1994/11/02 PM17:33

 意識を取り戻したら、懐かしい風景が目の前に広がっていた。商店街の前のタバコ屋。その隣の小さなおもちゃ屋。

 いつのまにか、リビングのソファーで眠ってしまったらしい。夢を見てるんだ。ずいぶんと自分勝手な夢。壊れていたはずの腕時計が急に動き始めて、あのころにタイムリープする夢。私、高校三年のあのころに戻ったんだわ。若いころの私、かわいかったのよ。マリカに直接、見せてあげたいわ。ほら、こんなに……。

 売れ残りのフラワーロックが飾られているショウウインドーに、マリは自分の顔を映した。

 しかし、そこに映っていたのは、三十九歳の自分の姿だった。しかも、足には部屋のスリッパを履いたまま、道端に立っている。

「え? 何よ、これ」と大きな声で叫んでしまった。「夢でしょ。冗談やめてよ」

 タバコ屋のカレンダーを見てみると、「94年11月2日」になっていた。夢じゃない。自宅マンションのリビングから、二十一年前にタイムリープしてしまった。

 壊れていたはずのあの不思議な腕時計が、なぜかもう一度だけ動いた。

 店の人が変えるのを忘れてなければ、そのカレンダーがきっとそれが今日の日付なのだろう。文化の日の、一日前。忘れるはずもない、カズコの命日。

 思い出したように、液晶の割れた腕時計を見る。「17:34 22」を表示していたが、腕時計はすぐに、まるで空気に溶けるように徐々に薄くなって行き、やがては完全に消えてしまった。右手にはめていた手袋も、同じく消えた。

 ここはカズコが事故に遭った現場のはずだ。あたりに騒ぎは聞こえないので、まだ事故は起こってない。きっと、すぐ近くにカズコがいるはずだ。

「すみません。近くで、背の高い女の子見かけませんでしたか? 高校三年生で、黒い髪の毛をツインテールにしてて……、たぶん、自転車に乗ってる。その子、これからここで事故に遭うんです。どうしても助けたくて……」

 居ても立ってもいられず、通りすがりのサラリーマンらしき人に、そうたずねてみたが、まるで不審者を見るような目で見られて、「知らねえな」と言われてしまった。

「あの、すみません。女の子見ませんでしたか、背の高い……」

 繰り返し道行く人に聞いてまわりながら、マリはカズコを探したが見つからない。

 まだこの辺りには来てないのだろうか。そう思って、学校のほうへ通じる商店街の前の細い道に向かうと、角の向こうから声が聞こえてきた。

「勝手なこと言って悪いけど、もうこんなことやめよう。俺、最近いっしょに居るようになってやっと気づいたんだ。本当は、島田さんがほかに好きな人がいるってこと」

 塀に隠れてマリはその声が聞こえてくるほうを、こっそりと覗いてみた。

 後ろ姿しか見えなかったが、自転車のハンドルを持って、カバンから編み棒をはみ出させているその姿は、紛れもなくカズコだった。そして、マサシも一緒に居る。

「なんで、そんなこと言うの。私、本当に司馬君のことが好きだから、お付き合いするって決めたのよ」

「ウソつくなよ。わかってるんだ。島田さんが好きな相手が誰なのか俺は知らないけど……、それが俺ではない誰かってことだけは、わかってる。中途半端な気持ちで付き合われると、俺のほうも迷惑だよ。嫌いだったら、嫌いって言ってほしい」

「………」

「今、島田さんが編んでるその手袋だって、本当に好きなやつにあげるんだろ。違うんなら、それ俺にちょうだい」

「それは……」

「ほら。それが、本当の島田さんの気持ちなんだ。もう、自分にウソ吐くのやめなよ。じゃあ、そういうことだから。短いあいだだったけど、ありがとう。感謝はしてる」

 マサシが引き返して、学校のほうへ向かって歩いて行った。そしてカズコは手に自転車のハンドルを持ったまま狭い道を百八十度回って、こっちに向かってくる。

 なぜかとっさに「ヤバい」と思ってしまったマリは、塀から後ずさりして五メートルほど下がってしまった。

 カズコの自転車の前輪が見えて、少しずつその全体が見えてくる。そして、二十年以上の時を経て、何度も夢見た最愛の人が再び目の前に姿を現した。

 今すぐにでも抱きつきたい。その頬に、その胸に、その肩に。でも、今の私はもうあのころの私の姿ではないのだ。私にだけ襲い掛かってきた時間の流れは、あまりに残酷に私の姿を老いさせた。きっとカズコだって、私のことをただの通りすがりの変なおばさんとしか認識しないだろう。

 そう思って、涙を抑えつつ、ただ地面を見つめていた。

「お・か・え・り」

 カズコはマリの目をしっかりと見据えて、微笑みながら言った。

 マリはカズコを飛びつくように抱きしめた。カズコも両腕でしっかりとマリの身体を抱いた。手が離されたので、カズコの自転車が横に倒れて、ガシャーンという大きな音を立てた。抱き合うふたりの横を、大型のトラックが通り過ぎて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る