AM08:32
マリは中村先生に腕を引っ張られながら連れて行かれた。途中、「まったく、朝から騒ぎ起こさないでよね。いくらなんでもあれはやり過ぎだわ」と心底不愉快そうに言った。
物理準備室に入ると中村先生は、打って変わって優しい表情になり、
「辛かったわね。ここなら誰も来ないから、好きなだけ泣きなさい」と言った。
中村先生はマリをやさしく抱きしめた。
「辛いときは、世界を受け入れることができるようになるまで、泣いてていいの。立ち止まってていいの。哀しみが永遠に続くようだったら、永遠に泣けばいいの」
マリの流した涙が、中村先生のスーツにしみ込んでいく。
「あなたたち、辛いのによく頑張ったわ。本当に、よく頑張った。教師の役割は、生徒が本当の自分の幸せを追求できるように、その環境を作ること。……私は、それができなかった。逢沢、私を責めてちょうだい。私に怒ってちょうだい。本当に、ごめんなさい」
二時間近く泣いて、泣き止んだら、中村先生は大きなマグカップにインスタントのコーヒーを入れてくれた。まるでカズコに抱かれたときのような温かさが、身体のなかに広がった。
ようやくマリは、昨日の夕方から今までの半狂乱の自分の姿を思い出して、恥ずかしがることができるくらいには我を取り戻した。泣きすぎて酸欠状態になった頭に酸素を送り込むため大きく息を吸い込むと、徐々に視覚や聴覚などの五感が自分のものに戻ってくるような感触がした。
「先生、すみません。ご迷惑ばかりおかけして……」
「まあ、私が今まで教師をやってきたなかで、ぶっちぎりの問題生徒であることはまちがいないわね」と中村先生は笑いながら言った。「あとで、ちゃんと司馬に謝っておきなさいよ。どうやったら、平手打ちであそこまで血が出るまで殴れるのよ。私が中学生くらいまでは、教師は指導のためなら生徒に平手打ちをしてもいいって風潮が残ってて、今でもやる先生がいないでもないけど……、あなたぜったい教員になっちゃダメよね」
「なりませんよお。仮になっても、平手打ちなんてしません」
「うふふ。どうかしらね」
「先生」とあらたまってマリが言った。「あの、並行世界の話」
「うん。まだ何か疑問があった?」
「あの話が本当だとすると……」そこまで言ってマリは言いよどんだ。
「うん」中村先生はカズコが次の言葉を発するのをじっと待った。
「あの話が本当だとすると……。どこかに、カズコちゃんが事故に遭わずに今も生きている並行世界が、どこかにありますか?」
中村先生はそれを聞いて、カップのコーヒーを飲んだ。
「そうね。そういうことになる。でもその一方で、もっと不幸な並行世界も、あるってことになるわ」
「いいんです。それを聞いて、安心しました」マリははっきりと言い切った。「どこか別のところで、カズコちゃんと再会して、仲直りして、一緒に過ごすことができてるなら、私は今のこの世界を受け入れることができそうです。今の私にできることは、一瞬一瞬を大事にして、精いっぱい生きること……。カズコちゃんが、私にそう教えてくれました」
「そう。それがきっと、正解よ。……ひょっとしたら、誰も不幸にならない、誰もが幸せになれる並行世界っていうのもどこかにあって、その場所を昔の宗教家は天国って呼んだのかもしれないわね。きっと最後はみんなそこに辿り着くのよ」
マグカップに入ったコーヒーの表面に、自分の顔が映っている。少し手を動かすと、弧の形をした波紋が出来て、消える。
自分の都合で、たくさんの平行世界に置き去りにしてきた私は、今何をしてるんだろう。マリはそんなことを思った。カンニングするためにテストで悪い点を取ってその世界に置き去りにされた私。自転車で転んで、ケガをした私。ちょっと気に入らないことがあったからって、すぐに戻った私。私のわがままを満たすために、置き去りにされた私。
その、たくさんの自分のことを思って、マリは自分に申し訳ない気がした。カズコが繰り返し、タイムリープすることをたしなめた意味がようやくわかった。
人間は、与えられたその時々をせいいっぱい生きなければいけない。
どんなに残酷でも、今の自分がここにいるこの世界で。
「あのね、逢沢」と先生が言った。「時間とか、空間って、そんなに確かなものじゃないの。時間とは何か、空間とは何かって聞かれて、誰も答えることができないの。ただひとつわかってるのは、時間も伸びたり縮んだりするってこと」
「時間が……伸びる?」
「そうよ。強い重力が働くところでは、時間がゆっくり流れる。数学的には『テンソル』っていうベクトルをもう二周りくらい拡張した概念で記述するんだけど、アインシュタインが定式化して、実験でもそれは確認されてる。だから、ブラックホールに近づいて、その巨大重力を利用して未来に行くタイムマシンを作ろうなんて話も、理論上は可能なのよ」
「ブラックホールまで、どうやって行くんですか?」
「さあ……、知らない」
先生とマリは同時に声を上げて笑った。
「私が言いたいのは、私たちはまだ、何もわかってないってこと。何がわかってないかも、わかってない。それは情けないことではあるけど、そこにはきっと希望があるのよ」
「はい!」
マリは残りのコーヒーを一気に飲んで立ち上がった。教室に帰ろうかと思ったが、マリには懺悔しなければならないことがある。
「あの、先生……。私、言わなければならないことが……」
「言わなくてもいいわ」先生が言葉をさえぎった。
「え?」
「あなたがテストでカンニングしてたことくらい、知ってます。他の先生はどうか知らないけど、私にはバレバレよ。いったいどうやってやってたのか知らないけど、相当巧みよねえ。いつか尻尾をつかんでやると思って目を光らせてたんだけど、ぜんぜんわからなかったわ」
「それじゃ……」
「疑わしきは罰せず、それが社会のルールよ、優等生さん。黙っといてあげるから、今まで取った成績に恥じないように勉強しなさい。並大抵の努力じゃ、追いつかないわよ。何せあなた、三年の二学期まで連続ぶっちぎりの一位なんていう、前人未到の大記録を残したんだから。ここでその記録を打ち止めにしてくれた司馬に、感謝しなさいよ」
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