最終章
1994/11/06 PM15:00
日本の空港に帰ってきたマリは、荷物を受け取ると、スーツケースのなかに仕舞っておいたコートを引っ張り出して羽織った。シンガポールは想像してたよりは暑くはなかったが、日本の秋とは比べるまでもない。
一週間ぶりの故郷は、熱帯に身体が慣れたせいかひどく寒く感じた。それとも、この数日で一気に気温が下がったのだろうか。
母が電話で言ったとおり、すっかり父は元気になっていて、むしろ少し太って健康的になったのではないかと思うくらいだった。
滞在した一週間はすべて、ろくに言葉もわからないのにほぼ現地人と化して、日本人向けに観光案内でも務まりそうなほどシンガポールに詳しくなっていた母に引きずり回された。MRTという小型の電車の乗り方は、母が教えてくれた。
「せっかく来たんだから、有名なマーライオン見てみたい」とマリは母に訴えたが、
「あんな出来損ないのイワシなんか見てもつまんないわよ。ほかにもっといいところいっぱいあるんだから」と母は言って、マリをセントーサというところへ連れて行った。
小さな国だったが、青い目をしたアングロサクソン系の人や、英語能力はマリとほぼ同等くらいしかない東南アジア人系の露天商など、いろんな人種、いろんな言語が混じった不思議な空間だった。
身振り手振りだけで、時に奇跡的にコミュニケーションが通じる瞬間が爽快だった。時折、中国語だが漢字で書かれた看板や、日本人らしき観光客の姿が目に入ってくると、なぜか少しだけ安心感を覚えた。
母はマリを呼びつけたのを「進路の相談」と言っていたが、それに留まるものではなかった。すっかり現地が気に入ってしまった母が将来的にはこっちに移住したいと言い出し、父が、「それならいっそのことマリもこっちに住むようにしたらどうか」と提案したのだった。形としては、現地の大学に留学するということになる。
もちろん即答できる類の話ではないが、いずれにしてもなるべく早く答えを出さなければならない。マリはその父の提案を聞いて、ここ最近の辛い気持ちを一端リセットするためにも、自分のことを知っている人がひとりもいない場所で再出発するのも悪くないと思った。
帰国する時はてっきり母と一緒に帰るものとばかり思っていたが、母は子供のようにゴネて、
「やだやだ。帰りたくない。もっとお父さんのそばに居たいのよ。だって、こんなにも愛してるんだから」とわけのわからない理由で滞在を延長することを父にねだった。
仕方ないのでマリはひとりで帰国することになった。
空港からずいぶん長い時間タクシーに乗って、ようやく自宅前まで到着した。一万円札で料金を支払って、お釣りを受け取る。いつものクセで、今何時だろうと思うとつい左腕を見てしまう。
鍵を開けて久しぶりの我が家の玄関を通った。出発する前に下駄箱の上に置きざりにしていた腕時計を見てみると、「16:44 03」の表示だった。空港にはちょうど午後三時に着いたので、タクシーに一時間半ほど乗っていたことになる。
「オカエリ、オカエリ」とエヴェレットが繰り返す。
鳥かごを見ると、エヴェレットはまだエサを残していたが、古くなっているのかエサ箱からにわかに異臭がした。
「ただいま。ごめんね、いい子にしてた? 荷物かたづけたら、お水と新しいエサあげるからね」
母がそれを意図したわけではないだろうが、短い旅行はとにかく沈んだマリの気分転換にはなった。明日からは、学校に通って家に帰る重い日常を繰り返さなければならない。
「オカエリ、オカエリ。カエリ、………カズコノハハデス、……ズコノハハデス、カズ…ノ……ハハデス」いきなりエヴェレットが、それまで発したことのないような言葉をしゃべった。
「何言ってんの。どこでそんなの覚えたのよ」
下駄箱の上の留守番電話が、「伝言アリ」のボタンを点滅させている。マリは再生ボタンを押した。電話機のなかにセットされた小型の録音テープが巻き戻されてから、残されたメッセージの再生を始めた。
「件数、八件です」
「十一月二日 午後十一時三分 ピー もしもし。マリちゃん、留守にしてるのかしら。カズコの母です。また電話します」
「十一月二日 午後十一時三十六分 ピー 島田カズコの母です。まだ帰ってきてませんか。もし聞いたら、電話ください」
間もなくマリは、カズコの訃報を知った。
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