強して、お前に勝って一位になれたら、島田さんに告白しようと思うんだ。島田さんも、その、すごい成績優秀だから、きちんと勉強して、ふさわしい男になって……」
聞きながらマリはため息しか出なかった。あまりに有り得ないことを前提にしすぎている。本当のことを全部教えて、マサシを楽にしてあげようかとも思ったが、それはそれで残酷な気がした。
「何よ、その超時代錯誤な願掛けみたいなの。まあ、勝手にすれば?」
「そんな言い方、しなくてもいいだろ。やってみなきゃ、わからないじゃないか」
「わかるわ」マリはきっぱりと言い切った。「あなたは私に成績で勝てないし、もし万が一勝ってカズコちゃんに告白しても、結果は見えてる。悪いことは言わないから、止めときなさい。あなたのために言ってるの」
あまりに毅然と断言するので、マサシはひるんで絶句してしまった。
「で、教えてくれないのかよ」
「何を?」
「彼氏、いるかどうか」
マリは大きく息を吸い込んで、
「彼氏は、いないわよ」と言った。
マサシの顔を見ると、それを聞いてなんだかホッとしたような表情をしていた。マリはマサシを睨み付けて、「ふんっ」と小さく言った。
「で、話って、それだけ? それじゃ私は寝るから、もう邪魔しないで。せいぜい、お勉強がんばってね」
マリは振り向きざまに腕時計に手を当てた。この程度のことだったら、タイムリープしなくても良さそうだが、聞きたくないことを聞いてしまって、後悔とも違う何とも名状しがたいモヤモヤした気持ちが胸の中を支配した。自分の恋人が、あの男に汚されてしまったかのような嫌悪感を覚えた。
今のマサシの台詞を聞いていない世界に、どうしても戻りたかった。腕時計の液晶を見ると、すでに数分経過しているはずだが「09:40 56」で止まっている。
マリはためらわず腕時計の下のボタンを押した。いつものように全身を電流が走ったようなしびれが襲った。
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