PM17:19
マリは定期券を提示して、いつもより少し遅く到着したバスから降車した。
「ご迷惑おかけして、すみませんでした」降りる際に、運転手にそう謝罪した。
「もう、だいじょうぶ?」と運転手が言う。
「はい。ありがとうございました」
バスのなかで、一生分の涙を流したんじゃないかというくらい、マリは泣き続けた。狭い車内に響き渡る嗚咽は、ほかの乗客にさぞ迷惑だっただろうと今さらながら反省した。乗車してくる客が少なかったのが、唯一の救いだった。
まだ鼻水は止まらないが、とりあえず涙は枯れたようだった。
停留所から自宅までの短い帰路を歩みながら、マリはこれからどうすればいいのか考えていた。カズコはきっと、マサシを愛するようになる。少なくとも、そのふりだけはする。
バスのなかで泣きじゃくっているとき、「今のままじゃ、誰も救われないよ」と言ったカズコの台詞が耳のなかで何度も反響した。
おそらくそれが、事実なのだ。マリもカズコも一人っ子で、育ててくれた親に恩返しをしようと思ったら、いつか本当の気持ちを隠して生きていくしかなくなる。
カズコはマリのことをすべてわかった上で、いちばん辛い選択をした。
友達として関係を続けるのは、難しいだろう。辛くなるばかりだ。マリはこれから、自分に対しても、カズコに対しても、心を鬼にして接しなければいけない。そう決心した。
ひどく不本意な終わり方だが、自分の初恋はこれで終了したのだ。そもそも最初から無理があった恋だった。それはわかっていた。いつかは終わらなければならない「いつか」が、今やってきた。ずいぶんと泣いたせいか、気分が少しさっぱりする。
玄関の前に立ち、カバンのなかに手を突っ込んで家の鍵を探していると、扉を隔てて電話の音が鳴っているのが聞こえた。この時間だとどうせまた、化粧品の勧誘の電話だろうと思って、マリは急ぐことをしなかった。
鍵を回してドアを開いたら、エヴェレットが「オカエリ、オカエリ」と何度も繰り返した。まだ電話は鳴り続けている。放っておけばそのうち留守番電話に切り替わるが、マリは受話器を取った。
「もしもし、逢沢です」
”Hello. Hisako Aizawa is calling you collect.Will you accept this call? ”
電話オペレーターの早口の英語が、遠慮なくマリの耳に飛び込んできた。母の名前と「コレクト」という単語が聞こえたため、母からの国際電話だということがわかった。
「え、あっ。そんなに早くしゃべらないでよ。イエス、イエスです。イエス」
五秒ほどの沈黙の後、
「もしもし、マリちゃん。元気にしてる?」という母の声が聞こえてきた。音は国内の電話と違って少しノイズのような音が混じっていて、ぼやけて聞こえる。
「お母さん」と一度つぶやいてから、「元気にしてる、じゃないわよ。いったいいつ帰って来るの! もう二週間くらいになるでしょ」とわざと怒ってるふりをした。
「ごめん、ごめん」
「お父さん、どうなの? まだ悪いの?」
「ううん。ピンピンしてるわよ。もう仕事にも行ってるし」
「じゃあ、なんでお母さんまだそっちに居るのよ」
「いいじゃない。ちょっとくらい。こっちはこっちで、いろいろ忙しいのよ。で、どう? ちゃんとご飯食べてる? 何か足りないもの、ない?」
「特に問題ないけど……。で、何? 電話代高いんでしょ。用件はそれだけ?」
「あっ、えっとね、じゃあ、手身近に用件を言うわね。マリちゃん、こっち来ない?」
「はぁ?」
「あのね、お父さん、今年のクリスマスは日本に帰れそうにないから、今お母さんがこっちにいるしちょうどいいから、マリちゃんもこっちに会いにこないかっていう話してたのよ」
「そっち行くって……、いつよ?」
「来週」
「そ、そんな急に。いったい何考えてんの。だいたい、まだ学校あるのよ、私」
「パスポートは前にお母さんと同時に取ったのがまだあるわよね。たんすの横の引き出しに入ってるはずだから。飛行機はそっちの、トシコ伯母さんに頼めば手配してくれるから、来週の月曜日においで。知ってるでしょ? 隣の市のトシコ伯母さん」
「ちょっと、勝手に話進めないでよ。学校あるって言ってるでしょ」
「休めばいいじゃない、少しくらい。親より大事な学校なんて、この世にあるわけないでしょ。お父さんも、あなたの進路のことで相談したいって言ってるし」
進路のこと、と言われると何も言い返せなかった。松山文科大学の国文学科に行きたいということは両親に伝えていたが、そのうちいつか、志望を変えたことを伝えなければならない。一般受験で合格することはまず有り得ないことは、マリが一番知っている。そして、そもそもカズコと同じ大学に行く理由も、もはやなくなった。
「うん……」
「よし、決まりね。詳しいことはトシコおばさんから聞いてね。学校のほうも、うまいこと言っておくから。それじゃね」
「ちょっと、待ってよ。おかあ……」
電話はすでに切れていた。気まぐれで豪快で大ざっぱななところは、やはり自分は母に似てるなとマリは思った。
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